魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(8) 倭人、倭国とは何か

 魏志倭人伝の冒頭「倭人在帯方東南大海之中」とあるが、この時期よりずっと以前から倭人帯方郡の東南の大海中、すなわち日本列島に居たわけではない。例えば、鳥越憲三郎氏は『古代朝鮮と倭族』(中公新書の「はじめに」の中で次のように語っている。「稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれ、先住の縄文人を征して「倭国」を形成した。彼らの渡来は紀元前400~450年頃の縄文晩期と見られている。ところが、同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。『論衡』によると…」「中国大陸にいたという倭人は、一体どこに住んでいたのであろうか。その倭人の住地を探し求める調査研究の結果、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、いくつもの倭人の王国があったことを知った。」「彼ら倭人新石器時代の初めごろ、雲南省の滇地か、または周辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に成功したとみられる。生産様式の異なりは、それに伴って特殊な文化を育成するが、その文化的特質の中でもっとも顕著なものは、水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案したことである。」「彼らはその稲作と高床式建物を携え、雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへ向けて広く分布した。」「それらの倭族の中で、長江を通じて東方に向かった一団の中から、さらに朝鮮半島を経由して日本列島にまで辿り着いたのが、日本における弥生人、すなわち倭人である。」


 佃氏は、倭人を記録した最古の史書後漢の王充が書いた『論衡』であろうと、倭人のルーツと渡来ルート』復元シリーズ1(p.281)の中で述べている。「周時、天下太平。越裳献白雉、倭人貢鬯草。」(『論衡』「儒増篇」)(訳)<周の時、天下は太平。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(香草)を貢ぐ。>「成王時、越裳献雉、倭人貢暢。」(『論衡』「恢国篇」)(訳)<成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢を貢ぐ。>この2つの記事は同じものだろうと、佃氏は述べ、周の2代目の成王の在位は前1115年~1106年であるから、紀元前12世紀に倭人周王朝に鬯草(香草)を貢いでいる、とする。
前の項で、『魏略』には、倭人は呉の太伯の後裔であると書かれている、と述べた。それを確認してみよう。「聞其旧語、自謂太伯之後。昔、夏后少康之子、封於会稽。断髪文身、以避蚊龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」(『魏略』)(訳)<昔からの言い伝えを聞くに、自ら(呉の)太伯の後裔であるという。昔、夏后少康の子が会稽に封じられた時、断髪し、文身(入れ墨)し、蚊や龍の害を避けた。今倭人も亦文身し、以って水害(魚類等の害)を厭うなり。>魏志倭人伝と同じように、倭人が文身(入墨)することを述べているが、同時に、倭人は、呉の太伯の後裔である、と述べている。佃氏は続いて、『史記』呉太伯世家に書かれた呉の太伯についての記事を示す。この記事については、前の項(7)で、その訳を書いた。太伯は没したが子がなかったので弟の仲雍が立ち、その3代後に周の武王が殷王朝を倒す。武王の次が成王であり、呉の太伯は周王朝が樹立される約100年位前の人物であると、佃氏は語る。


 倭人は呉の太伯の後裔であり、太伯の約100年後に、倭人は周の成王に朝貢している。「越裳献雉、倭人貢暢」とある様に、越と一緒に朝貢している。倭人は、越の隣の呉に居た。多くの論者(木佐敬久氏など)は、この倭人を日本列島に居たと解釈し、この時期、日本列島から周に香草を朝貢したとしている。しかし、『論衡』の他の記事から、暢(草)を特産とする地域は長江流域と考えられ、この点からも、倭人の居たのは中国呉地方である、と佃氏は述べる。
中国の史書に依れば、紀元前12世紀頃に、水田稲作技術もつ倭人は中国呉地方(長江流域)に居た。倭人たちは、いつからどの様に日本列島に渡来したのだろうか。


 魏志倭人伝に依れば、景初2年(238年)倭国である邪馬壹国の女王卑弥呼が、日本列島から魏王朝朝貢している。また、軍事的な要請により、魏から派遣された張政は約20年間に渡り、この日本列島にある倭国に滞在した。魏志倭人伝の時代には、倭人は日本列島に居る。
 一方、中国の正史では、『三国志』韓伝に初めて「倭国」が登場する。「韓在帯方郡之南。東西以海為限。南與倭接。方可4千里。」(『三国志』韓伝)韓は南に倭と接している、と述べている。同じく韓伝の記事。「桓霊之末、韓濊彊盛、郡懸不能制。民多流入韓国。建安中、公孫康分屯有懸以南荒地為帯方郡。遺公孫模・張瞥敞等、収集遺民、興兵伐韓濊。是後倭韓遂属帯方。」(訳)<桓帝霊帝の末に、韓と濊は彊く盛んになり、帯方郡やその懸は制することができなかった。民は多く韓国に流入する。建安中(196年~220年)になると、公孫康は屯有懸を分けて、南の荒地を以って帯方郡と為す。公孫模・張瞥敞等を遣わし、遺民を収集して、兵を興し韓と濊を伐つ。是の後、韓と倭は帯方郡に属す。>また、公孫康は204年に父公孫度の後を継ぐと帯方郡を設置している。


 前の記事の「韓は南に倭と接している」の解釈では、韓と倭が海を隔てていても「接する」という解釈ができるとする論者はいる。しかし、後の記事は「韓と倭は帯方郡に属す」とあり、公孫康は日本列島まで支配を拡げてはいないから、倭は朝鮮半島にあることが明確に分かる。倭は韓国と同じく、公孫康がつくった帯方郡に属している。204年の直後頃までは、「倭国」は朝鮮半島南部に存在していることが分かる。『三国志』弁辰伝からも同じことが確認できる。
 佃收氏は、天孫降臨、邪馬壹国の成立、神武東征などを一連の倭人たちの北部九州への到来と関連した出来事として理解し、⑥『新「日本の古代史」(上)』倭人のルーツと渤海沿岸』⑦『神武・崇神と初期ヤマト王権などで詳しく述べている。以下、佃氏の論説にしたがって、倭人たちの動きを見ていこう。


 千年以上の歳月をかけて中国呉地方(長江流域)から中国大陸をまわり、渤海沿岸、朝鮮半島を経て、朝鮮半島南部から主に九州に渡来した倭人の氏族、「天氏」と「卑弥氏」がある。「天氏」は大和朝廷を築いた氏族であり、神武天皇を初代天皇として掲げている。「卑弥氏」は卑弥呼の邪馬壹国などを築いた氏族である。紀元前12世紀頃には、ともに呉の太伯の領地に住んでいたとされる倭人達である。
 紀元前120年頃に朝鮮半島から倭人(天氏)が北部九州に大量に渡来する。邇邇藝命(ニニギノミコト)は筑紫(吉武高木遺跡)に天孫降臨する。天火明命(ホノアカリノミコト)は北九州に天孫降臨する。元帥火須勢理命(ホノスセリノコト)は佐賀県南部に天孫降臨する。渡来人がもたらした新たな文化により、弥生時代中期が始まる。その中頃になると、「天氏」は二派(海幸彦と山幸彦)に分かれ、勝利した山幸彦は福岡県前原市に移り伊都国を建設する。邪馬壹国が建設される直前の北部九州は伊都国が支配している。魏志倭人伝で副官に「卑奴母離」が記されていることからから分かるように、対海国、一大国、奴国、不彌国は伊都国が支配している。同じ倭人でも、「卑弥氏」は倭国を名乗るが、「天氏」は倭国を名乗らない傾向にあり、伊都国は「天氏」だから、倭人であっても倭国を名乗らない。


 『後漢書』で、建武中元2年(57年)に倭奴国後漢に朝賀する記事の後に「倭奴国倭国の極南界なり」と范曄は記す。志賀島から金印が見つかっており、倭奴国は九州の最北にあると考えられる。「倭国」が九州にあるとすると「倭国の極南界」と言う表現はおかしい。しかし、後漢の時代に「倭国」は基本的に朝鮮半島南部にあるから、博多湾に面した倭奴国は「倭国の極南界」となり得る。また、安帝永初元年(107年)倭国王師升が生口160人を献じ請見を願う、という記事がある。この「倭国」も朝鮮半島南部にある「倭国」である。実際、生口160人を連れて行くには、更に多くの、逃げるのを見張り連行する人数が必要になる。これだけの人数を九州から運んでいくことは丸木舟を輸送手段とする国にはできない。卑弥呼や壹與の朝貢のときの生口の数と比べて見ればよく分かる、と佃氏は述べる。
 魏志倭人伝に「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱。相攻伐暦年、及共立一女子為王。名曰卑弥呼。」とある。また、『梁書』倭伝に「漢霊帝光和中(178年~183年)、倭国乱。相攻伐暦年。乃共立一女子卑弥呼為王。」とある。倭国が乱れるのは、178年~183年である。霊帝の在位が168年~188年だから、「霊帝の末」に当たる。この時期は、韓と濊は彊く盛んになり、近隣諸国を侵略する。倭国が韓国に侵略されて、倭国は大いに乱れる。これを、「倭国乱」と表現していると、佃氏は語る。倭国王師升が後漢に請見を願ったのは107年だから、倭国が乱れる前の70,80年間、つまり西暦98年頃~177年頃は確かに師升を含む男子が王として朝鮮半島南部で統治していたのだろう。その後の経過は次のようになる。


(1) 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にあった。
(2) 204年の直後頃、朝鮮半島南の「倭国」は公孫康に伐たれてその支配下に入る。
(3) 「倭国」は公孫康の支配を嫌い、戦うが敗れる。
(4) 220年~230年頃、卑弥呼も「倭国」の人々と北部九州に逃げてくる。
(5) 北部九州では、すでに支配を確立していた伊都国と戦いになり、伊都国に勝利する。魏志倭人伝では「相攻伐暦年」の後に「共立」されて卑弥呼は「女王」になると書かれている。
(6) 景初2年(238年)卑弥呼朝貢して、「親魏倭王」に任命され、「北部九州の倭国」を誕生させる。卑弥呼は北部九州に「倭国」を再興している。
景初2年(238年)の朝貢の前と後では、魏志倭人伝では陳寿がはっきりと表現を変えていることを、佃氏は指摘する。朝貢の前では、女王国、女王、王という表現しかしていない。ところが、朝貢以降の記事では、倭女王、倭王、の表現をしている。かつて、朝鮮半島南部にあった「倭国」は、卑弥呼が景初2年に朝貢して、魏が「親魏倭王」と認めた時から、「倭国」は九州北部にあるようになった、と述べる。


