魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

(5) 「水行十日陸行一月」の解釈

 次は、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と記されている「水行十日陸行一月」をどう理解するかについて、やはり五氏の説を見ていこう。
 <古田説>
 「水行十日陸行一月」は、帯方郡治より邪馬壹国に至る全行程の全所要日数とする。帯方郡治→帯方郡西南端、狗邪韓国→対海国、対海国→一大国、一大国→末盧国の水行に要する日数が10日であるので、「水行十日」と書かれているとする。帯方郡西南端(韓国西北端)まで船で行った後、船を降りて、帯方郡西南端から狗邪韓国までは朝鮮半島を、東に進み次に南に進む、また東に進み次に南に進むという風にジグザグな陸行を繰り返すと、古田氏は言う。韓人に対するデモンストレーションでもあるので、このように進むとしている。この朝鮮半島でのジグザグな陸行、対海国と一大国での「島めぐり」読法での陸行、末盧国から邪馬壹国までの陸行の3つを合わせて、「陸行一月」であるとする。「陸行一月」を受け留めるために朝鮮半島での不自然なジグザグ陸行を考えたのだろう。


 <孫説>
 帯方郡治から邪馬壹国の道のりは「萬二千餘里」とする。『魏志』明帝紀の景初二年の条で、司馬懿将軍が軍行について述べる記事から、この時代では陸行1日40里を標準の行程としていた、と考えられるとする。そうすると、12000里は、40里で割り算をして30日となるから、陸行一月と考えることができると言う。また、唐時代の陸行と水行の規定が載っている政典から、水行の距離は陸行の3倍とすることができるとする。そうすると、水行1日は120里となり、やはり割り算をすれば、十日となる。これが水行十日であると言う。つまり、「自郡至女王国萬二千餘里」を陸行で表すと「陸行一月」、水行で表すと「水行十日」であると孫氏は解釈している。もともと、孫氏は短里には全く触れずに、長里についてだけ考察し、1里=434mとして議論をしている。長里での「萬二千餘里」は途方もない長さであり、そうすると記事も途方もないものになる。この記事が書かれたのは、当時魏が戦っていた呉に対し混乱した情報を流すのが原因であると言う。地理情報撹乱は司馬懿あたりから出て、司馬懿に気を使っている陳寿が「史の成文」として残したのではないかと、孫氏は述べる。


 この説は、私達には途方もないものに感じられた。第一に、単に「自郡至女王国萬二千餘里」の単純な言い換えのために、「水行十日陸行一月」と陳寿が書くだろうか。陳寿の文書は、素晴らしいリズムで、無駄のない表現しているからだ。それに、12000里は水行と陸行を合わせた里数であるのだろう。これを全部水行すると10日、全部陸行すると1月となると、机上の議論を展開しても意味がない。「邪馬壹国に行くのには、水行と陸行をしてこれだけの日数が必要ですよ。」、と中国の読者に伝えているのではないだろうか。第二に、『春秋』や『史記』や『漢書』を継ぎ、『前四史』の中でも特に銘文とされる『三国志』が一時的な軍事的事情のために、途方もなく誤まった記事をそのままにすることがあるだろうか。呉に知られたくなければ、しばらく公表を控えるとか、もっと別の方法があるのではないか。と言うより、このような史書は、一時的な事情とか、個人的な事情とかを突き抜けたもっと普遍的なものを希求する精神に支えられて書かれている、と私たちには思われる。私たちは、孫氏のこの説に同意することは出来ないと感じた。


 <佃説>
 次に佃氏の見解を見てみよう。
 佃氏は、「従郡至倭、循海岸水行」から始まり、「自郡至女王国萬二千餘里」で終わる部分を帯方郡から邪馬壹国へ至る「行程文」と呼び、この「行程文」は、それぞれの国への行程を示す<行程部分>とその国を説明する<説明部分>から成り立っているとし、「行程文」全体のこの構成をしっかりと見て読む必要がある、と注意を喚起する。邪馬壹国については、「南至邪馬壹国」が<行程部分>であり、「女王之所都 水行十日陸行一月…」が<説明部分>である。従来は、「水行十日陸行一月」を<行程部分>と考えたため、時間を距離に換算して邪馬壹国に至る距離に加算して、迷路に入り込んだ。しかし、「水行十日陸行一月」は邪馬壹国に対する<説明部分>の中にあるから、郡から邪馬壹国へ至る期間を説明しており、「水行十日陸行一月」の期間がかかると述べているのだと、佃氏は理解する。


