魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(2) 「末盧国」で上陸した港はどこか?

 帯方郡から朝鮮半島に沿って船で狗邪韓国に到着し、対馬壱岐を経て「末盧国」に上陸している。古田武彦氏は「陸行1月」を説明するために、「韓国国内を陸行している」としているが、これは論外としていいだろう。帯方郡から港まで行き、船で出発する。その後、韓国内で一旦船から降りて陸行し、その後また船に乗り狗邪韓国に到着するという事は考えられない。「陸行1月」は別の観点から説明されなければならない、と思われる。
この上陸した「末盧国」はどこだったか、について考察してみよう。
 古田武彦氏は東松浦半島呼子唐津、浜崎が候補として考えられるとし、一大国との距離が千余里であることなどから、唐津であろうとしている。(③『「邪馬台国」はなかった』)孫栄健氏は、「…現在の松浦半島の唐津湾岸と定説される。考古学の成果によれば、その中心は唐津市の桜馬遺跡から鏡山地区の宇木汲田遺跡であると言われる。」(②『決定版邪馬台国の全解決』p.159)と述べ、行程中の末盧国の基点を松浦川河口と見て、行程として書かれた内容に見事に一致すると述べる。木佐敬久氏は「末盧国は、通説どおり唐津でよい。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.255)と述べ、「末盧国の港は、現在の唐津港より東南にあり、旧・松浦川の河口を少し遡ったあたりと思われる。」(同p.258)としている。末盧国の位置については、古田、孫、木佐氏、三氏ともほぼ同じ見解である。


 これに対して、佃收氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』(p.24)の中で、長年タグボートの船長をしている高橋実氏の説を紹介しながら、呼子町名護屋港であるとしている。「船を長期間停泊させるには良港が必要である。博多湾唐津湾は遠浅であり、丸木舟には最適であるが大型船には不適である。北部九州の中で大型船に最適な天然の良港は名護屋である。魏の船は大型船であるから、名護屋を港に選んだのだろう。」と、高橋氏の見解を書き、続いて「…豊臣秀吉も朝鮮征伐の時に名護屋を港に選んでいる。私は高橋氏の「末盧国=名護屋」説に賛成である。」と述べている。
 作家の高木彬光氏は、著書⑨『邪馬台国の秘密』の中で、魏の使節の上陸港を宗像海岸の神湊としている。東松浦半島呼子唐津、浜崎などに使節が上陸したとすると、次に向かう伊都国へは唐津街道(現在の国道202号線)を通って行くことになる。ところが、卑弥呼の時代の3世紀頃は今より海岸線が6mくらい高く、今の唐津街道の大半が海の中に消えてしまう。歴史学者達が言う伊都国への道は存在しないのではないかとし、東松浦半島への上陸は考えられないとする。続いて、玄界灘は風が強く、強い風の日が少ない8月ころが渡航には便利であることを述べ、「夏の8,9月ごろといえば、…台風の季節に入っている…なるほど、魏使たちが上陸して、邪馬台国へ行っている間に、台風か何かにあって、船をやられてしまっては、帰国するにも手段がなくなって来ますね。…」(⑨p.288)と述べる。その結果「そういう風に対するそなえまで考えると、博多湾方面に、良港は一つしか考えられないのだがなあ…宗像海岸、神湊-…僕には、風に対して強い古代の港は、博多湾では、ここしかないように思われるんだ。」(⑨p.289)と神湊説の理由を述べている。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』を見ると、末盧国=佐世保説もあり、この説を唱えるのは中国人学者に多いという。壱岐から「千余里」であることを重視した見解だろう。


