魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

(2ー2)『卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想

卑弥呼の鏡』ー鉛同位体比チャートが示す真実ー

 

 『季刊邪馬台国』特任顧問の豊田滋通さんが「よもやま邪馬台国」というタイトルの新聞の連載記事を書かれている。その記事の紹介で、この本に出会うことができた。150ページ程の小冊子だが、今までの青銅鏡の議論を根本的に変えてしまう力作であるように思われる。

 

 以下の内容は、ほとんどこの本の紹介である。多くの文献に当たられ、整理した結論に到った資料をその都度示している的確な文に対して、私たちの冗長な文をつけ加えるのは申し訳なく感じる。高価な本ではないので、是非直接読まれることをお勧めしたい。

 著者の藤本氏は農学部出身で福岡市役所に入り、公害防止・環境アセスメントに従事し、平成元年、下水道の高度処理で窒素・リンを肥料として回収するMAP法を世界で始めて開発し、博多湾のクリーン化に貢献したとある。環境科学関係の技術者だろうか。

 

青銅は銅と錫と鉛の合金である。鉛には204Pb、206Pb、207Pb、208Pb の安定した4種類の同位体がある。1980年代から馬淵久夫氏や平尾良光氏らの努力により、銅鐸や三角縁神獣鏡などの銅鏡の鉛同位体比の測定データが報告されるようになってきた。藤本氏は前から古代史にも興味を持っていて、青銅に含まれる鉛同位体比についての報告を興味深く眺めていたが、そのデータが考古学者の中で十分に生かされていないのではないかと考えていた。従来は208Pb/206Pbの値を鉛同位体比の鉛値と呼び、他の値は余り考慮されていなかったようだ。      

             f:id:kodaishi:20210907231814j:plain(同書p.31)

 あるきっかけから、右軸に207Pb/206Pbの値、左軸に208Pb/206Pbの値、上軸に207Pb/204Pbの値、下軸に206Pb/204Pbの値をプロットし、四角形の図を描く4軸レーダーチャートを作ってみた。すると見事にこの図が鉛同位体比の違いを表している。鉛同位体比は地域や鉱山によって微妙に異なるが、その違いから原料産地の推定に利用できる。客観的なデータから導き出された4軸レーダーチャートより様々なことが導き出された、というのがこの本の内容である。以下各章の内容を順に見ていこう。

 

<序章 卑弥呼の鏡と三角縁神獣鏡

 

 正始元年(240年)魏王は、卑弥呼に金印紫綬の他、絹織物、金八両、五尺刀、二口、銅鏡百枚を授けた、と魏志倭人伝に書かれている。この銅鏡百枚が後世に「卑弥呼の鏡」と呼ばれるようになった。日本で出土する銅鏡としては、三角縁神獣鏡と呼ばれるものが一番多い。京都大学の富岡謙蔵氏が最初に、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であると唱えたとされている。次いで、小林行雄氏は卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であり、ヤマト朝廷がその支配を確立するために使い、全国にこの鏡を配布したとする説を発表した。この鏡は、邪馬台国近畿説の根幹をなすものになっていった。

 しかし、この鏡は4世紀以降に作られた古墳からしか出てこなかった。卑弥呼の時代と半世紀以上隔たっている。さらに、三角縁神獣鏡は中国から贈られたとしても、肝心の中国からは1枚も出土していない。

 

 この弱点を補強するために、いろいろな説が出された。伝世鏡説、特鋳鏡説、楽浪鏡説、紀年銘鏡説、長方形鈕口説…。この様々な説については、第3章で詳しく論じる。

 また、議論の出発点として、三角縁神獣鏡の特徴をまとめている。さらに、岡村秀典氏がその本の中で示す漢代の鏡の年代と分類を載せている。ただし、この表を見るとき、魏や晋の時代にも復古鏡や仿古鏡が作られ、倭国でも踏み返し鏡が盛んに作られたことへの注意喚起をしている。

 

<1章 鉛同位体比と三角縁神獣鏡

 