 以上、⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.359~)の中の論文「「朝鮮半島の倭」から「北部九州の倭」へ-倭国王師升・「倭国大乱」は朝鮮半島-」の叙述に従ってまとめてみた。
そして、卑弥呼が死去して次の男王が立ったとき、伊都国は邪馬壹国に対して反乱を起こし、再び敗れる。その結果、天氏は250年~265年頃神武東征を起こした、と佃氏は述べる。(詳しい説明は、⑥参照)天孫降臨と神武東征は「天氏」によって行なわれている。邪馬壹国の成立と倭の五王の統治は「卑弥氏」によってなされた。(卑弥呼倭の五王はともに「卑弥氏」ではあるが、直接的な関係はない)佃氏は、天孫降臨、邪馬壹国、神武東征、崇神天皇の支配、神功皇后の事績、倭の五王の支配等を切り離したそれぞれの歴史的事象と捉えず、一続きの関連のある歴史的事柄として捉えている。この点で、私たちには大変参考になる。

 

 以上(1)~(8)まで魏志倭人伝において、よく論じられる点について各氏の見解をまとめてみた。一つの「行く」、という叙述に対して、「出発点はどこか」、「到着点はどこか」、「どんな様子で行ったのか」、「期間はどの位かかったのか」、「理由は何か」、…など多くの論点が出てくる。また、漢文の解釈では、区切る位置によって意味が異なってくる。ここに掲げた6名の方々の説は、着眼点や展開に関して、読んでみるとどれもさすがと思わずにはいられないようなものばかりであった。勿論、重要な論点はここで取り上げたものだけではない。必要なことは、現在の自分たちと結論が異なる説に対しても、注意深く、説を展開する相手の内側から見てその説を検討し、自分たちの見解と見比べながら、より説得力のある論を創り出していくことである。相手の問題意識の核心をしっかりと受け留め、その核心から論考全体を再構成するという作業を行った後に、自分たちの論考と比較検討し、より総合的な観点から結論を導きだす必要がある。
 以前は、古文書などを見ることは、限られた施設や機関などでしか可能ではなかったが、今はインターネットの発達などにより、多くの人にとって可能となって、一部の人たちの独占物ではなくなった。また、最近では中国大陸や朝鮮半島での考古学的な情報も得ることができる。自分たちの歴史を創り出していくことが、ようやく可能になっている。そこで創り出されたものは、私達の未来を大きく方向付けるのだろう。多くの人達の力を合わせて、新たな「日本史」を作り出していきたい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(9) 補足

 余分と感じる人がいるかもしれないが、このことに関連して、次のことにも触れたい。日本列島に渡来した人たちが建国したと言うと、日本の固有の価値が失われるとして、むきになって反論する人々がいる。私たちは史実をきちんと受容し、そこから出発して行く以外、方法はないと考える。また、過去に日本列島に渡来して来た集団が国を作ったとしても、現在の日本の固有の価値が失われるものではない、と思っている。

 

 この点で参考になるのは、イギリスである。「ノルマンの征服」により、イギリスは1066年フランスのノルマンディー公ウィリアムに征服された。ウィリアムはウィリアム1世として、イングランド王に即位する。現在のエリザベス女王もこのウィリアム1世の後裔だと明確に語っている。以後、支配階級がドーバー海峡を越え、会話や文書はフランス語、正式な文書はラテン語で書かれ、イギリスの政治、経済、社会、文化活動の一切が、支配階級によってなされた。この状態は、約300年間、英仏百年戦争が始まる14世紀初めまで続く。江戸時代の期間とほぼ同じ期間である。この長期間の支配によって、英語が大きく変容したことを示しているのが、『英語にも主語はなかった』(金谷武洋著、講談社選書メチエである。現在の王室がフランス王の後裔であり、長期間に渡ってフランスの支配を受けたイギリスは、決してフランスの属国とはならず、固有の文化を誇っている。ユーラシア大陸の西と東に海峡を隔てて存在するイギリスと日本。イギリスで起こったようなことが、日本の過去に起こっていないと言えるだろうか。


 この議論に、金谷武洋氏の本を揚げたのは、英語やイギリスの文化が大きく変容したことを理解し易いためだけではない。『日本語に主語はいらない』(金谷武洋著、講談社選書メチエ『日本語文法の謎を解く』(金谷武洋著、ちくま新書などにも、興味がある方は是非目を通していただきたいと思うからである。『主語を抹殺した男』(金谷武洋著、講談社は大変迫力があった。私たちは、日本語の学校で習う文法は日本語を使う場合に余り役に立たない、という印象を前から持っていた。それは、日本語の文法が日本語の構造や成り立ちをうまく捉えていないからであろうと思われる。英語やフランス語のようなヨーロッパの言語は、主語の人称や単複が決まらないと、動詞の活用形が決まらず、文章が作れないから、主語が文章の骨格となる。しかし、日本語では、主格にそのような機能はなく、根本的な文章の構造が異なっているのだということを、金谷氏は説いている。カナダ人に日本語を教える中から、新しい日本語の文法を作り出している。私たちは、共感を持って金谷氏の本から学ぶことができた。金谷氏はこれまでの日本語の文法を批判するから、当然、国語学会というのか日本語学会というのか正式な名称は分からないが、そこから反応があるはずである。しかし、ほとんど無視されたと言う。古田武彦氏などの批判に対する日本史学会の反応とよく似ている気がし、閉鎖的、権威的な日本の人文科学の世界を写し出しているような気にもなってしまう。素人の考え過ぎならいいのだけれど…。少し横道にそれてしまった。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

【Ⅳ】 二著の章ごとの批評

 最初に述べたように、①と②の批評に移る。【Ⅰ】と同じように、② → ①の順とする。

(1)②『決定版邪馬台国の全解決』(孫栄健著)の章ごとの批評

<1章 魏志の再発見へ>


 1章では、最初『三国志』の中の『魏志』第30巻東夷伝の中の韓伝と倭人伝にだけ、共通の不可解な特徴が2点あるとする。1点目は、馬韓グループ、弁・辰韓グループ、倭国グループに名前が記されている国の数が、本文の中で述べられている国の数と合わない、そして、3つのグループとも、重複して出ている国があることだ。(倭国では、「奴国」)2点目は、里数に関する問題である。魏や西晋では1里=434mでされるが、韓伝と倭人伝だけは、その数分の一の値、すなわち1里=40~90mであると考えられる。この2点をそれぞれ「国名重出」、「誇大里数」と呼び、なぜ『三国志』全65巻中、『魏志』第30巻東夷伝の韓伝と倭人伝にだけこのことが出てくるのかと大仰に問い、この「規則的な矛盾」の背後には何かがあり、これを読み解かなければならない、と問題提起する。


 佃氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.388~)で、「馬延国」は二重記載され、また元々一つの「弁辰軍彌国」を「軍彌国」と「弁軍彌国」の二つに二重記載されていて、写本または版を作る時の誤りだろうとし、そうであれば矛盾は無く、陳寿の記述と合致していると述べる。
 木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝で「韓伝では、辰韓十二国と弁辰十二国、計二十四国の国名を入り混ぜて列挙している。ややこしい上、時代が経つほど重要性が薄れる記事なので、写本の段階で誤記が入りやすい。」(p.250~)と述べ、紹煕本も紹興本も一行十九字で書かれているので、空白を入れずに一行十九字で国名を記していくと、二つの「馬延国」がちょうど横に並び、誤記の可能性が高いことを示している。「弁辰」十二国についても、最後の結論は佃氏と少し異なるが、誤記であろうとしている。
(ちなみに、孫氏は問題提起しただけで、「国名重出」となった理由について述べていない。)


 孫氏の言う「誇大里数」については【Ⅱ】(3)魏志倭人伝での1里は約76m のところで考察したように、長里と短里があり、一つの本の中に長里と短里による記述があったとしても、それは有り得る。孫氏は、「『三国志』の里単位は「韓伝」と「倭人伝」を除けば、すべて魏晋里と一致し、これは多くの学者達によって考証済みだ。」(②p.32)と述べるが、①『かくも明快な魏志倭人伝の中で木佐氏は、『三国志』の多くの記事が、長里でも短里でも書かれていることを具体的に示している。長里と短里については多くの識者達が議論を戦わしてきた。問題は、この本では、短里について全く触れていないことだ。短里を認めないならそれはそれで結構だが、短里を認めない理由くらいは書くべきなのではないか。


 次に「春秋の筆法」について述べる。孔子が書いたとされる『春秋』を手本に中国の正史は書き継がれてきたとし、「属辞比事」、「文の錯え」、「微言大義」などの「春秋の筆法」が説明される。
続いて、『三国志』の時代が解説され、陳寿の経歴や辿った運命がうまくまとめられている。また、邪馬壹国が初めて魏に朝貢した時に、遼東半島を支配していた公孫淵を征した魏の軍総司令官で、やがて幼帝を支えた魏王朝の最高位者となり、ついには西晋の実質的な創建者となった司馬懿とその周辺についても詳しく述べられている。著者の豊富な読書量に基づく、分かり易い説明であると感じる。陳寿は蜀の歴史編纂官であったが、蜀が滅びて後、晋の著作郎に引き立てられて『魏志』、『蜀志』、『呉志』を著わす。(後の唐時代に『三国志』として一つにまとめられた)この経緯から、晋の皇帝やその祖父である司馬懿など司馬氏の関係する史実について、陳寿は司馬氏に大きく忖度した記述を行なっており、結果として史実とは異なる記述をしているというのが、この本での孫氏の主な主張である。清の時代の歴史考証家趙翼の説を紹介し、このことを「廻護の法」と呼ぶ。魏志倭人伝は将にこの「廻護の法」というフィルターを通して読む必要があると力説する。