 それぞれの説を比べてみて、私達は魏の使節の上陸地は、佃氏や高橋氏が述べる名護屋港だと考える。こう考えたのは、主に3つの理由からである。1つ目は佃氏の次のような指摘による。「当時の中国の船は大型構造船である。150-300人は乗れる大きな船である。安全な航海ができる。一方、弥生時代の日本列島の船は丸木舟である。せいぜい20-30人程度しか乗れない。波が荒いときは危険である。また、丸木舟では波を被る。下腸品は絹織物だけででもトラック1台分はある。(更に銅鏡100枚)魏の使者はこれらを海水で濡らすことなく無事に届けなければならない。丸木舟ではとても無理である。魏の使者は危険性から見ても、丸木舟には絶対にのらないであろう。」(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.102)大型構造船が長期間安全に停泊できるのは、名護屋港と思われる。秀吉が使っていないところを見ると、宗像海岸の神湊港は大型構造船には適さないのではないだろうか。
 2つ目は、魏志倭人伝に「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」と書かれた文面による。「末盧国」では前の人が見えないくらいに、草木が繁茂していると言う。倭人の活動では、丸木舟が使用される。したがって、水深が深過ぎる名護屋港は、倭人の活動には適していない。魏の使者が来たときだけ使われ、普段は余り使われない。だから道もないくらいに、草木が繁茂しているのではないだろうか。


 3つ目は、魏志倭人伝の次の行程文「東南陸行五百里到伊都国」による。「末盧国」から「東南」方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着するという。「伊都国」は古田氏、孫氏、佃氏共に定説のように福岡県前原市付近だとしている。「末盧国」の位置については、古田氏、孫氏が唐津であるとする。地図上で唐津から前原方面を見ると、東北の方向になる。魏志倭人伝が言う「東南」の方向とは全く異なる。古田氏は、この点を解決するために、「東南陸行」は「末盧国」から「伊都国」への方向ではなく、「末盧国」を出発する時の始発方向であると述べ、「道しるべ」読方と名付けた。確かに唐津市を出発して前原市に向かおうとすると、唐津湾を回って行くから、始発方向は東南になる。しかし、そのような場合、東南方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着する、と言うだろうか。途中でいくらでも方向が変ることがあるから、始発方向だけでは、伊都国に到るとは言わないのではないか。


 次に孫氏はどの様にこの点を解決したか、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で見ていく。「『魏志』によれば、末盧国より伊都国までは「東南陸行五百里」と述べられる。この伊都国を…その中心は福岡県前原町の平原弥生遺跡のあたりと推定される。すると、末盧国より「東南」ではなく「東北」の方向になる。だが、この記述は前述の『魏略』逸文に「東南五百里、到伊都国」とすでに「東南」が用いられるように、何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう。」(p.159)と述べる。これで理由を示したことになるのだろうか。『魏志倭人伝が方向「東南」を記し、『魏略』も同じ方向「東南」を記している。しかし、定説であるとされる「末盧国」=唐津、「伊都国」=前原市では、方向「東南」の説明が全くつかない。このような場合、定説である出発点や到着点を再検討することもなく、「何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう」として、間違いがそのまま載せられているとする。なぜ間違えたのか、どのように間違えたのかについての考察を全くしないまま、結論を下している。このような論法が許されるなら、自分と異なる結論はすべてこの論法で否定できるのではないか。魏志倭人伝の行程文「東南陸行五百里到伊都国」についての古田氏と孫氏の見解には同意することができないことを示した。


 次に、佃氏と木佐氏の見解を見てみる。まず、佃氏の見解を見よう。佃氏は使節が上陸したのは呼子町名護屋港、また「伊都国」=前原市としている。現在の地図で見ると唐津前原市は東北の方向であり、呼子町名護屋港)→前原市は東の方向になる。佃氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』の中で、野津清氏が邪馬台国物語』(雄山閣で明らかにされた次のことを指摘する。「中国人は西暦前1100年ほどまえから周髀(しゅうひ)の名で、太陽観測によって正確な方位の測定を見につけていたわけで、倭人伝が書かれた時代でもこと方位に関する確信は、1300年の伝習の上に築かれていたのだから、(中略)。現在、われわれが使っている地軸の方位を真北・真南で表した地図に当てはめる場合、軌道に対して、23度27分、地軸が東に傾斜しているから、これだけは、必ず修正しなければならない。そうしないかぎり、倭人伝の方位が今の地図の上では合わなくなる。」(⑦p.25)この古代中国人の方向で記せば、唐津前原市は東北東の方向であり、名護屋港→前原市は東南東の方向になり、ほぼ東南である。名護屋港→前原市魏志倭人伝が示す「東南」の記述に合っている。これが、上陸した「末盧国」=唐津を否定し、名護屋港とした3つ目の理由である。


