魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(4) 景初2年が正しい

 魏志倭人伝の後半の部分で、魏と倭国の交渉の記録が示される。景初2年(西暦238年)6月倭女王は大夫難升米を郡に詣らせ、魏に朝貢を願い出た、と書かれている。ところが、前に触れたように、この事績の年を、『日本書紀神功皇后39年の記事では景初3年(239年)としている。また、『梁書』倭伝でも、景初3年と記している。孫氏は次のように述べる。「…この時期魏は、まだ帯方郡を接収していない。景初年間(237~239年)に魏は、遠征軍を派遣し、遼東半島軍閥公孫淵を倒し、帯方郡を奪い、朝鮮半島に進出した。「魏志公孫淵伝」では公孫淵の死は景初2年8月23日だ。したがって、公孫淵帯方郡を支配している景初2年6月に、倭国の使者が魏の帯方郡朝貢を願い出ることは起こり得ない。…したがって、本書は景初3年6月が正しいとする。西暦239年だ。」(②p.54)安本美典氏も同様な理由で景初3年説であり、景初3年が通説になっていた。


 これに対して、古田武彦氏は③『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房p.92~)の中で、魏志倭人伝に書かれているように、景初2年が正しいことを主張した。原文は、文字を変えないことが原則であるが、まず古田氏の見解を見てみよう。
 景初3年説が通説になった経緯について、古田氏は次のように述べる。(1)新井白石が、(上の孫氏と同じように考え、)魏が公孫淵を討った景初2年8月以降であるとした。(2)松下見林が、日本書紀に景初3年とあるからとした。(3)『晋書』はそうではないが、『梁書』の著書の姚思廉はやはり(上と同じように考え、)「魏の景初三年公孫淵誅せられて後に至り、卑弥呼始めて使いを遣わして朝貢す」(『梁書東夷伝倭伝)と記している。(4)内藤湖南は(やはり上と同じように考え、)更に『梁書』に景初3年とあるからとした。


 それに続いて、景初2年が正しいとする理由を次のように述べている。(1)景初2年6月に卑弥呼の使いが帯方郡へ行った時、帯方郡の太守劉夏は役人を遣わし京都まで送っている。これは特別な計らいであり、公孫淵と戦争中だったからである。戦争は景初2年8月に終わっているから、もし卑弥呼朝貢が景初3年6月ならば戦争は既に終わっており、そのような扱いはしなかった。(2)卑弥呼の奉献物は男生口4人、女生口6人、班布2匹2条匹である。余りに貧弱である。使いの者も2名と少ない。これは戦争中だったからである。(3)その年(238年)12月に、詔書して、親魏倭王の金印紫綬や数々の下賜品を「皆装封して使人の難升米・牛利に付し、還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家、汝を哀れむを知らしむべし」とある。ところが、難升米等は手ぶらで帰ってきている。送られてきたのは翌々年の正始元年(240年)である。なぜこのようになったのか。それは、景初2年(238年)12月に明帝が急病になり、翌景初3年(239年)正月に死去したから、諸行事は1年間中止されたことによる。詔書には下賜品について書かれているが実際には難升米等には渡されなかったのである。このように考えると、卑弥呼朝貢詔書や下賜品の拝仮についての疑問が解けるが、景初3年としたなら、謎は解決されないとする。
 更に、魏志八・二公孫伝の記事から、景初2年6月には魏は水陸両路から遼東の公孫淵の城下に殺到し、海上を制圧して、大勢は決していることが分かる。卑弥呼朝貢は、動向を見極めた素早い「戦時遣使」であり、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にある、とする。


 佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.361~)で、『三国志』から引用して次の様に述べ、古田説を支持する。「景初中、明帝密遣帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣越海定二郡」(『三国志』韓伝)
(訳)<景初中(237~239年)に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕、楽浪郡太守鮮于嗣を遣わし、海を越え、二郡を定める。>景初中に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。景初2年8月に公孫淵は討伐されるから、この「景初中」は景初2年8月より前である。一方、魏志倭人伝には、景初2年6月倭女王は大夫難升米等を遣わし帯方郡に詣で、帯方郡の太守劉夏は吏を遣わし、将に送りて京都に詣る、と書かれている。また、使者が帰国する時も、其年(景初2年)12月帯方郡の太守劉夏は使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送る、と書かれている。この記事から、景初2年6月から12月まで帯方郡太守は劉夏であることが分かる。そうすると、帯方郡太守劉昕は、劉夏の前の太守ということになり、景初2年6月には劉夏が太守であるから、景初2年6月より前に太守を交替している。明帝は、景初2年6月より前に太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。佃氏が指摘する『三国志』の記事も、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にあることを示している。古田氏や佃氏の説の方が筋が通っており、私たちも景初2年(238年)が正しいと考える。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察