 更に、「『三国志』に唯一の地理誌である『魏志東夷伝が立てられたのも、こうした事情によるとしている。それは単なる外国の話ではなく、実に、皇帝の祖父の偉大さを立証する、司馬氏の晴れの舞台の物語だった。したがって、この地方について陳寿が書けば書くほど、皇帝の祖父の功績、晋王朝の正当性が顕揚される効果がある。」(②p.63)と述べる。私たちの理解では、陳寿は、その前に書かれた『漢書』を意識して『魏志東夷伝を書いている。前漢武帝(前141~87)の時、漢の使者張騫は西域に赴き、黄河の河源を極め、西域地方のことを報告した。司馬遷が『史記』で記し留まっていた西域地方のことを、班古は『漢書』で詳しく記し、中国の世界を拡げている。これに対して、陳寿はまだ『漢書』までに記されていない東夷の世界の国や風俗、習慣などについて記し、世界を拡げた。このことは、「東夷伝序文」に明確に記されている。司馬氏に忖度するというような陳寿の個人的な次元の低い動機ではなく、『史記』-『漢書』-『三国志』と続く、中国王朝がより広大な世界を築いていくという歴史的に受け継がれた高い問題意識によって、陳寿は『三国志』を書いている。それ故に、『三国志』は歴史的にも高い評価を受けているのだろう。
 詳細で分かり易い歴史や中国の古典の解説と、穿った見方をしていると思われる問題意識が対照をなす1章である。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

   

<2章 中国史書の論理に学ぶ>

 2章は、『魏志』は「春秋の筆法」で書かれているので、筆法を解読しながら読まなければならないと述べることから始まる。しかし、そのためには、春秋学と古典に対する深い知識が必要となり、現代人には難しいので、このことを理解していた先人に教えてもらうしか方法はなく、『後漢書』を書いた范曄と『晋書』を書いた房玄齢がどう読んだかを調べ、彼らから教えてもらうことが必要だとする。そのため、『後漢書』と『晋書』の説明がされ、范曄の経歴、人となりなどが述べられる。


 最初に房玄齢など唐朝史官グループの記した『晋書』倭人伝の最初の部分「…魏時有三十国通交戸有七萬…」に注目する。房玄齢ら唐の史官達は、邪馬壹国(邪馬台国)は伊都国や奴国のような30カ国の中の一国ではなく、30カ国を総称して邪馬壹国(邪馬台国)と呼んでいたと理解していた、とする。従来、伊都国、奴国、不彌国などへの里数記事の後の日数記事「南至投馬国水行二十日…」「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」が里数記事とどの様に接続するかが問題になってきた。しかし、邪馬壹国が個々の国でなく、30カ国の総称であるなら、経路として接続することはなく、邪馬壹国に行くには、帯方郡から水行十日陸行一月要すると言っているに過ぎない。更に、『後漢書』での「建武中元二年 倭奴国 奉貢朝賀…倭国の極南界也」の記事に注目し、奴国は倭国の極南界であると述べた范曄の解釈を考察する。日数記事が行程を示さず、行程は里数記事だけで示されるとすると、行程の一番南の国は奴国ということになる。范曄はこのことを理解して、『後漢書』で「奴国…極南界」と述べたとする。

 

<3章 『魏志』里程記事を読む>


 前章では、邪馬壹国は女王国連合の総称で、女王国はそのうちの女王が都する特定の国であるとした。この章では、「「自女王国以北は、其の戸数・道里を略載することが得る」の文は、逆に読めば、「女王国とは、戸数・道里を略載した国々の最南(以北の逆)の国だ」」(②p.130)であり、「自○○以北」の表現は女王国を含んでいて、また前章で、行程の一番南の国は奴国だと理解していることから、范曄は奴国が女王国であると考えた、と述べる。
更に、「自郡至女王国萬二千余里」の記述から、帯方郡からちょうど12000里の国を探し、古田氏が「島めぐり」論法と呼んでいる辺加算論法によって、奴国が該当していると述べる。。「方○里」の解釈、対馬島で大船越を通る船の航路の説明は、古田氏の③『「邪馬台国」はなかった』での説明と寸分違わない。
魏志倭人伝は狗邪韓国を「其の北岸の狗邪韓国」と著しているが、『後漢書』では「其の西北界の狗邪韓国」と記している。このことは、魏使の船が東南コースに渡海することを意味し、范曄が古田氏の提起した「島めぐり」論法を理解していて、対馬島壱岐島の二辺を加算し、このように12000里を計算していたのだ、と孫氏は述べる。陳寿と范曄と房玄齢は「筆法」を理解し合い、深いところで通じていた、と孫氏は語るのだが?…。ここまで飛躍すると、私たちの対応は恐れ入るしかなくなる。


 孫氏は短里を考察の外に置き、長里しか考えないから、当然「帯方郡から女王国まで12000余里」は「誇大里数」となる。これについては以下のような説明をする。三国時代の中国では、人民向けの政府文書(特に軍事関係)では、数字を十倍して発表する習慣があったようで、これを「露布」の原理と呼ぶ。3世紀中頃の司馬軍団による極東アジア侵攻戦の際に、総司令官の司馬懿から魏の明帝に送られた「露布」では十倍の数字が記載された。これが「史の成文」として残されたのが、「誇大里数」ではないかと、孫氏は言う。つまり、陳寿は、間違っていることは分かっていたが、晋王朝の事実上の創建者である司馬懿の残したものだから、書き直しはしなかったので、「誇大里数」がそのまま残ってしまったと…。
 次に、奴国までの里数を十分の一の値(1里≒43.4Km)として地図上で検証し、ほぼ合致していると孫氏は述べる。行路については、古田氏などが述べた行路である。対馬では、浅茅湾に入って大船越を通り、末盧国では、松浦川河口に上陸し、伊都国は平原遺跡付近とする。すると、末盧国から伊都国への方向は「東北」になる。ところが、魏志倭人伝では「東南」と書かれている。この食い違いも、何の問題も無いかのように、何らかの「史の成文」だろうと言う。「史の成文」という理由なら、どんなことも正当化できるだろう。ここのところは【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? で詳しく論じた。
 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」は、「帯方郡から女王国まで12000余里」の単なる言い換えであるとし、水行なら十日、陸行なら一月と読むことが出来るとする。「奇妙過ぎる記述」であると孫氏自身も言うが…。


 次に、このような誇大な表現がなぜ修正されずに残ったかについて考察する。
 「会稽東治東」については【Ⅲ】(7)「会稽東治東」 のところで論じたように、范曄の『後漢書』は「会稽東冶東」と記し、異なる文字を用いて、陳寿の『三国志』とは異なる場所や異なる事柄を述べている。この本では、「会稽東治東」の地名や位置の考証を省くとして、『後漢書』が『三国志』と異なることを述べていることには全く触れずに、『後漢書』に従って場所や意味を受け取って、「(倭人の国が)今の福建省の福州市あたりにあたる」(②p.165)とする。当時、魏(晋)は呉と争っており、呉の大型艦隊が遼東半島に進出している。また、正確な地図は国家秘密として「秘府に蔵された」と記録されている。このような状況の中で、呉に正確な情報を教えないために、意図的にデマ情報が魏から流され、それが、「史の成分」として残ったのが、「会稽東治東」であり、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」であり、「帯方郡から女王国まで12000余里」であると、孫氏は語る。更に、陳寿が『魏史』の編纂を完了した時は270年代頃しかないとし、呉が滅ぶ280年より前だから余計に正確な情報を伝えることは厳禁とされていた、と述べる。


 『史書』-『漢書』-『三国志』と続く中国の正史がこのように一時的な状況のために、誤まった記述をそのままにするとか、明らかに誤まった記述を書くとかいうことがあるだろうか。もし、呉に知られたくなければ、一時的にでも、正確な地図と同じように「秘府に蔵す」れば済むのではないか。もし、『魏志』がこのような誤まった記述を「史の成文」として残したなら、『晋書』に幼少から才能豊と記されている夏侯湛が、『魏志』を読んで自分の書いた『魏書』を破ることがあるだろうか。
 前にも触れたが、班古は『漢書』で西域地方のことを初めて詳しく記し、大きな評価を得た。陳寿はそれまでに記されていない東夷の世界の国や風俗、習慣などについて東夷伝に記し、大きな評価を得ている。このような眼目ともいえる記事で、わざわざ誤まった記述を残すのだろうか。陳寿が可哀想というか、なんとも情けないというか、どうしても納得できない説ではある。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

<4章 三世紀の実相>

 この章では、倭国の実地理について述べるとし、有名な榎一雄氏の提唱した「放射コース式」読み方を支持する。伊都国までは、「方位+距離+地名」の形式を取り、直線コースを表すが、伊都国から後は「方位+地名+距離」の形式になり、放射コースを表しているとして、これも「文の錯え」そのものであると述べる。また、邪馬壹国は九州北部の女王国連合の総称で、その北側は海だから、日数記事は直線コースではあり得ず、里程記事は帯方郡より女王国に至る記事だが、同じように考えて、日数記事の投馬国と邪馬壹国については、帯方郡を基点とした所要日数を語っているのではないか、とする。邪馬壹国へは帯方郡から「水行十日陸行一月」であるから、投馬国へは帯方郡から「水行二十日」であり、南九州のサツマ地方が投馬国の条件に良く合うが、よく分からないと、孫氏は言う。
 次に女王国と争ったとする狗奴国の位置については、『三国志』が「其の(女王の境界)南に狗奴国有り」としているが『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」として、両書の示す方向が全く異なる。孫氏は、范曄を支持し、『後漢書』が表す「女王国より東」説を取る。(詳しくは【Ⅳ】(6)狗奴国の位置


 そして、弥生時代の瀬戸内から近畿方面に見られる高地性集落が、九州方面から船に乗った集団に攻め立てられたという理由だけで、高地性集落が狗奴国とすることは、仮説としては考えられる、と孫氏は言う。高地性集落は一方的に攻められていたが、狗奴国は一方的に邪馬壹国に攻められていたのではなく、最終的には、邪馬壹国に勝利しているのだが…。


 高地性集落については佃收氏が『伊都国と渡来邪馬壹国』復元シリーズ2のp.167以降で、庄内式土器との関連を詳しく調べ、次のように述べている。「庄内式土器は渡来人の土器であり、弥生式土器から発展したものではない。」「高地性集落からは庄内式土器が出土しないことは重要である。低地の母集団が庄内式土器を使っているのであれば高地性集落でも庄内式土器を使うはずである。ところが高地性集落からは庄内式土器は一つも出土していない。それは低地の母集団が庄内土器を使っていないからである。低地の母集団(弥生社会)は庄内式土器を受け入れていない。弥生式土器を使い続けている。高地性集落でも弥生式土器を使い続けているのである。」「庄内式土器を使う渡来人が来て、低地の母集団や高地性集落を襲い、先住民(弥生人)を追い出した。渡来人は高地性集落に住まない。そのため高地性集落からは庄内式土器が出ないのである。」「庄内式土器がはじまる直前に高地性集落や環壕集落は消滅する。それは、朝鮮半島から来た渡来人がこれらの集落を滅ぼしたからである。」この瀬戸内から近畿方面に見られた高地性集落は弥生時代の先住民の集落であり、渡来氏族の集落ではないことを示している。狗奴国の男王卑弥弓呼は卑弥氏であり、渡来氏族である。したがって、高地性集落は狗奴国とは関係がない、と言えるのではないか。