 まず、福岡県弥永原遺跡の小型仿製鏡、平原遺跡の内行花文鏡、方格規矩鏡、神戸市桜ヶ丘町出土の銅鐸、須玖岡本遺跡の草葉文鏡のチャートを示す。すべて横拡がりの同じ図形(Aチャートと呼ぼう)を示している。

 次に、岡村秀典氏が畿内出土の伝世鏡として天理市の大和天神山古墳の鏡を挙げているので、この漢鏡と呼ばれている鏡のチャートを見ていく。岡村氏が漢鏡5期に分類する2枚の天神山規矩鏡は、上のAチャートと同じチャートになる。ところが、同じ5期の天神山内行花文鏡は縦に長いチャート(Bチャートと呼ぼう)で全く異なる。漢鏡6期とされている大牟田市の潜塚古墳の内行花文鏡のチャートもこの縦長のBチャートと同じ形になる。ところが、岡村氏が漢鏡7期に分類する天神山古墳の獣帯鏡のチャートは、もっと別の形になる。(次に述べる三角縁神獣鏡と同じ)同じ期とされる漢鏡でも、全く異なる鉱山の原料を使っていることが4軸レーダーチャートによって明確に示されることに驚かされる。

 

 三角縁神獣鏡のチャートに移る。馬淵氏らによって、この鏡の鉛値は2.1180~2.1400になることが分かっている。舶載鏡とされているもの、仿製鏡とされているもののチャートを見ると、すべて同じ平行四辺形のような図になる。明らかに魏製の鏡、明らかに呉製の鏡とされるもののチャートを一緒に並べてみる。すると中国製の2つの鏡のチャートは縦長のBチャートと似た形となり、三角縁神獣鏡のチャートとは全く異なっている。

 続いて、大和天神山古墳から出土した23枚の銅鏡のチャートをすべて調べてみる。すると3つのグループに分けることができた。これらのチャートから、天神山古墳の鏡は平原古墳の鏡と三角縁神獣鏡の中間に位置していることが分かる。さらに、3世紀中頃から後半に作られたと思われる仿製鏡のデータも調べ、鏡の編年表を作っている。縦軸に西暦の年、横軸に208Pb/206Pbの鉛値を取った表である。

 

 この編年表から、三角縁神獣鏡は4世紀前後の倭製鏡の中から生れていることが分かる。また、従来、出来栄えがよいものが舶載鏡、見た目が悪いものは仿製鏡という風に、舶載鏡と仿製鏡の明確な基準がないまま区分されてきた。しかし、チャートを見るとほとんど重なり、区別がないことがハッキリした。橿原考古学研究所の水野氏が3次元計測の分析結果から、「三角縁神獣鏡は全て中国製か、全て日本製かのいずれかの可能性が高い」と述べている。異なる科学機器による分析結果からも同じ結論に達している。

 最後に、三角縁神獣鏡は倭製鏡であることが分かったが、どこの鉱山から鉛を取ったかが考察されている。チャートが岐阜県神岡鉱山の円山坑の鉛のものときれいに重なっている。中国の鉱山で鉛同位体比が最も近い水口山(湖南省)のチャートと比べたが、縦長で全く別のものであることが確認できる。

 

<2章 和風文化の発生と三角縁神獣鏡

 

 中国の考古学者王仲殊氏は、京都大学で樋口隆康氏から多くの三角縁神獣鏡を見せてもらって、「中国の銅鏡とはあまりに違うということに気づきました。つまり、作風が全然違っています。」と述べた。森下章司氏によれば、漢代の中国鏡には、基本的に信仰、思想的な裏付けのある図柄が採用され、紋様には一つの定式が存在し、それらの組み合わせにも約束事があるという。そして時間とともにその紋様には変化が生じるが、それは一定の範疇に収まるということである。一方で、倭鏡は、図柄の共有性が薄く、また時間差、系統差、工人差が極めて大きく、この紋様の多様性に倭鏡の大きな特徴がある、とのことである。

 

