魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

【Ⅲ】 個々の論点

 さて、以上の考察に続いて、個々の論点について考えてみよう。

(1) 対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?

 

 魏志倭人伝で、対海国(対馬国)は「方可四百餘里」と書かれている。現在は、二つの島に分かれているが、当時はつながった一つの島であった。名前の呼び方が紛らわしいので、他の本と同じように、下島という名の北側の島は上県郡で、これを北島、上島という名の南側の島は下県郡で、これを南島と呼ぶことにする。                       

f:id:kodaishi:20191227161648j:plain(左①p.261図8-2より、

                             右⑧p.87地図7より)
 古田武彦氏は、南北両島では、南北と東西の長さが違い過ぎて、「方可四百餘里」の表現に適さないとして、「対海国」は南島だけを指していると述べる。南島と一大国(壱岐)は方形に近く、それぞれ「方可四百餘里」と「方可三百里」と書かれているから、両島をそれぞれ半周すると2倍の八百余里と六百余里になるとし、これを「半周」読法と名付けている。
 孫氏も全く古田氏と同じ考えで、「方可四百餘里」は方形を表しているとする。魏使の航路は、西側から浅茅湾に入り、大船越を越える航路だとする。大船越は、江戸時代に開削工事を受けるまでは陸地がつながっていた。しかし、弥生時代の海面は今より高かったので、船越の古代水道を抜けることができた、と孫氏は述べる。
 

 これに対して、木佐氏は「方○里」というのは、面積の一般的な表示法であり、正方形に換算して面積を示せば分かり易いので、このような表現がされたとし、例を示して反論した後、次のように述べる。「…昔は船を引いて陸を越え、浅茅湾対馬海峡をつないだのが、地名の由来である。浅茅湾の南東隅に位置する大船越の南は、数百メートルで対馬海峡だ。1672年に、この大船越瀬戸の開削工事が完成した。魏志倭人伝の時代、対馬は一つの島であった。南島自体も、南北方向は約二十七キロ(約三百五十五里)、東西方向が平均十二キロ、最大でも二十キロ程度(約二百六十里)だから、正方形からはほど遠く、「方可四百餘里」とも大きくずれている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.262)
 底が平らな倭の船ならともかく、魏使の船は大型構造船なので、多少海面が高かったとしても引いて陸を越えることは無理ではないだろうか。そうすると、どの港に寄港したのだろうか。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』では、最初に北島の港に寄港したとする見解が多いとし、(1) 北島、佐須奈 (2)北島、佐護 (3)北島、鰐浦などを揚げている。北島、鰐浦は、神功皇后新羅に渡るとき、ここから出発したという伝承があるという。南島の方が、当時も人口密度が大きかったとみられ、対馬の都のあったのは南島の可能性の方が高く、北島の港に寄った後、南島の港に到着したのかもしれない。


 それに対して、松下孝幸氏は『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』(長崎新聞新書)(p.104)の中で、「最近の発掘調査で、この(対馬国の)中心集落は峰町の三根遺跡ではないかと推定されている。」と述べている。松下孝幸氏は、日本人の起源を明らかにする目的で、1万体にも及ぶ人骨を見てきた医学博士である。この見解だと、北島に都があることになる。
 今後、対馬の遺跡の発掘等が進展して当時の様子が明確になってくると、魏志の航路も確定できるかもしれない。しかし、今の段階では、単純に西側から浅茅湾に入り、大船越を越え、やがて対馬海峡に至るルートは無理があるのと思われる。そうすると、古田氏の「島めぐり」読法は成り立たなくなるのではないか。更に、古田氏は対馬壱岐で港に到着した後に、わざわざ魏使達が島内を陸行すると主張している。これはもっと無理があるのではないだろうか。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察