 孫氏は、女王国である奴国は現在の福岡市から春日市周辺に当たるとする。次に、「文の錯え」と考えられる6つの事項を挙げ、「言外の言」を読み解く必要があると言う。特に、「至」ではなく「到」の字が用いられていることから、魏使節の最終目的地は伊都国であり、不弥国は現在の福岡市西区周船寺町に当たり、「一大率の津」と考えられるとする。更に、戸数表記に一大国と不弥国にのみ、「戸」ではなく、「家」を用いていることも「文の錯え」とし、一大国から不弥国へ直行する真実の行程が示されているのではないか、と深読みする。「…末盧国に達する。しかし上陸はしない。更に海岸線に沿って東進し、現在は陸地化してしまった糸島水道に入る。そこを東に進んで不弥国、今の周船寺に至り、そこで「一大率」から人員・積荷の検閲を受ける。そこから……伊都国の治所に「到」ることができた、というのが真実の行程ではなかったか。」(②p.214)と、驚くべき説を提出する。


 「至」と「到」の違いに着目して、これを「文の錯え」とし、「到」は最終目的地に到着するという意味で使われていると述べる。「文の錯え」を持ち出さなくとも、例えば牧健二氏のように、「至」と「到」の違いをこのように解釈する歴史家はいる。また、木佐敬久氏は「至」と「到」の違いを別の意味で解釈している。まっすぐ届く場合は「至」で、曲がって届くのは「到」であるとしている。(詳しくは、①『かくも明快な魏志倭人伝p.231)
 孫氏は「戸」と「家」の違いも「文の錯え」と解釈し、上のような奇妙な結論を出している。木佐敬久氏は①『かくも明快な魏志倭人伝p.262以降で、「戸」は税を納める単位で、「家」は税を払う単位ではなく、単に住居としての単位であることを、日本神話を読み解くことから理解できたと述べている。「対海国」は「千余戸」と表し、「一大国」は「三千許家」と表される。木佐氏は不弥国についても「家」が使われているのは、「港湾労働者の出入りが激しく、収税の単位として成立していなかったせいであろう。」(①P.282)と述べている。「戸」と「家」の違いについては、「文の錯え」と解釈するより、木佐氏の理解の方が自然ではないかと思われる。
更に、末盧国に着くが上陸しないというコースでは「草木茂盛行不見前人」と書かれた、草木の中を苦労して陸行するリアリティーを感じる倭人伝の記述が理解できなくなってしまう。


 この章の最後の節で、伊都国、奴国、不彌国の位置関係から、女王の宮殿は高祖山にあったのではないかと述べる。また、卑弥呼の墓は平原遺跡ではないか、としている。

 

<5章 一大率と伊都国について>


 倭人伝に「女王国以北には特に一大率を置いて、諸国を検察する」とある「一大率」について、『旧唐書倭国日本国伝や『新唐書』日本伝を考察する。その結果、一人の「大率」と考えることができるとする。次に、『魏志』全体に考察を進め、「大率」は「大師」と同じ意味になり、「一大率」は固有の官名ではなく、倭国の現地有力者の一人と結論することができるとし、結局「一大率」は倭国30カ国の中の王の一人ではないかとしている。また、「一大率は常に伊都国に治す」から伊都国の権限が最も大きく、「伊都国王」=「一大率」であるとする。


 この時代の「刺史」は単なる行政監督官ではなく、兵・民・財政すべての面で強大な権力を持つ軍政長官を意味していることから、「男弟」=「一大率」であり、更に上に述べたことから「伊都国王」=「一大率」であり、結局「伊都国王」=「一大率」=「男弟」であると結論づける。
 確かに三者はいずれも、女王国全体に大きな影響力を持った大物達である。しかし、「おそらく女王(卑弥呼)は、奴国の出身者だ。」(②p.179)とすると、「男弟」も奴国の出身者であり、同時に「伊都国王」であり得るだろうか?また、卑弥呼は卑弥氏であり、伊都国は天氏系の国だから「伊都国王」は天氏だろう。違う氏族の「伊都国王」が卑弥呼の弟であるのだろうか?
佃收氏は次のように述べている。伊都国は後から九州北部に渡来した邪馬壹国によって支配され、その後反乱を起こすが再び敗れ、別天地を求めて東征する、これが「神武東征」である。佃氏は、伊都国と女王国とを、支配し支配される対立的な王権を持つ国として把握している。佃氏の説を認めないとしても、伊都国と女王国の関係を詳しく考察しないで、また、これらの国がどの様な組織の国であったのかも分からないのに、一つの点での論理的可能性だけで、結論を急いでいいものだろうか、大いに疑問が湧くところである。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

<6章 東アジアの中の日本>

 春秋時代の「文姜説話」を述べ、春秋学の伝統的なレトリック「属辞比事」を説明して、中国の史書はこのような書き方をしていることを理解して読まなければならないと述べる。245年、難升米に黄幢を下賜し、郡に付して仮授せしめたこと、247年張政等を遣わし詔書、黄幢を難升米に拝仮したことを挙げ、難升米は女王と同格であるから、難升米=「男弟」とする。また、「…司馬懿遼東半島朝鮮半島支配下に置き、倭国を魏の支配下に引き入れた結果だが、その司馬懿が、親魏倭王卑弥呼を飛ばして、難升米を倭王として公認したことになる。」(②p.309)とする。更に、「邪馬台国は九州北部三十国、弥生三十大集落の総称であり、女王の出身地は博多、奴国であり、なんとヒミコはナズメに殺された。」(②p.335)と言う。卑弥呼は、難升米=「男弟」に殺されたのだろうか?


 「文の錯え」を拡大解釈して、論理的にこのように解釈できる可能性もあるかも知れない。しかし、魏志倭人伝を読めば、誰にでも自然に目に入る重要なことを忘れていませんか?孫さん!と呼びかけたくなる。張政が派遣される直前に、何が書かれているか。倭人伝の後ろ三分の一は、倭国の魏との外交記録である。その中に突然、狗奴国の男王卑弥弓呼と倭女王卑弥呼の不和の記事が入り、倭国は倭載斯烏越等を帯方郡に遣わして、相攻撃する状況を説明する。そして、郡から張政等が派遣される。狗奴国と倭国の間に戦争が起こっている。張政は軍人だろうから、これを治めるために派遣されたのだろう。この戦争の過程で、張政が来る前に、卑弥呼は戦死したか重傷を負うことも考えられる。その場合には、黄幢などは卑弥呼以外の者に拝仮する以外ないかもしれない。「卑弥呼以死」の文は、孫氏の様に、張政が檄を作って告喩した直後に死んだとも解釈できるかも知れないが、この狗奴国との戦争によって死んだとも解釈できるだろう。
 この本では、魏が仕掛けた軍事紛争として、韓伝での「辰王」の政変、倭人伝での卑弥呼の政変が二卵性の双子のようにあるとし、魏と倭国内部の問題として解釈されている。韓国と魏の間には楽浪郡帯方郡での直接的な領土問題があるが、倭国と魏の間には直接的な領土問題はない。それよりも、狗奴国との戦争に全く触れられていないことが問題である。第4章で、少し狗奴国に触れたが、魏志倭人伝と『後漢書』倭伝で狗奴国の位置が食い違っているにもかかわらず、『後漢書』が正しいとするだけで、この本では全く狗奴国には触れようとしない。なぜ、この政変に狗奴国が関係しないのかを全く述べずに、単に魏と倭国内部の政変とするのは妥当性を欠いた記述であると思わざるを得ない。


 最後に、著者が卑弥呼の宮殿があったとする高祖山周辺が天孫降臨の舞台であったことをほのめかす文を載せている。このことについては、天孫降臨の舞台が日向(ひむか、宮崎県)ではなく、日向(ひなた、福岡市西部)であることを多くの歴史家が理由を提示しながら述べている。例えば古田武彦氏が『盗まれた神話』第7章「天孫降臨の解明」で、佃收氏が⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.15)「「天孫降臨」の検証」以降、『新「日本の古代史」(下)』(p.575)以降で、そう考える根拠を示して詳しく論じている。

 

<総論的に>


 本の表題邪馬台国の全解決」「中国『正史』がすべてを解いていた」、や帯の表示「歴史教科書の書き換え必至!」は「羊頭を掲げて狗肉を売る」と言わざるを得ない。歴史的な事象の考察をする時、重要な条件を敢えて抜かして、自分の結論に行き易いような記述にすることや、反対のことを全く考慮していないことなど、首を傾げたくなるような論考が多々ある。このような論考によって、教科書が書き換えられることは許されないだろう。


 しかし、記述の材料に使われる個々の事柄は中国の歴史に詳しくない私たちには本当に勉強になった。その点では、著者に感謝したい。また、これだけの知識がある人が本を出したい気になるのは、分かるような気がする。実は、これらのことは著者の孫氏も先刻御承知のことなのだろう。序章の最後に次の様に書かれている。「…読者の皆さん、この本も、意外と面白いかもしれませんよ。……この本は、学術論文の形ではないが、それ以上の中身はあるかも知れないし、まあ、遊びの本、「探偵小説」と思って読んでいただければ、著者は満足。」(②p.6)


 とても刺激的な本であり、魏志倭人伝やその時代の倭に興味があり、中国の歴史や史書についても詳しく知りたい人は、読んでみるといいのではないか、と思った。しかし、中国の歴史に比べて、日本の歴史そのものについては著者自身の詳しい掘り下げを感じる部分は少なく、よく知られた歴史家の説を深く検討することなく取り入れている感があり、議論の展開の仕方にも、私たちには違和感が残った。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

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(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久著)の章ごとの批評