 壹与が晋に使いを送った266年から413年に東晋へ遺使するまでの約150年間、倭は中国との公式な交流を行っていない。この間に、前方後円墳などの日本独自の墓、三種の神器を副葬する葬儀、庄内式土器から布留式土器の普及、九州北部に偏在していた鉄器や絹織物の他地方への普及などが生じて、和風文化が発生しているとする。社会に高揚するエネルギーは鏡の世界における中国鏡の縛りを解き放ち、紋様の定式を飛び出す鏡が続々と作られるようになる。日本独自の図柄、紋様形式の多様化、紋様の配置換えによるバリエーションの多様化が生じる。その流れの中に三角縁神獣鏡がある。

 

 大和天神山古墳からは23枚もの鏡が出土しているが、その中に三角縁神獣鏡は1枚もない。天神山古墳鏡は前記倭製鏡のモデルになっていることに特別な存在価値があるのではないか、と藤本氏は述べる。3世紀後半の天神山遺跡の後、4世紀の古墳から続々と三角縁神獣鏡が出土する。

 

 この章の初めに、壹与の後の邪馬台国は東進して、中央集権的なヤマト朝として発展していったというような記述がある。確かに、4世紀以降近畿地方前方後円墳が沢山作られ、銅鏡、鉄製品や絹織物などが大量に出土しており、近畿地方に強い権力が出来てくると考えられる。ただ、これを簡単に邪馬台国が東進したものとしていいだろうか。古事記日本書紀では、大和朝廷の初代は神武天皇となっているが、神武天皇卑弥呼や壹与の関係はどうなっているのだろうか。この点については、この本の主旨から離れてしまうので、簡単に指摘するに留めたい。

 

<3章 卑弥呼の鏡説の検証>

                                                      f:id:kodaishi:20210907233045j:plain(同書p.60)

 三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡だとする説を、紀年銘鏡説、伝世鏡説、特鋳鏡説、楽浪鏡説、保険説、長方形鈕口説と名前をつけて分類し、その説を詳細に検討して、不合理性を示している。

 

(1) 紀年銘鏡説

 景初2年(238年)6月卑弥呼使節団を魏に送り、正始元年(240年)魏は金印や銅鏡百枚を倭国に渡す、と魏志倭人伝に書かれている。この年号「景初」、「正始」を記した三角縁神獣鏡があることが、この鏡が卑弥呼の鏡である根拠とされた。

紀年銘のある三角縁神獣鏡として、正始元年鏡が3枚、景初3年鏡が1枚見つかっている。島根県兵庫県群馬県山口県と奈良からかなり離れたしかも小さな古墳から出土していて、魏からもらった国宝級の大事な鏡には見えない。しかも正始元年鏡は破損していて「正始元年」の字がまともに残るものがない。日本で出土した紀年銘鏡は13枚あるが、年号が抜けているものは4枚だけで、その内の3枚が正始元年鏡である。この3枚の正始元年鏡のチャートを見ると、3枚ともバラバラで重ならず、同じ原料で作られていない。

 

 大阪大学の都出比呂志氏は著書の中で「これまで発見された三角縁神獣鏡のうち第Ⅰ群の約四十面、すなわち、これまでの出土総数の少なくとも一割ほどが景初三年の卑弥呼の遣使で獲得した『銅鏡百枚』の主要部分をなすといえます」と述べ、日本出土の中国の紀年銘鏡一覧の表を著書の中で掲げている。この表の中で、魏の紀年銘鏡である可能性のあるものは9枚あり、その中の1枚には「願氏作竟」とあり、残り7枚には「陳氏作竟」とある。その銘文には、私人の陳が作り、この鏡をもてば、役人なら出世し、母なら子孫に恵まれ、長生きできる、というようなことしか書いてない。「親魏倭王として汝をいとおしむ。国中の人にそのことを広く知らしめよ。」という魏王の詔書の気配は微塵もない。また、この表の中には、「景初四年」と書かれた2枚の斜縁盤龍鏡が含まれているが、「景初四年」は魏ではあり得ず、何と、都出氏はこの2枚も中国の紀年銘鏡としている。