 『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』の著者の松下孝幸氏は、この本の第5章倭人伝の弥生人の中で、次のように述べている。「この「末盧国」は現在の唐津市を中心にした地域に比定されている。確かにここには宇木汲田遺跡や青銅器を出土した桜馬場遺跡などの遺跡が集中しており、このあたりが「末盧国」の中心地だったと考えられている。しかし、私は「山海に濱いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水、深浅無く皆沈没して之を取る」という魏志倭人伝の文章からどうしても東松浦郡呼子町の大友遺跡を想起してしまう。大友遺跡は呼子町の海岸に存在する埋葬遺跡である。」(同p.131) 松下氏は、魏使は呼子町に上陸したような印象を持っている。氏は、同書の中での弥生人の人骨を3つのタイプに分類し、中国の古人骨との比較・検討をしている。また、大友遺跡の発掘調査の結果やそれから考えられることについても述べていて、大変興味深い。


 次に木佐氏の見解を見てみよう。木佐氏は「末盧国」=唐津とし、「伊都国」=現在の佐賀県小城市付近とする。まず、前に高木彬光氏が指摘したように、唐津から前原に向かうルートは大変危険であることを指摘する。「唐津糸島半島を海岸沿いに結ぶ「唐津街道」ができたのは、江戸時代である。現在でも、県道付近は道幅に余り余裕がない。というのは、背振山地の尾根が肥前佐賀県)と筑前(福岡県)を別ける境界となっており、この背振山地は海岸近くまで迫っている。このため通説のように、唐津から海岸伝いに「前原」方面に向かうのは「親知らず、子知らず」を通るように危険であった。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.273)
 方向については、古田氏や孫氏のように考えず、現在の地図上で素直に東南方向に、唐津から小城市付近に進む。松浦川厳木川の左岸、現在のJR唐津線と国道203号線が走っている川沿いの道を進む。これを、木佐氏は「佐賀ルート」と呼んでいる。小城市付近には国史跡・土生遺跡があり、佐賀平野西部では最大規模とされる弥生中期の集落跡が残っているという。確かにこのルートも考えられるのだろうが、「山海に濱うて居る」という魏志倭人伝の文言に適しているかはやや疑問が残る。「伊都国」から東南に百里(7.6Km)で、「奴国」に至る。この「奴国」は佐賀市付近とであると述べ、佐賀市北部の大和町にある国府跡はその有力な候補地であろうとする。また「奴国」の「二万余戸」の人口は、佐賀平野の穀倉地帯が支えていたとする。次に「奴国」から東に百里行くと千代田町辺りで筑後川にぶつかる。ここが「不弥国」であるとする。当時は筑後川下流も現在より西寄りを流れ、「不弥国」は有明海の湾奥、筑後川の河口近くになると述べる。

 

 「不弥国」の人口は「千余家」と「戸」単位ではなく。「家」単位で表されている。税を徴収する単位として「戸」があり、税を払う単位としてではなく、単に住居としての単位が「家」であると説明し、「不弥国」は港湾労働者の出入りが激しく、住民が収税の単位として成立しなかったのではないかと述べている。更に、筑後川の河口を肥前側(佐賀県)から筑後側(福岡県)に渡ったところが「邪馬壹国」であり、現在の久留米市城島町付近が入口である。また、女王の宮殿のあった場所は高良山ではないかとする。「高良山には筑後一の高良大社があり、現在でも神社建築としては九州一を誇る。この高良山を囲むように、神籠石の石が残っている。」(①p.307)「女王国は九州の東岸に面している。これらを考えると、女王国は現在の福岡県と大分県に相当する。」(①p.308)と結論付けている。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察