<1章  魏志倭人伝は明快にかかれている>


 魏志倭人伝は、誇張や虚偽が多いという通説が出来上がっているが、魏から派遣された郡使・張政が正始8年(247年)から泰始2年(266年)まで足かけ20年に及ぶ実際の倭国での軍事行動を伴う滞在による報告に基づいて書かれている事や、著者陳寿の資質、史官としての姿勢から言って、極めて信頼できる文書であり、明快に書かれていると、最初に述べる。
 【Ⅱ】(1)卑弥呼大和朝廷の系譜の女王ではない のところで触れたように、『日本書紀神功皇后39年の記事に、「魏志」についての記述がある。明帝景初3年6月倭女王が大夫難斗米等を魏に派遣したこと、正始元年に魏が倭に詔書印綬を与えたこと、正始4年に倭王が魏に献じたことが魏志倭人伝と全く同じような漢字(誤字も多いが)を用いて記している。また、神功皇后摂政66年に、倭の女王が訳を重ねて貢献した、とも記している。一方、古事記には全く記載が無い。日本書紀の記述者は、邪馬壹国の卑弥呼や壹与の朝貢を、全く時代が異なる神功皇后の事績だとして記そうとしている。
このことに対して、木佐氏は「大和朝廷内に、卑弥呼に該当する女王がいなかった、つまり「魏志倭人伝倭国は、大和朝廷とは無関係」であることの端的な証明である。」(p.44)と述べている。


 最初、蜀の史官であった陳寿が、蜀滅亡後に張華に引き立てられ晋の著作朗になる経緯、陳寿の「質直」な執筆姿勢が説明され、いかに陳寿の筆が周りから信頼されていたかを記す。
 『三国志』と同時代に書かれたとされる『魏略』の成立年代は西域の新情報を記していることから、280年後半以降と考えられ、『三国志』の成立は『晋書』の記述より284年であり、『魏志』、『蜀志』、『呉志』三つの中で『魏志』が最初に書かれているから、『魏志』の成立は『魏略』より早いとする。両方の記事内容も比較して、「『魏略』とは『魏志』のダイジェスト版に、呉滅亡後の最新情報をプラスした≪ハンドブック≫のようなものではないかと推測される。『魏略』という書名もそれにふさわしい。」(p.61)と木佐氏は述べている。
 魏志倭人伝での裴松之の注についても触れ、古田武彦氏などが主張した「二倍年暦」、裴松之の注の誤りについても見解を示している。


 また、魏志倭人伝の「邪馬壹国」は「山のある倭国」の意味であり、『後漢書』の「邪馬臺国」は「倭」が「大倭(たいゐ)」となり、それを一字で表したのが「臺(たい)」であるので、それぞれの時代に両方が正しいとしている。
 佃收氏が⑥『新「日本の古代史」(上)』の中で、同じようなことを述べているのは興味深い。「伊都(イツ)は海岸にある。陳寿は「山側にある北部九州を支配している国の都」という意味で「邪馬壹国(ヤマイツ国)」としたのであろう。「邪馬壹国」は「女王之所都」とあるように女王が居る「都」である。「邪馬壹国」は景初二年(238年)に北部九州が正式な「倭国」になる前の仮の名前である。陳寿が景初二年の朝貢以前と以後を区別するために付けた机上の名前である。「邪馬壹国」は無かった。」(⑥p.118)


 全体的に、資料を丹念に調べ、結論を導き出す議論は納得できる部分が多い。しかし、『論衡、巻八』、『論衡。巻一九』、『山海経、海内北経』に記された「倭」を、北部九州から出雲にかけての日本海側の国々であろう、としている点は大いに疑問が残る。水田稲作技術をもつ「倭人」は、最初から日本列島に居たわけではない。紀元前12世紀頃に「香草」を貢物とした「倭人」は長江流域に居た「倭人」である。(【Ⅲ】(8)倭人倭国とは何か参照)更に「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」の「属す」を単に「貢献していた」と解釈するのは無理があり、地理的な状況も述べているのではないだろうか。私たちは、長い年月をかけてどの様にして「倭人」が日本列島に定着してきたのかを考察している。水田稲作技術などがどのようにして日本列島に伝来してきたかに興味がある。その意味で、ここでの結論には大いに疑問をもつ。この問題について、また5章で論じよう。

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<第2章 東夷伝序文の「長老」と韓の反乱>

 『三国志』夷蛮伝には、二つの序文、「烏丸鮮卑伝」序文と「東夷伝」序文がある。特に、「東夷伝」序文には、東夷の世界の様子を初めて明らかにしたという陳寿の自負が語られている。「東夷伝」序文には、次の文書「長老説くに、「異面の人、有り、日のいづる所に近し。遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに小大区別し、各名号有り。得て詳紀す可し。」」があり、この文中の言葉について考察する。先ず、『三国志』中の「説く」の用例を検討し、次に夷蛮伝中の「長老」と「耆老」の使い分けを確認する。その結果、この「長老」は張政に他ならないとする。更に、「長老」が説く(=説得)しているのは、陳寿であるとする。『魏志』は270年代初めから書き進められ、280年には完成していたと考えられる。…陳寿が張政に会って大きな刺激を受けると同時に、蛮夷伝の「法俗」の記録を入手したのは、270年代後半と思われる。」(p.84)という見解は、十分な説得力があるのではないか。「委」と「倭」の違い、「委面」と「倭面」の違いについても考察し、戦前の高名な歴史学者内藤湖南などの苦し紛れの解釈についても言及していて、面白い。


 景初2年(238年)、魏が総力を挙げて朝鮮半島公孫淵討伐を行い、この年6月卑弥呼は難升米を帯方郡に派遣した。その後、正始6年、帯方郡太守弓遵は濊討伐に従事し、難升米は黄幢を賜ることになった。しかし、韓の反乱により弓遵は戦死し、正始8年(247年)王頎が帯方郡太守となる。この間の約10年間について、朝鮮半島での魏の対応、その中心となった毌丘倹、王頎の仕事ぶり等について述べ、その下で働いていたのが武官の張政であったことが、分かり易く記述されている。

 

<第3章 短里と長里>


 第1章で述べられた魏志倭人伝がいかに正確で信頼性に富んでいるかについて、最初に、改めて8点に整理して示し、次に短里と長里の問題に移る。
 帯方郡より女王国まで万二千余里と示され、里程距離の合計が万七百余里であるので、残りは千三百里ほどになる。女王国は九州北部の不彌国から千三百里以内にあることになり、長里説を取らないと、近畿説は成り立たなくなる。これが、長里説と短里説が問題になった主な理由である、と木佐氏は語る。


 周代に短里が行なわれていたことを、谷本茂氏の『数理科学』の論文などからも明確にし、秦の始皇帝が長里を導入し、前漢武帝の時代から長里が完全に定着したのではないか、と述べる。

 古田武彦氏は「魏晋朝の短里」に依拠して『三国志』は書かれていると主張し、多くの論争を呼んだ。古田武彦氏と山尾幸久氏との論争に触れ、これについては山尾氏の方に分があるとする。「一つの本の中で、同じ名前の単位の実質が大きく変ることは、別に不思議ではない。たとえば、明治以降、現在まで使われている「円」という単位は、戦前と戦後では実質的価値が大きく変化している。」(p.116)と述べる。また、「…東夷伝の『里数』は、基本的に「歴史記述」ではなく、西晋の読者への「現状認識」という形で用いられており、西晋の正式な里単位が「短里」であったことを示している。」(p.103)と述べる。(より詳しくは、【Ⅱ】(3)魏志倭人伝での1里は約76m
 バランスのとれた記述であり、「短里」について全く触れない②「決定版邪馬台国の全解決」の著者の孫栄健氏などにはぜひ読んでもらいたい章である。

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<4章 「魏志倭人伝」研究史と皇国史観>

 古田武彦氏は「邪馬壹国」が「邪馬台国」に、「会稽東治の東」が「会稽東冶の東」に、「景初二年」が「景初三年」に、紹熙熙本の「対海国」が「対馬国」に、「一大国」が「一支国」に書き換えられてきたことについて、厳しい批判を展開した。このような書き換えは、大和朝廷一元主義というイデオロギーに立脚しており、その端的な例が、卑弥呼と壹与の二人の女王を神功皇后にあてた『日本書紀』の記事であるとする。
 魏志倭人伝に触れた本が江戸時代にならないと出てこないのは、長い間「禁書」になっていたからではないか、と木佐氏は述べる。魏志倭人伝をはっきりと読んだことが分かるのは、1693年の松下見林著『異称日本伝』であるが、皇国史観の立場からの記述である為、魏志倭人伝皇国史観で解釈されている。江戸時代の新井白石本居宣長、鶴峯戊申の説も紹介されている。次に、明治時代になって、白鳥庫吉の「九州説」と内藤湖南の「近畿説」が対立し、両説が紹介され、橋本増吉の説も説明される。


 戦後の「邪馬台国」ブームについても触れ、魏志倭人伝より考古学を信頼する傾向の風潮であったことを述べ、卑弥呼の墓についても言及する。
 この章の最後に、「なぜ今まで『魏志倭人伝』をきちんと読み解けなかったのか、研究史を振り返ることによって確認することができた。その点を踏まえると、私の方法は次のようになる。」(p.152)と述べ、誰でも認めることができるような四点からなる木佐氏の方法を示し、次の章から倭国の地理像を明らかにしていくとする。その四点は次の通りである。(1)原文の誤りがきちんと証明されない限り、「魏志倭人伝」と『三国志』を信頼して原文のまま読む。(2)『魏志』の著者・陳寿や、当時の洛陽の読者の立場に立って読む。疑問の語句は、『三国志』や『漢書』、『史記』の用例を参照する等。(3)解読のための新しいアイデアは「人間の理性や常識」に反しないかを常に検証する。(4)当時の読者が魏志倭人伝を読んでイメージした「倭国に対する地理像」をつかむことができたら、そこで初めて、当時の読者が知らなかった現実の地図、地形とどう対応するかを、検証する。

 

<第5章 「島国」と漢書後漢書


 冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」という記述から、倭地は対馬壱岐、九州本島、四国と周辺の島と考えられる、とする。『日本書紀』の記事などから、大和朝廷が本州は島であると認識したのは、早くても7世紀の後半であると考察する。また、『旧唐書』と『新唐書』の記事から、「『旧唐書』は「倭国伝」と「日本伝」を別立てにしていて、「倭国伝」のほうはまぎれもなく九州を示している。」(p.157)とし、「…『新唐書』の書かれた11世紀の認識である。この頃、ようやく中国が、本州(と北海道)を「島」と認識したことを示している。」(p.159)と述べる。「近畿説」は、魏志倭人伝の時代には本州を島と認識していなかったことから一挙に崩壊する、とする古田武彦氏の「津軽海峡の論証」についても触れている。