 

(2) 伝世鏡説

 一般に、製作後通常以上に長期に渡って使用したり保持したりしたものを伝世品と言うが、古墳に副葬されている鏡のうち、長い間使用されるか保持された後に埋葬された鏡が伝世鏡と呼ばれるようになった。最初、高松市の古墳群から出土した方格規矩鏡の背面の文様の摩滅が長期間の使用による手ずれと判断され、梅原末治氏により伝世鏡とされたようだ。卑弥呼は正始元年(240年)魏から銅鏡百枚を受け取る。しかし、三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳からしか出土しない。この約半世紀以上の時間的ずれを解決するために伝世鏡の考えが使われるようになり、これを伝世鏡説と言う。

 

 伝世鏡論を強く主著しているのは、京都大学の考古学者岡村秀典氏である。その著書『三角縁神獣鏡の時代』を藤本氏が読んだときの感想が書かれている。「…期待外れであった。読んでも読んでもタイトルの三角縁神獣鏡はおろか、卑弥呼もなかなか出てこない。出てくるのは漢鏡がどうのこうの、伝世鏡があちこちから出ているよということばかりで、三角縁神獣鏡卑弥呼は終わりに近づいた頃やっと出てくる。三、四回読んで、この本の言わんとすることがやっとわかった。つまり、あちこちから出土する漢鏡は伝世したものが多いから、同じ漢鏡八期の三角縁神獣鏡も伝世鏡ですよ、としっかり読者に「刷り込み」をするためと得心した。」私たちが岡村氏の『鏡が語る古代史』を読んだときと同じ様な感想だな、と思った。

 

 岡村氏は『三角縁神獣鏡の時代』で12枚の伝世鏡を揚げている。その中で、鉛値が示されている4つはその数値から、前漢鏡と判断できるとしている。しかし、第1章で見たように、この鉛値の範囲には、前漢鏡や銅鐸や3世紀の平原遺跡の仿製鏡など弥生後期の銅製品が入っており、前漢鏡とする断定は危険であると藤本氏は諫める。また、ほとんどが十数メートル程度の小さな墳墓から出土しており、径10cm以下の小型鏡で、文様が不鮮明であるとする。これらの鏡は、仿製鏡、踏み返し鏡である可能性が高いと藤本氏は指摘する。

 

 岡村氏は上の書の中で楽浪、韓、九州、九州以東の四地域について、漢鏡二期から七期までの漢鏡の出土数のグラフを示している。弥生後期とされる200年まで、圧倒的に九州から出土していて、九州以東ではほんの少ししか出土がない。ところが、岡村氏の表を見ると、三期後半(前1世紀前半から中頃)から九州以東が九州に劣らない数となっており、六期(2世紀前半)以降は九州以東が九州を凌駕している。

 考古学の常識では考えられないこの表はどうして作られたのか。   

                    f:id:kodaishi:20210907233533j:plain(同書p.97)

 漢鏡は魏・晋の時代になっても復古鏡(仿古鏡)として、延々と作られ続けた。倭国でも踏み返し鏡などが作られていて、古墳から出土する漢鏡は、その鏡の型式が属する時期に作られたのではないものが多く存在している。このことは、今では常識となっている。

 実際に出土したのが4世紀の古墳からなのに、その鏡の見かけの型式が作られた時期を鏡の時期としてしまえば、いくらでも古い鏡が出土することになる。

 

 寺澤薫氏は次のように言う。「こうした漢鏡の列島における実際の出土時期を無視し、ここの資料の仿古、踏み返しの可能性についても等閑に付した上での『見かけ』の型式を優先した時期別分布をベースとした議論は、古くは川西宏幸氏『銅鐸の埋納と鏡の伝世』をはじめ、伝世鏡を採る研究者によって一般的には使われてきた手法であり、伝世鏡論は成立しがたい」(「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論(上)(下)」2005年)この表では、漢鏡八期が除かれているが、これも岡村氏の恣意が働いているためではないかと、藤本氏は指摘する。