 水行する区間は郡から末盧国までである。(1)郡~狗邪韓国7000余里、(2)狗邪韓国~対海国1000余里、(3)対海国~一大国1000余里、(4)一大国~末盧国1000余里と記されている。古代は日中(昼間)のみの航海であり、朝早く出発して日のあるうちに次の港に着く。1日の航海分を距離では1000余里と表現している。(2)と(3)と(4)では実際の距離に差がある。しかし、1日分の航海と考えれば、同じ距離とみなし得る。(2)と(3)と(4)の航海でそれぞれ1日、(1)の航海で前の7倍の7日となり、計10日である。対海国や一大国では海岸に沿った部分も水行する。当然の如く、海中で止まる事は出来ないから、対海国に着くまでに1日、一大国に着くまでに1日、末盧国に着くまでに1日となる。
 「水行十日陸行一月」はいろいろな解釈がされてきた。(ア)水行すれば十日、陸行すれば一月 (イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月 (ウ)水行を十日し、その後陸行を一月する。
上で見たように、孫氏は(ア)の解釈であった。古田氏は(イ)の解釈をしている。佃氏は(ウ)のように考える。末盧国から邪馬壹国は陸行である。これに一ヶ月の期間を要するのだろうか、という疑問がわく。これに対して、佃氏は次のように説明している。「…末盧国から伊都国への道は「草木茂盛 行不見前人」とある。人が通らないような道を、草木を切り開きながら通っている。(大型構造船が停泊する名護屋港は、倭人が使っている丸木舟には適しないため)この道は魏使が来たときのみ使用される道であり、普段は使われない。そのため、「草木茂盛 行不見前人」となるのである。そのため、多くの時間が必要になる。また川があれば、下賜品の絹織物を濡らさないように慎重に船に積み、川を渡る。量が多いので、何度も何度も船を往復させる。雨の日は休むであろう。さらに伊都国へ着くと歓迎の宴が幾日も催される。このように魏使は1月かかって邪馬壹国へ着いた。「陸行一月」は実際にかかった期間が書かれている。」(⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』p.45)確かに、末盧国から伊都国に進む道とされる唐津街道について、高木彬光氏は古代には成立していない道である、と述べ、木佐敬久氏はようやく江戸時代に開通した街道であると述べている。魏使たちがこの道を進んだとすれば、一ヶ月を要したかもしれない、と考えられる。


 <木佐説>
 木佐氏は、「「傍線行程」を「主線行程」と区別する書き方は、陳寿が先例とした『漢書』西域伝に示されている。同様に、「水行十日、陸行一月」が首都・洛陽からの総日程である根拠も、西域伝に示されている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.298)と述べる。続いて、「西域伝の場合は、各国とも「王都」を明示したあと、必ず「首都」(長安)からの総距離を記している。……これをモデルとしたのが、女王国の「王都」邪馬壹国への行程記事である。」(p.303)とする。このことから、「首都」洛陽から邪馬壹国までの総行程が「水行十日陸行一月」であるとする。その意味は上で述べた(イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月であり、出発点等が異なるが、合計である点では古田氏と同じである。
 具体的には、洛陽から山東半島の煙台までで、「陸行一月」の大部分が費やされる。直線距離で850Km、道のりで950Kmを1日行程34Kmとすれば、28日となる。洛陽から山東半島への道路は、秦の始皇帝も利用したくらいだから早くから整備されていて、妥当な数字だと言う。続いて、「陸行の残りの二日は、末盧国から邪馬壹国までの七百里(53.2Km)余りである。」(p.323)と述べる。末盧国から伊都国までの500里(約38Km)を1日の行程とし、伊都国→奴国→不弥国→邪馬壹国は200里(約16Km)だが、邪馬壹国の入口(城島町)から高良山にある卑弥呼の宮殿までが更に200里程なので、約400里余り(約31Km)となり、こちらは「余裕のある1日行程であり、朝発って夕刻には卑弥呼に会うことが可能であった。」(p.324)と述べる。