 次に、『後漢書』の記述によって、1784年に志賀島から発見された金印は、後漢光武帝から倭の奴国王に贈られたことが定説となっていることを述べる。金印の由来についての様々な説も紹介されている。また、後漢書の記事「安帝永初元年、倭国王師升等、獻生口百六十人、願請見。」に書かれた「倭国王」は出雲王朝の王であり、「師升」は読み方からスサノヲであると述べる。
 『論衡』の記事「周時、…越裳献白雉、倭人貢鬯。」、「成王之時、越裳献雉、倭人貢暢。」をあげ、周の時代から倭人は海を越えて中国王朝に朝貢していると述べていることには、1章の最後のところで触れたように、疑問を呈せざるを得ない。【Ⅲ】(8)倭人倭国とは何かで述べたが、「成王」は周王朝の2代目であり、紀元前12世紀頃の人である。佃氏は、この「香草」を貢物とした「倭人」は中国長江流域に居たとしている。秦の始皇帝(紀元前221~206年)の時代に、方士徐福が蓬莱神仙を求めて、童男女数千人を連れて東夷の世界に向かった、と『史記』に記されていることを『後漢書』は述べている。この時代の日本列島は、まだ中国の王朝には未知の地域だったのではないだろうか。それよりはるか千年ほども前に、日本列島から中国王朝へ朝貢することがあり得るだろうか。


 また、魏志倭人伝では、「奴国」は「一大率」によって検察されている従属国であり、このような従属国が、金印をもらうはずがないと述べる。魏志倭人伝が記述している時代は3世紀である。一方、金印が授与されたのは西暦57年である。約200年の隔たりがある。200年前に女王国が九州北部にあったのかも明確ではなく、ましてその時代に「奴国」が女王国の従属国であったかどうかは分からない。200年も経てば、多くのことが変化すると思われるのだが…。
稲の集団的な栽培技術をもつ倭人が、どのようにして日本列島に定着し、特に九州北部をどの様な集団(国々)が支配権を確立していったのか、という変遷の視点がなく、魏志倭人伝に記された国々がそれ以前も、これ以降も続いていると木佐氏は考えているように思われ、この点で、私たちは疑問を感じた。


 佃收氏の『伊都国と渡来邪馬台国』(古代史の復元シリーズ2)は、様々は集団の渡来と支配の変遷を、文献や甕棺墓、青銅器、集落・住居の考古学的な資料などから考察していて、私たちには大変参考になる。志賀島に行って見ると分かるように、金印は畑としては余り適さないような急な斜面の中段から発見されている。王の墓などではなく、敵から逃れて、隠したような場所である。佃氏に依れば、倭奴国は力をつけて伊都国より独立し、後漢王朝から金印紫綬を賜るが、その直後に狗奴国に伐たれて滅び、一部は四国の西部に逃れたとされる。物的資料などを示しながら考察しているので、興味ある方は是非目を通してほしい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

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<第6章 「従郡至倭」と起点と経由>

 最初の行路記事「従郡至倭・・・狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至対海国。」について述べる。杜甫の五言律詩「春望」、李白の七言古詩「長恨歌」を例に挙げ、倭人伝冒頭からのリズムを解説する。意味内容とリズムがマッチして、韻が見事に踏まれた倭人伝の文章は名文であることが分かる。通説(岩波文庫の『魏志倭人伝』等)では「従郡至倭」を「郡より倭に至るには」と訳しているが、木佐氏は「郡を通って倭に至るには」としなければならないとする。また、この文はどこで区切られるかについて、通説では「・・・狗邪韓国 七千余里。」で区切られるとされているが、更に続いて「・・・千余里 至対海国。」までが一区切りであると主張する。文のリズム、内容から考えて、この様に区切るべきで、これは中華書局標点本での区切りとも一致していると述べる。


 次に「従郡至倭」を通説では、「倭の都に至る」と解釈しているが、正確には「倭の入口に至る」ことを意味するとする。東夷伝での記述例を検討し、国と国の距離は境界から境界までの距離を示していることを確認し、併せて、東夷伝高句麗や扶余などの記述に短里が用いられていることを示している。
 「従」は「通って」という経由の意味を表し、「自」は起点を表す。ところが、通説は長い間「従」は起点を表すと誤読してきたと述べ、『三国志』における「従」と「自」の全用例を調べて結果を示している。このように丹念な論述には頭が下がる思いがする。副産物として、『魏志』巻15と『魏志』巻9で、短里が使われている例を示している。

 

<第7章  狗邪韓国と「七千余里の論証」>


 この章では、いくつかの点に関して、漢文の解釈での著者の見解を述べている。最初は「乍南乍東」。通説では、南行と東行を小刻みに繰り返すことになり、通説に基づく古田氏の「韓地陸行説」を批判する。いくつかの文例を検討し、一連の動きが急に起こる一回の現象を表しているとし、「急に南に進路を変えて、そのまま南行し、次は急に東に進路を変えてそのまま東行する」と解している。
 次は「其北岸」。現在は、陸地を規準として岸の方向を呼ぶのが普通になっているが、『三国志』の時代では、陸地を規準とした方向の呼び方はまだ成立しておらず、水域を規準として方向が呼ばれているとする。『三国志』などから多くの文例を挙げ、「対海国の領海の北岸」の意味であり、「対海国の北の対岸」と訳すと述べる。
 次は「到」と「至」の違いについてである。『学研漢和大字典』の説明に依って、「至」はまっすぐ届くことを意味し、「到」は曲折をしながら届く、の意味であるとする。他の論者達が「至」は単に至るという意味で、「到」は実際に到着するという意味であると解釈したのとは対照的である。


 通説に依れば、「七千余里」の起点は帯方郡治(ソウル)であり、終点の狗邪韓国は東南端の「釜山」である。そうすると、韓は「方四千里」即ち縦横四千里だから、縦横を合わせて八千里となって「七千余里」を優にオーバーする。従って、この説は成立しない。まず終点は、「釜山」ではなく、「統営」(秀吉が朝鮮に出兵した時に、大海戦の戦場になり、以来水軍の本拠地になった地)であるとする。「統営」(トンヨン)は、韓の西南端から約三千里である。また、出発点は、『後漢書』の范曄が正しく理解していたように、「帯方郡境」であるとする。「帯方郡境」から狗邪韓国がある「統営」までが「七千余里」であるとする。
また、帯方郡治(ソウル)から「帯方郡境」(韓の西北端)まで100Km位であるから、短里で約1300里ある。陳寿がこれをどうして記していないか、の理由については、帯方郡は中国領であり、中国人には既知の情報であるため、わざわざ書く方が不自然であった、と木佐氏は述べる。更に、帯方郡治があったのはソウルと沙里院の両説があるが、地理的にも文献的にもソウルと考えられるとする。


 東夷伝の韓伝は次の文で始まる。「韓在帯方之南 東西以海為限 南与倭接 方四千里。」ちくま学芸文庫は、次の様に訳している。「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接して、その広さは縦横四千里ばかりである。」この記述などから、韓の南岸部に倭地があった、という説が出ているとする。いくつかの文章を検討し、「接」が使われていても接していない例が多く見られ、「接」は敵対関係も含めた国際関係の存在を示している、と述べる。そのことから、倭地は朝鮮半島には無く、狗邪韓国も倭地ではない、と木佐氏は述べる。


 この章の最後に、韓伝での辰韓十二国と弁辰十二国の合計数が合わず、重複もあるが、こうなった原因について、木佐氏の見解を述べている。(これについては、【Ⅳ】(1)1章参照)
 木佐氏は「七千余里の論証」として、次の6点をまとめているので、それを簡潔に記しておこう。(1)「七千余里」の起点は帯方郡境である。(2)「七千余里」の里数は「暦韓国」の里数である。(3)「帯方郡」は沙里院にはなく、ソウルにあった。(4)「乍南乍東」はジグザクの沿岸航海ではなく、韓の西岸と南岸の直行行路である。(5)「狗邪韓国」の位置は、統営付近である。(6)「帯方郡治~女王国」の部分里程の不足「千三百里」は「帯方郡治~韓境(帯方郡境)」の里程である。

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  日本古代史についての考察

<8章 対海国から女王国まで>

 この章の前半部分では、対海国に至り、伊都国に到着するまでの行程について、主に考察する。対海国では浅茅湾に寄港したとするが、対海国の「方可四百余里」については、古田氏の見解などとは違う見解を示す。「方○里」という表現は、古代における「面積の一般的な表示法」であり、形は正方形である必要はなく、正方形の面積に換算して広さを示す方法であると述べ、『史記』、『漢書』、『魏志東夷伝の東沃沮伝から例を示す。古田氏は、南島(下県郡)だけを対海国の対象とし、南島を「方可四百余里」の正方形と捉えている。この理解だと、浅茅湾から船越を越え、対馬海峡に出ることになるが、大船越の開削工事が完成したのは江戸時代であり、魏志倭人伝の時代には無理であると、古田説の矛盾を指摘する。


 戸数表示の単位として、なぜ「一大国」と「不彌国」のみ「戸」ではなく、「家」が使われているのかの説明に、私たちは初めて接し、この本の題名にあるように「かくも明快」だと感心した。
「戸」は税を納める単位で、「家」は税を払う単位ではなく、単に住居としての単位であることを、日本神話を読み解くことから理解できたと述べている。朝鮮半島からいち早く稲作を導入した対馬は、多くの地域を自分達の領域とした。壱岐に住む人たちは対馬の戸主の小作人だったり、息子たちだったりするので、税は対馬の戸主が払っていた。したがって、「対海国」は「千余戸」と表し、「一大国」は「三千許家」と表される。木佐氏は不弥国についても「家」が使われているのは、「港湾労働者の出入りが激しく、収税の単位として成立していなかったせいであろう。」(p.282)と述べている。


 次に、松盧国の港は旧松浦川の河口付近とする。従来の九州説では、「伊都国」は糸島郡前原市付近とし、「奴国」は博多付近としているが、この説の問題点を指摘する。この説では、松盧国から原文にあるように「東南」に進むのではなく、「東北」の糸島半島方向に進むことになる。皇国史観本居宣長が奴国は「儺の県」としたこと、志賀島での金印発見などによって、この説は主張されるようになった。しかし、伊都国は(いとこく)ではなく(いつこく)と読まれ、奴国は(なこく)ではなく(のこく)と読まれるが適切であるとして、この説の論拠が成り立たないとする。また、出発する時の方向を示したとする古田氏の「道しるべ」読法についても不自然であるとする。唐津糸島半島を結ぶ「唐津街道」ができたのは、江戸時代であるので、この経路を考えることには無理があると、高木彬光氏と全く同じような指摘をしている。(【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? 参照)