岡村氏が書いた『鏡が語る古代史』は「自説を守るため、データ改ざんもいとわず」「これはもはや研究不正だ」と、安本美典氏が烈しく糾弾している。同じ様なことが、岡村著『三角縁神獣鏡の時代』でも起きているということなのだろうか。

 

 21世紀になって、伝世鏡をデジタルマイクロスコープで見た新たな研究が発表されている。それによると、手ずれ等により文様などが不鮮明になることはなく、鋳造時の鋳上がった状態がそのまま残っていて、踏み返し鏡である可能性が高い、とのことである。一般に、伝世品は存在するが、古墳に埋葬された鏡を伝世鏡とする議論は成立しない。

 

(3) 特鋳鏡説

 三角縁神獣鏡は中国からは一枚も出土していない。魏王は卑弥呼のために特別に三角縁神獣鏡を作った。だから中国から一枚も出土していないのだ、という論法である。

岡村氏は、卑弥呼のために全土から洛陽に工人を動員し、漢鏡をモデルに作ったと述べているが、根拠は示していない。

 

 これは様々な観点から認めることができない。第一にこの時代は魏が銅不足に悩まされた時代であり、卑弥呼のためにわざわざ銅鏡を造る余裕はない。第二に、最近見つかった曹操の墓からは鉄鏡一枚だけが出土したように、魏は薄葬令(陵墓に金銀などの華美なものの埋葬を禁止)を発していたことが揚げられる。また、日本での三角縁神獣鏡の出土数は現在500を超え、近いうちに1000を超えるのではないかと言われており、また、その文様の変化も著しく変化している。そのため、かなり長期に渡って三角縁神獣鏡が作られたことになるが、魏自身が265年には完全消滅し晋国になっている。それなのに、248年前後で死んだ卑弥呼のために延々と三角縁神獣鏡を作り続けたのだろうか。

 中国の王仲殊は著書の中で次のように言う。「魏の皇帝は、他の外国の君主のために銅鏡を特鋳していないのに、なぜ卑弥呼のためだけに特鋳したのだろうか。…かりに特鋳が行われたとしても、その際、見本がなくてはどうしようもあるまい。中国の職人は、三角縁神獣鏡をこれまで中国で鋳造したことはなかった。…どうして、突如何の拠りどころもなくして、このような鏡の大量鋳造ができようか」

 

(4) 楽浪鏡説

 三角縁神獣鏡は中国から出土しないので、中国から倭国への中継基地であった楽浪郡でこの鏡が作られたとする説である。楽浪郡からは銅鏡が五、六百枚出土しているが、三角縁神獣鏡は一枚も出ていない。朝鮮族倭人と違って鏡にはほとんど興味を示さない。卑弥呼使節を送った年に、公孫淵は魏によって滅ぼされ、楽浪郡の人口は極端に減少している。このような中で、魏に言われて楽浪郡で鏡が作られることがあっただろうか。藤本氏は他の理由も挙げているが、これで十分だろう。

 

(5) 保険説

 卑弥呼の鏡のすべてが三角縁神獣鏡であるとする説が多い。しかし、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だけとは限らず、その他の前漢鏡・後漢鏡や紀年銘鏡も含むという説である。万が一、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡でなかったときの備えとして考え出された説であるとして、藤本氏が名付けられた。

 

 数年前に亡くなられた樋口隆康氏は、活動期の後半には、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だけとは限らないような発言をされている。都出氏も、五百枚以上ある三角縁神獣鏡のうち第一期の舶載鏡や紀年銘鏡の約五十枚に限定して卑弥呼の鏡とし、他の三角縁神獣鏡は除外しているから、保険説であると言える。また、自分が特鋳鏡説であることを明言している。しかし、同氏は不足する五十枚等については言及していない。

 

