魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<第12章 天孫降臨の山>

 この最後の章は、ページ数の関係で結論を急いだのかもしれないが、著者が代わったような印象を受ける。昔の歴史学者が「歴史はロマンだ」と言って、自分の文学的な印象を述べる歴史書のような感じを受けた。記紀高天原からニニギノミコト天孫降臨したことを記す。木佐氏はこれを「アマ王朝」と呼ぶ。そして、「この「アマ王朝」が、魏志倭人伝に描かれた「九州王朝」と同一王朝であるのは言うまでもない。」(p.403)と簡単に述べる。戦前の和辻哲郎や栗山周一が述べたのと同じような見解である。


 私たちが学んでいる佃氏の古代史は、倭人の中の主だった氏族として「天氏」と「卑弥氏」をあげ、これらの氏族がどのような経路で日本列島に渡来してきたかを述べる。天孫降臨したのは「天氏」であり、その後九州北部に渡来し、邪馬壹国を樹立した「卑弥氏」によって、「天氏」は支配権を奪われ、「神武東征」によって大和に進出するようになる。また、邪馬壹国もやがて、同じ「卑弥氏」の国である狗奴国に滅ぼされたのではないか、と述べている。佃氏の説とは別の説を展開するにしても、倭人の王朝は一つではないと思われる。理由も示さず、同一とするのには、首を傾げざるを得ない。
「近畿王朝は、「アマ王朝」の血筋を引いた神武が、近畿に開いた分王朝であると、記紀神話は主張している。」(p.404)と述べるが、この本の1章で、「…「魏志倭人伝倭国は、大和朝廷とは無関係」であることの端的な証明である。」(p.44)と述べていることにも反している。


 高良山天孫降臨の山であり、卑弥呼の宮殿があったとし、その理由の一つとして、イメージ的に神籠石遺跡をあげている。古田武彦氏は『失われた九州王朝』(p.554~)で、「神籠石山城」論を述べている。この本では、神籠石遺跡は九州だけでなく、瀬戸内海の石城山(山口県)にもあることが示され、すべて海からの侵入を防ぐような位置に分布している。佃收氏は『新「日本の古代史」(下)』(p.298~)で、『古事類苑』「神衹部 四」の記述から、高良神社は白鳳2年(662年)に創建されていることを示し、高良山・帯隈山(肥前)に築かれている「神籠石(山城)」は、天武天皇が唐・新羅との戦いに備えて、白村江の戦いの直前に築いたとしている。これらの説明に対して、木佐氏の神籠石遺跡の説明は直観を述べているだけであり、もう少し詳しい分析が必要であると思われる。


 「「竺紫の日向の高千穂のクシフル岳」で肝心なのは、「「筑紫の日向」とある以上、この日向は筑紫(福岡県)の中にあるということだ。…「日向」を「日向国」ととるのも無理である。「日向国」の成立は律令体制確立に伴うもので、大宝律令施行の702年以降である。」(p.409)と述べることは全く正しい。更に、「日向」という地名は、北部九州だけで28もあると言う。古田武彦氏の「日向(ひなた)峠」が有名であるが、木佐氏は筑後にも「日向神社」があり、『続日本紀』には「日田は以前は日向といった」と書かれていると言う。
 高良山を「此の地は韓国に向かい、笠沙の御前に真木通り、…」と解釈して、「高良山唐津を結ぶ「佐賀ルート」が韓国に至るメインルートでだからだ。」(p.414)と述べていることは、苦しい。高良山からは筑後平野が開け、有明海に向かっていることは分かるが、韓国に向かっているのだろうか。私たちには、古田武彦氏の説や、佃收氏が『新「日本の古代史」(上)』の冒頭論文「弥生渡来人と「天孫降臨」」で述べている説の方が、理由を明示していて、説得力があるように思われた。


 「九州王朝の都は、ニニギや卑弥呼から、六世紀の磐井まで、連綿として高良山にあった。」(p.417)と述べている。気になるのは、ニニギノミコトの開いた王朝、邪馬壹国、倭の五王などが同じ王朝の系譜として捉えられてはいないか、ということである。単に九州で倭を名乗るということだけで、同じ王朝とするのは単純過ぎるのではないか。


 私たちは、「筑紫の日向」の古代糸島水道付近から、神武は出発したと考えて考察している。木佐氏は、神武も高良山にある「高千穂の宮」から出発したと言う。神武と邪馬壹国の関係はどうであったのか。また、記紀の記述では、神武は水路を辿って行くとされているから、高良山から筑後川を通り有明海に入って行くと考えるのだろう。そこからどのように進むのか考察する必要があり、更にその説に矛盾がないか、記紀の記述との整合性があるかなどの検討も必要である。
 ページ数をこれ以上増やさないためだったと推察されるが、この章はお話的な記述に留まり、前までの章と比べて説得力に差があるように感じられた。

 

<最後に>

  本当に多くのことを学ばせていただき、木佐氏に感謝したい。豊富な幅広い知識体系に支えられた記述であり、考察の進め方も妥当性があり、納得できる点が多かった。魏志倭人伝の素晴らしさを十分に伝えている本であると思う。私たちは、まず木佐氏の説の要点を正確に記述すること、次に納得できない見解についてはその理由をキチンと述べることを心掛けた。膨大な資料を丹念に調べて論を進めている著者に対して、知識量も勉強量も少ない私たちが批判するのはおこがしく、申し訳なく思うが、敢えて違う意見の場合は批判をさせていただいた。私たちの思い違いであることが多いかもしれないが、相互批判がこれからの日本古代史の研究には特に必要だと考えたからである。


 私たちも古田武彦氏の著作に接して古代史を勉強するようになったが、木佐氏も古田氏から影響を受け、古田氏の不合理な論点を整理検討することを一つの中心軸として研究を進めて来られたのだろう。古田氏は九州王朝をつながった一つの王朝と捉えていたので、木佐氏もその延長線上で考察しているように思われる。卑弥呼の3世紀の前はどうであったか、即ち、倭人はどの様に日本列島に渡来してきたのか、またその後の4世紀はどうなっていくのか、神武東征はどの様に行なわれ、その後の邪馬壹国はどうなって、更に、倭の五王はどのようにして生れてくるのかなどの考察が必要になる。木佐氏の視点は3世紀に留まっている感があり、その点で、私たちには少し残念な気がした。ただ、最初接した時は素晴らしいと感じた古田氏の「島めぐり」読方、榎氏の「放射コース式」読み方を再び、原点から考え直すことを示したこと、漢文のリズムの指摘など、私たちが思いもよらぬ点にまで視点を拡げてくれたことには本当に感謝しかない。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察