 章の後半部分では、「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」までを考察し、木佐氏の考える行程である「佐賀ルート」を説明する。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか?で詳しく見たように、このルートは、松盧国(旧松浦川の河口付近)から原文にあるように「東南」に進み、伊都国を佐賀県小城市付近であるとする。また、奴国は佐賀市付近であるとし、不弥国は筑後川の河口にある千代田町辺りとする。更に、邪馬壹国の宮殿は高良山にあったのではないかとする。


 次に、帯方郡治から女王国までの総里程が万二千余里と明記してあり、これとのつじつまを合わせるために考え出されたとして、榎一雄氏などの「放射コース論」や古田氏の「島めぐり」読方を批判する。「放射コース論」は「方角+距離+地名」は主線行程を表し、「方角+地名+距離」の記述は傍線行程であるとするものである。これに対して、倭人には「里数」の考えが無いので、「里数」表示があれば、郡使一行が実際に行って計測した結果であり、主線行程であると反論する。また、古田氏が「至」という字の全用例調査をして主線行程であるか傍線行程であるかの判別法を示したと述べているが、実際に少し調べただけで、明らかに間違っていることが分かったとし、「至」だけで十分に主線行程となっていることを示している。続いて古田氏の「島めぐり」読方の批判に移る。この説は、千四百里を生み出すために、対海国の縦横を陸行して八百里とし、一大国の縦横を陸行して六百里としている。魏の使節が対海国や一大国でわざわざ船を降りて陸行することはあり得ないだろう。古田氏の「韓地陸行説」も同じく全く不自然である。


 木佐氏は主線行程と傍線行程の区別は、陳寿が先例とした『漢書』西域伝に示されているとして、これを丹念に考察する。それに依れば、各国とも王都を明示した後、首都(長安)からの総距離を記しており、里数表示ではなく日数で総距離が示される場合は主線行程ではない、ということである。この観点から「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」を解釈すると、首都(洛陽)から邪馬壹国まで行くのに、水行十日陸行一月要するということになる。
その前の「南至 投馬国 水行 二十日」については、不弥国から南に水行二十日であるから、投馬国は琉球圏であり、この国は漢書地理志に出てくる「東鯷人」の後身と考えられる、と述べる。


 私たちが最初古田氏の「島めぐり」読方に触れたとき「成る程、このように考えれば、魏志倭人伝が合理的に解釈できる!」と感激しながら読んだ記憶がある。古田氏が魏志倭人伝を合理的に解釈できるとした主張したことは、大きな影響を与えた。しかし、今、木佐氏の批判を読んでみると、木佐氏の主張も十分な説得力があるようにも感じる。ただ、並列して記されている「南至 投馬国 水行 二十日」と「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」はやはり同じ出発点ではないだろうか、と私たちには感じられる。次の章で述べられる、洛陽から邪馬壹国までの総日程に、余りに無理があると考えるからである。

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<第9章 倭の政治地図と裸国黒歯国>

 国名のみ21カ国が記され、最後の「奴国」の後、女王の境界が尽きる所と書かれ、その後に「其南 有狗奴国 男子 為王」とある。この21カ国は遠絶で詳しいことを得ることはできない旁国であると、木佐氏は述べ、女王国の南に旁国21カ国を置き、その南に狗奴国を置く図を示す。更に、旁国21カ国は熊本県、それに宮崎県の北半分とし、狗奴国は「熊襲・隼人」の地であり、鹿児島県や宮崎県の南部を含んでいると述べる。また、女王国より以北の国々は、行路記事に出てくる対海国から不彌国までの6ヶ国としている。


 これについては、私たちの意見は全く異なる。倭人伝の冒頭、今使訳の通ずる国が30国あると記している。私たちは、21カ国はこの使訳の通ずる30ヶ国の中の国であると考えている。21カ国を加えると、名前が分かる倭の国がちょうど30ヶ国になる。使訳の通ずる国の名前を書かないで、遠絶で詳しいことを得ることができない旁国の名前を書くことがあるだろうか。
また、狗奴国とは仲が悪く、戦争が起こるが、もし女王国と狗奴国の間に遠絶で詳しいことを得ることはできない旁国21カ国があるなら、戦争は頻繁に起り難いのではないか。まして、女王国の宮殿が高良山にあり、狗奴国が鹿児島県などの南九州にあるとしたら、一触即発のような状況になるのだろうか。女王国と狗奴国は大国だが、やはり接しているのではないだろうか。


 次に、「水行十日 陸行一月」を木佐氏は、洛陽から邪馬壹国までの総日程と解釈している。陸行一月のほとんどの部分(28日)は、洛陽から山東半島までの陸行に当てられ、末盧国から伊都国が1日、伊都国~奴国~不彌国~邪馬壹国が1日であるとする。水行では、山東半島の煙台から朝鮮半島の長山串へ渡って仁川までが3日、仁川から狗邪韓国までが4日、狗邪韓国から三海峡で3日とする。末盧国から邪馬壹国への行程が2日間である。「残りの「伊都国~奴国~不彌国~邪馬壹国」は二百里余り(約16キロ)だが、……余裕がある一日行程であり、朝発って夕刻には卑弥呼に会うことが可能であった。」(p.324)と言うのは信じ難い。
 郡使は行列をなし、沢山の濡れてはならない絹布や銅鏡百枚を持ち、訪れる各国で国と国との挨拶の儀式を行い、前の人が見えないように草木が生い茂る道を行く。雨の時は、どうするのだろうか。川はどの様に渡るのだろうか。このように考えるとき、上の見解に納得することは、極めて難しいことだと思われた。


 倭人伝は、女王国の東千余里海を渡ると、復国が有り、皆倭種である、と記している。この女王国の東岸は行橋市付近であるとする。行橋から周防灘を東に進むと、古代の海の関所で有名な上関にぶつかる。上関から東の瀬戸内海領域は「吉備王朝」の勢力圏で、この倭種の国を表しているとする。上関の近くの祝島から南下し、佐多岬の先端をかすめて豊後水道を進むと、四国の最南端、宿毛市の沖の島付近に出る。ここが「侏儒国」であるとする。「侏儒国」の入口の沖の島付近から「東南」へ「船行一年」の裸国・黒歯国はミクロネシアポリネシアの島々に当たる、と木佐氏は述べる。


 最後に「参問 倭地・・・周旋可 五千余里」についての説を示す。従来は、帯方郡治から邪馬壹国まで万二千余里であり、狗邪韓国までが七千里であったので、引き算をして、倭地を周旋するのに、五千余里であると解釈していた。しかし、帯方郡治から帯方郡境(韓境)までの千三百里が万二千余里の中に含まれており、狗邪韓国から邪馬壹国までは三千七百里となる。邪馬壹国から女王国の東岸の行橋市付近までがちょうど千三百里であり、女王国の東の端まで行ったことが周旋に当たり、三千七百里行橋市付近までの千三百里を合わせて、五千余里であると、従来説と異なる見解を述べる。郡使は、行橋付近まで行くことにより、関門海峡を知り、確かに九州は島国であることを確認しているとする。

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<第10章 倭国の風土と外交>

 倭人が地位に関係なく皆、体や顔に入墨をしている習慣があることを、中国の人々によく知られている『史記』や『漢書』に書かれている「会稽」での記事を用いて説明している。また、倭国は地理的に「会稽東治」の東に在ると述べている。この内容については【Ⅲ】(7)「会稽東治之東」 のところで詳しく述べている。この章の冒頭、この部分の漢文のリズムについての説明も心地よい。
 原文の「会稽東治之東」は「会稽東冶之東」の誤りだとして、定説では「会稽東冶之東」とされている。これについては、范曄が『後漢書』で「会稽東冶之東」と字を直したことが作用している。范曄がどうして字を変えてしまったのかについての本書の考察は、【Ⅲ】(7)「会稽東治之東」 のところで示したように、『三国志』が書かれた東晋の時代は短里が使われていたが、范曄の属する宋(420~479年)の時代は短里から長里に復帰し、范曄は長里で魏志倭人伝を読んだので、倭が実際よりはるかに南に位置するとした誤りが生じたと、木佐氏は述べ、実際に、長里で考えた場合の倭の位置について地図上で確認している。(p.348)また、1402年に『後漢書』に基づいて、朝鮮で作られた地図を掲載している。(p.349)この地図では、確かに日本が「会稽東冶之東」に位置している。


 倭人伝の後半部分に入り、岩波文庫魏志倭人伝』の誤訳をかなり多くの点で指摘している。「婦人は淫らでなく、嫉妬もしない」という文の後の「不盗窃 少諍訟」を婦人の行為として岩波文庫は解釈しているが、これは婦人の行為というより、社会一般の話と理解し、次の法律を犯すものについての刑法的な文に繋げるべきであると述べる。また、刑が重い者には門戸及び宗族を滅すると岩波文庫は解釈しているが、門戸と宗族は同じような意味だから、門戸のところで区切り、「及 宗族」は次の文「尊卑」につなげるべきで、「宗族の尊卑に及べば」、と訳すべきであると言う。そうしないと、対句のリズムが台無しになってしまうと指摘する。この他の指摘についても、妥当であると感じられる点が多い。


 この章の最後に、難升米と卑弥呼の関係について述べている。正始6年(245年)、倭難升米に「黄幢」が詔賜され、帯方郡に付される。「黄幢」が詔賜されるのは、蛮夷では他に例を見ないほどの特別扱いであり、「刺史や倭王武に相当する高位にのぼったことになり、「親魏倭王」の卑弥呼と少なくとも同格、実際はやや上回ると見てよい。」(p.368)とする。更に、「魏は狗奴国との戦乱の収拾を難升米に託した。魏は、卑弥呼を見限ったのである。「卑弥呼、以って(=このようなわけで)死す」は、卑弥呼の追い詰められた死を示す。卑弥呼のような「王」の死亡を「薨」ではなく、「死」と表すのは異例だ。」(p.368)と述べる。