 中国の紀年銘鏡について2世紀後半から3世紀までの分を車崎正彦氏がまとめている。それによれば、魏国では青龍三年(235年)まで全く紀年銘鏡が作られていない。青龍三年(235年)以降の紀年銘鏡はいずれも日本でしか出土しておらず、魏鏡ではないことを、これまでの議論で確認した。都出氏は、魏では鏡を与える習慣があったと言う。しかし、肝心の紀年銘鏡が魏では作られていない。

 

車崎氏によるまとめの中には、出土地不詳の「正始五年」鏡が一枚ある。特鋳鏡論者の田中琢氏は岡村氏に『鏡が語る古代史』を書くように勧めた(同書)とあるが、この「正始五年」鏡の魏鏡説を主張している。これに対して、王仲殊氏は次のように述べている。「…当時(20世紀初頭)の北京の骨董屋の間では、古鏡を偽造することが流行っていた。とりわけ…紀年鏡の偽造には力が入れられた。骨董屋から買った出処不明の一枚の異式鏡をもって、論証の重要な根拠とするのはあまり妥当ではないというのが私の感想です。」

 

(6) 長方形鈕口説

 銅鏡では、壁に掛けたり、手に持つためにヒモを通す鈕口(鈕はつまみ)が必要である。角ばっていてはヒモが切れやすいので、鈕口は丸いものや半円状のものがほとんどである。福永伸哉氏は、日本でだけ出土する三角縁神獣鏡の鈕口はほとんどが長方形か方形であることを見出した。

 

 福永氏は、中国での長方形の鈕口が三角縁神獣鏡の故郷と考え、中国での長方形の鈕口を考察する。彼の文献の中で、長方形の鈕口は中国でもごくまれで少数派であり、例外的と書いている。しかし、同時にその著書の中で、魏の紀年鏡とその鈕口形態を「円」、「半円」、「長方」と区別した表を載せているが、何と鈕口形態が「長方」となっているほとんどの資料が三角縁神獣鏡であり、魏ではあり得ない景初四年鏡2枚もその資料の中に入れている。三角縁神獣鏡は中国産であることを示そうとして、中国の紀年鏡の鈕口の表の資料の中に大量の三角縁神獣鏡を含めたのではトートロジーと言わざるを得ない。岡村氏張りの資料の作り方である。

 

 福永氏はその著書の中で「画文帯神獣鏡を最上位の威信財に据えた三世紀前半の初期邪馬台国政権から、三角縁神獣鏡を権威の切り札とした三世紀中葉の初期大和政権への連続的展開という流れで、古墳時代成立期の政治的動きを理解できるという見通しを示す」と述べる。

 しかし、三世紀中葉の初期大和政権はどこにあると言うのか。ヤマトや近畿の三世紀中葉の墓や遺跡からは漢鏡や三角縁神獣鏡はごく少量しか出ていない。また、三角縁神獣鏡は10mそこそこの小さな古墳からも複数枚出てきており、全国では500枚を超え、1000枚出てくるとする学者もいる。とても権威の象徴とはいえないだろう。

 実際、33枚の三角縁神獣鏡を出土した黒塚古墳では、死者の頭部にあったのは画文帯神獣鏡で、33枚の三角縁神獣鏡は死者の両側に、しかも棺外に立て掛けて置かれていた。

 

(7) 漢鏡説

 卑弥呼の鏡は、三角縁神獣鏡でないことはハッキリした。卑弥呼の鏡は、当時、魏の国にあった鏡であろう。中国の考古学者徐氏は、その頃魏の国で流行した鏡として、8つの型の鏡を挙げ、有力なのは方格規矩鏡、内行花文(蝙蝠鈕座)、き鳳鏡、獣首鏡、位至三公鏡の5種類としている。

 安本美典氏によれば、これらの漢鏡は福岡県を中心に九州北部、岡山県兵庫県大阪府京都府などから出土していて、奈良県はわずか2枚であり、邪馬台国の時代には奈良県からは出土していないとのことである。

卑弥呼の鏡の正体とは、こんなところであろうとする。

 

<第4章 三角縁神獣鏡は国産鏡である>

 