 水行については、「山東半島の煙台から朝鮮半島の長山串へ渡って、ソウル(帯方郡治)の玄関・仁川までが「3日」、仁川から狗邪韓国までが「4日」で、一日行程はそれぞれ一六〇キロ前後。狗邪韓国から三海峡(各千余里、八〇~九〇キロ)は各1日で、計「3日」だ。三海峡の場合は「大海」であり、危険な夜の航海を避けて対馬壱岐に宿泊する。そのため行程が短くなっている。」(同書p.324)と述べている。これまでの論者は、「水行十日陸行一月」の出発点を帯方郡治又は境としていたが、木佐氏は魏の首都洛陽が出発点であると言う。ただ、大型構造船が唐津港に着いたとして、港での大量の絹織物、銅鏡等の荷を降ろす作業や伊都国などでの歓迎の挨拶や宴、また絹織物や大量の銅鏡等を筑後川を渡して運ぶ作業、卑弥呼の宮殿での儀式等が2日間で出来るかどうか、心配ではある。実際、魏志倭人伝では「草木茂盛行不見前」と書かれており、道を進むのが困難な様子を述べている。末盧国から2日で邪馬壹国到着は、少し無理な数字ではないか、と私たちには感じられた。
 一方、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の直前の「南至投馬国水行二十日」について木佐氏は、「水行二十日」の出発点は不弥国であり、「投馬国」は奄美大島あたりを入口とする沖縄・琉球圏であると述べ、琉球特産のゴホウラ貝の経済的意味についても言及している。この点でも他の論者と異なる論考を提出している。


 尚、これらの結論を導く過程で、「方角+地名+距離」の形の叙述は傍線行程とする榎一雄氏の「放射コース式」の読み方は成り立たないと批判する。また、「至」の前に移動を表す先行動詞がある場合と先行動詞はなくともこれが省略されている場合は主線行程であり、それ例外は傍線行程とする古田氏の「道行き」読法を証明したとされる古田氏の「全用例調査」を改めて検討し、そうでない例が多くあることを確認している。その結果、「至」だけで主線行程になることがあることを示し、古田氏の「道行き」読法も成り立たないとする。
 <安本説>
 安本氏は、私たちの理解では、「水行十日陸行一月」について多くを語っていないように(私たちの勉強不足かも知れないが)見える。「陸行一月」は「陸行一日」の誤りではないかとした本居宣長白鳥庫吉などについても言及する。また古田武彦氏の説についても、感じたことを述べている。支持できる点もあるが、支持できない点もあるとしているように見える。


 <高木説>
 高木氏は、「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬壹国までの全コースに相当すると述べ、古田氏の朝鮮半島での陸行説を支持している。「金海または釜山から対馬まで水行一日、対馬壱岐間水行一日、壱岐、宗像間水行一日、……宗像神湊へ上陸してからの陸路は七百里にすぎないね。七里一キロとしてほぼ100キロ、江戸時代の旅行の標準で言ったなら、一日の行程は約三〇キロから四〇キロだが、この三世紀当時は道路事情も悪かったろうから、一日二〇キロとしてみようか。これにしても五日の陸行と見たらいいところだろうねえ」(⑨『邪馬台国の秘密』p.401)とする。次に「…そういう風待ちまで考えたら対馬壱岐という二つの島で五日ぐらいの日数がかかったとしてもふしぎではないな。その間には漕ぎ舟を使って、左回り右回りの両コースで島を一周し、そのピッチの数から周の長さを実測するようなこともあったかも知れない。…壱岐だったら、それこそ島中を歩いて一周したかも知れないし、九州の陸行と合わせて小計十日になる」(p.402)とする。「それでもまだ、陸行二十日に、水行七日が残っていますよ……」と、相方の推理作家の松下研三が続ける。次に、豊臣秀吉朝鮮出兵のとき、小西行長率いる第一軍がソウルに入ったのは、釜山上陸後二十日後であることを述べ、韓国内を陸行する際の時間的な目安にした後に、「…もし、帯方郡がソウルだとすれば、郡山あたりに上陸しそこから陸行に移ったかも知れない。また、伊勢説のように帯方郡が甕州(ようしゅう)半島にあったとすれば、仁川上陸、そしてその後の陸行はいよいよ自然になって来るね。とにかく、この部分の水行を七日と解釈すれば、「水行十日、陸行一月」という日程は、何の抵抗もなく理解できる」(p.404)と主人公の神津恭介に述べさせている。高木氏の説は、上陸した場所や魏使たちが進むコースは異なるが、「水行十日、陸行一月」の理解の仕方は古田氏とほぼ同じといってよいと思われる。
 また「南至投馬国水行二十日」については、帯方郡から出発して投馬国まで「水行二十日」と解しており、投馬国は宮崎県のどこかにある、と考えている。

 

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