 こう言い切ってしまっていいのか、少し不安になる。というのも、正始8年(247年)に倭載斬烏越を帯方郡に派遣するのは卑弥呼である。正始6年(245年)の段階で、魏に見限られているとすれば、派遣するのは難升米になるのではないだろうか。もちろん、難升米の評価が上がっていることは否めないが、卑弥呼が見限られて、追い詰められて死んだとは言えないのではないだろうか。狗奴国との不和は、卑弥呼個人の問題ではなく、邪馬壹国と狗奴国の問題であることは、狗奴国がこの後、「熊襲」として、日本史に登場してくることからも明らかではないだろうか。また、もしこのような死に方をしたなら、百余人の奴婢を徇葬者とした冢が作られるだろうか。卑弥呼は、狗奴国との戦争で、重傷を負うかして、戦死したのではないかと私たちは考えているのだが…。

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<第11章 女王国の歴史と「倭国乱」>

 古田武彦氏は、『魏志』斉王紀に「俾弥呼」と記されていることから、卑弥呼ではなく、卑の字に人偏のついた「俾弥呼」が女王の正式名称であると述べ、更に、「ヒミコ」ではなく、「ヒミカ」と読むべきだと主張した。(⑤『俾弥呼』(古田武彦著))れに対して、倭人伝に記された明帝の詔書は、斉王紀の記事より5年早い記事であり、詔書卑弥呼本人に宛てた形式を取っている正式文書であるなどの理由を明確に述べ、古田氏の主張は当たらないとする。


 「其国 本亦 以男子 為王 住七八十年」の「本」は「昔」の意味ではなく、「始まり」という意味であり、この文は、男王という制度が建国以来七八十年続いた、と解さなければならないと述べる。続く文「倭国 乱 相攻伐 暦年」の中の「暦年」の全用例調査を行い、「暦年」の意味は足かけ7~9年の可能性が高いとして、倭国の乱が足かけ7~9年続いたとする。
 次に、朝鮮の史書三国史記新羅本紀、阿達羅尼師今に書かれている、173年に卑弥呼新羅に使者を派遣してきたという記事を挙げ、この記事は干支の一周期60年分ずれていて、233年に遣使しているとする。また、即位直後に遣使したと考えられるから、即位は233年頃となる。

 以上の考察の結果、女王国の建国は150年前後と見ることができ、女王国の始まりが魏志倭人伝に記載されていることになる。また、「倭国乱」の開始は220年代の中頃から230年代初めであり、魏・蜀・呉の三国が出そろったのは222年であることから、これは三国時代の初めの混乱期と重なっているとする。


 ところが、通説は『後漢書』と『梁書』の記述をもとに、2世紀半ばに「倭国大乱」があったとし、「桓霊の間」を「桓帝霊帝の全期間」と解釈し、「146年~189年」の44年間が「大乱の期間」としている、と指摘する。用例を検討した結果、「桓霊の間」は二帝の交代時期を表し、167年~168年前後を表すとする。まず、『後漢書』の著者の范曄、『梁書』の著者の姚思廉が、倭人伝の記事を誤まって読んでいること、次に「邪馬台国」学者が「桓霊の間」を過って解釈していることなどから、この様な通説の誤りが生じたと述べる。


 この結果、「倭大乱」は2世紀ではなく、3世紀が正しいと木佐氏は主張する。【Ⅲ】(8)倭人倭国とは何か のところで触れたが、『三国志』韓伝で、建安中(196年~220年)に韓と倭が帯方郡に属す、と述べた記事がある。木佐氏の説は、同じく通説と異なる見解である佃氏の見解とも異なっていることは分かったが、この『三国志』韓伝の記事とどのように整合性をつけることができるのか、疑問に思った。


 最後に卑弥呼の年齢を推定している。「年已長大 無夫婿」と書かれていることから、「長大」が使用されている『三国志』の文例を検討するなどして、この文は「結婚して当然の二十歳を既に過ぎていたのに、結婚していなかった」という意味であるとしている。233年に、15歳~17歳で即位し、死去を正始8年(247年)とすると、29~31歳の女盛りで亡くなった事になるとする。

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<第12章 天孫降臨の山>

 この最後の章は、ページ数の関係で結論を急いだのかもしれないが、著者が代わったような印象を受ける。昔の歴史学者が「歴史はロマンだ」と言って、自分の文学的な印象を述べる歴史書のような感じを受けた。記紀高天原からニニギノミコト天孫降臨したことを記す。木佐氏はこれを「アマ王朝」と呼ぶ。そして、「この「アマ王朝」が、魏志倭人伝に描かれた「九州王朝」と同一王朝であるのは言うまでもない。」(p.403)と簡単に述べる。戦前の和辻哲郎や栗山周一が述べたのと同じような見解である。


 私たちが学んでいる佃氏の古代史は、倭人の中の主だった氏族として「天氏」と「卑弥氏」をあげ、これらの氏族がどのような経路で日本列島に渡来してきたかを述べる。天孫降臨したのは「天氏」であり、その後九州北部に渡来し、邪馬壹国を樹立した「卑弥氏」によって、「天氏」は支配権を奪われ、「神武東征」によって大和に進出するようになる。また、邪馬壹国もやがて、同じ「卑弥氏」の国である狗奴国に滅ぼされたのではないか、と述べている。佃氏の説とは別の説を展開するにしても、倭人の王朝は一つではないと思われる。理由も示さず、同一とするのには、首を傾げざるを得ない。
「近畿王朝は、「アマ王朝」の血筋を引いた神武が、近畿に開いた分王朝であると、記紀神話は主張している。」(p.404)と述べるが、この本の1章で、「…「魏志倭人伝倭国は、大和朝廷とは無関係」であることの端的な証明である。」(p.44)と述べていることにも反している。


 高良山天孫降臨の山であり、卑弥呼の宮殿があったとし、その理由の一つとして、イメージ的に神籠石遺跡をあげている。古田武彦氏は『失われた九州王朝』(p.554~)で、「神籠石山城」論を述べている。この本では、神籠石遺跡は九州だけでなく、瀬戸内海の石城山(山口県)にもあることが示され、すべて海からの侵入を防ぐような位置に分布している。佃收氏は『新「日本の古代史」(下)』(p.298~)で、『古事類苑』「神衹部 四」の記述から、高良神社は白鳳2年(662年)に創建されていることを示し、高良山・帯隈山(肥前)に築かれている「神籠石(山城)」は、天武天皇が唐・新羅との戦いに備えて、白村江の戦いの直前に築いたとしている。これらの説明に対して、木佐氏の神籠石遺跡の説明は直観を述べているだけであり、もう少し詳しい分析が必要であると思われる。


 「「竺紫の日向の高千穂のクシフル岳」で肝心なのは、「「筑紫の日向」とある以上、この日向は筑紫(福岡県)の中にあるということだ。…「日向」を「日向国」ととるのも無理である。「日向国」の成立は律令体制確立に伴うもので、大宝律令施行の702年以降である。」(p.409)と述べることは全く正しい。更に、「日向」という地名は、北部九州だけで28もあると言う。古田武彦氏の「日向(ひなた)峠」が有名であるが、木佐氏は筑後にも「日向神社」があり、『続日本紀』には「日田は以前は日向といった」と書かれていると言う。
 高良山を「此の地は韓国に向かい、笠沙の御前に真木通り、…」と解釈して、「高良山唐津を結ぶ「佐賀ルート」が韓国に至るメインルートでだからだ。」(p.414)と述べていることは、苦しい。高良山からは筑後平野が開け、有明海に向かっていることは分かるが、韓国に向かっているのだろうか。私たちには、古田武彦氏の説や、佃收氏が『新「日本の古代史」(上)』の冒頭論文「弥生渡来人と「天孫降臨」」で述べている説の方が、理由を明示していて、説得力があるように思われた。


 「九州王朝の都は、ニニギや卑弥呼から、六世紀の磐井まで、連綿として高良山にあった。」(p.417)と述べている。気になるのは、ニニギノミコトの開いた王朝、邪馬壹国、倭の五王などが同じ王朝の系譜として捉えられてはいないか、ということである。単に九州で倭を名乗るということだけで、同じ王朝とするのは単純過ぎるのではないか。


 私たちは、「筑紫の日向」の古代糸島水道付近から、神武は出発したと考えて考察している。木佐氏は、神武も高良山にある「高千穂の宮」から出発したと言う。神武と邪馬壹国の関係はどうであったのか。また、記紀の記述では、神武は水路を辿って行くとされているから、高良山から筑後川を通り有明海に入って行くと考えるのだろう。そこからどのように進むのか考察する必要があり、更にその説に矛盾がないか、記紀の記述との整合性があるかなどの検討も必要である。
 ページ数をこれ以上増やさないためだったと推察されるが、この章はお話的な記述に留まり、前までの章と比べて説得力に差があるように感じられた。

 

<最後に>

  本当に多くのことを学ばせていただき、木佐氏に感謝したい。豊富な幅広い知識体系に支えられた記述であり、考察の進め方も妥当性があり、納得できる点が多かった。魏志倭人伝の素晴らしさを十分に伝えている本であると思う。私たちは、まず木佐氏の説の要点を正確に記述すること、次に納得できない見解についてはその理由をキチンと述べることを心掛けた。膨大な資料を丹念に調べて論を進めている著者に対して、知識量も勉強量も少ない私たちが批判するのはおこがしく、申し訳なく思うが、敢えて違う意見の場合は批判をさせていただいた。私たちの思い違いであることが多いかもしれないが、相互批判がこれからの日本古代史の研究には特に必要だと考えたからである。


 私たちも古田武彦氏の著作に接して古代史を勉強するようになったが、木佐氏も古田氏から影響を受け、古田氏の不合理な論点を整理検討することを一つの中心軸として研究を進めて来られたのだろう。古田氏は九州王朝をつながった一つの王朝と捉えていたので、木佐氏もその延長線上で考察しているように思われる。卑弥呼の3世紀の前はどうであったか、即ち、倭人はどの様に日本列島に渡来してきたのか、またその後の4世紀はどうなっていくのか、神武東征はどの様に行なわれ、その後の邪馬壹国はどうなって、更に、倭の五王はどのようにして生れてくるのかなどの考察が必要になる。木佐氏の視点は3世紀に留まっている感があり、その点で、私たちには少し残念な気がした。ただ、最初接した時は素晴らしいと感じた古田氏の「島めぐり」読方、榎氏の「放射コース式」読み方を再び、原点から考え直すことを示したこと、漢文のリズムの指摘など、私たちが思いもよらぬ点にまで視点を拡げてくれたことには本当に感謝しかない。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察