 これまでも十分に明らかにしてきたように、三角縁神獣鏡は国産鏡である。中国の考古学者王仲殊氏は1998年の福岡で開催されたシンポジウムで、「…日本の先生方も、もう中国で探す必要はない。…中国には考古学者はたくさんいますが、何が三角縁神獣鏡か知らない人がいっぱいるんです。なぜかというと、中国にはないからです。」と言い切っている。

王仲殊氏は、十分な理由を八点挙げて、三角縁神獣鏡は中国鏡ではなく、平縁の神獣鏡の内区と外区とを参考に作られており、これら二つの鏡が作られていたのは呉の国であるから、呉の人が倭に渡来して作ったものである、としている。

王氏の説に対する反論もある。だが、王氏の説に比べて根拠が弱く、王氏の説は可能性が高いと藤本氏は締めくくっている。

 

 邪馬台国はどこにあったか、考古学会では邪馬台国近畿説が99%と豪語されるようだ。藤本昇氏のこの本『卑弥呼の鏡』は、強力にこの流れを変えることができる力を有しているのではないかと考えた。私たちの拙い文ではなく、新たな判定法を確立し、多くの資料に当たり結論を出されているこの本に直接、多くの人々が接せられることを願っている。その紹介の意味で、長い読後感想を書いた。

 

<最後に>

 

 銅鏡や三角縁神獣鏡に関する本は本当に沢山出版されている。その中で、ほとんどデータベースの表でもある『日本列島出土鏡集成』(2016年12月発行、下垣仁志著、同成社刊)が発刊されている。様々に展開される説に、確実な共通のデータを提供しようとするものだろう。表の中で6000を越える鏡に「舶」と「倭」の別を記し、舶載鏡か倭製鏡かの区別をしている。この本のデータベースの後に記された「論考 集成の概要と活用」では、「なお、出土総数に注目が集まる三角縁神獣鏡については、中国製三角縁神獣鏡が446面、「仿製」三角縁神獣鏡が132(真贋の疑わしい資料をふくめると139面)、舶倭合わせて578面(真贋の疑わしい資料をふくめると585面)に達している。」と述べている。

 

 藤本昇氏の鉛同位体比についての客観的なデータからの考察では、三角縁神獣鏡は舶載鏡と倭製鏡の区別なく、全て国産であることが示され、すべて「倭」である。藤本氏の見解を認めるなら、このデータベースは全面的な書き直しが必要になる。これを認めないなら、しっかりと反論すべきだろう。

 最後に「他方、研究が進むにつれ、新たな情報や鏡じたいの属性が重要になってくるだろう。たとえば、同位体や微量元素の数値、鈕孔・断面・厚さなどの形態に関する諸情報などを、随時追加してゆくことが望ましい。本書の刊行後も、データの増補・修正を継続する作業を自身に課して本論の結びとしたい。」と下垣氏は述べられている。

 

 このような大掛かりなデータベースを作られたことには、本当に頭が下がる思いがする。このデータベースはExcelAccessか何かで作られているだろうから、是非、4軸のレーダーチャートで使う4種類の鉛同位体比の項目を追加してほしい。また、4つの数値が分かれば自動的に4軸のレーダーチャートを図示するソフトは簡単に作れると思われる。そうして、今までの曖昧なまま判断されてきた「舶」と「倭」の区別の横の項目に、レーダーチャートから判断された客観的な裏づけを持つ「舶」と「倭」の区別を入れてほしい。そうすることによって、誤まった議論を離れて、古代の日本の姿を明瞭に示す鏡に関する議論を展開できるようになるのではないか。

 場合によっては、このような客観的なデータから得られたデータベースを藤本氏と考古学者の共同研究という形で作ることも可能と思われる。そのような歴史学者・考古学者の出現を期待したい。

 

 歴史学は総合的な学問だから文献の研究だけでなく、自然科学を含む様々な分野の知識を生かしていく必要がある。また、藤本氏のような考古学の専門外の方に教えていただくことが、今後も多くあるのではないだろうか。懐が深い歴史学・考古学であってほしいと願うものである。

 

  魏志倭人伝レポート

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