魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

(2ー1) 邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない

 魏志倭人伝の「邪馬壹国」は、後漢書では「邪馬臺国」とされ、読み方の点でのヤマト朝廷との関連から「邪馬臺国」として、さらに当用漢字で「邪馬台国」と表記されることが多い。その所在地をめぐって、江戸時代から多くの説が唱えられ、明治の末頃から、近畿説、九州説の論争が激しく行われてきた。

 

 魏志倭人伝は、ほぼ20年に渡って倭国に滞在した張政の報告を受け、魏から見た東方世界即ち東夷の倭人の様子を述べる。もし、邪馬壹国が近畿の奈良にあったとすれば、当時日本の中国地方を陸行することは考えられないから、船で、瀬戸内海を通るか、日本海を通るしかない。狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国までの船での行程はリアルに著わされている。瀬戸内海、日本海どちらを通るにせよ、九州から近畿への航路は狗邪韓国から末盧国までの1.5倍程度にはなり、夜の航海はできないから途中何ヶ所で泊まることになる。その航海の様子を陳寿が書かない訳はない。読んでみれば誰でも分かるように、魏志倭人伝の文章からは、全くそのようなことは感じられない。

 

 更に、邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(安本美典著、勉誠出版にも記されているように、鉄の鏃(やじり)の出土数は福岡県398個に対して、奈良県は4個であり、福岡県は奈良県の100倍となっている。鉄剣、鉄鉾、刀子も同様な分布であるという。魏志倭人伝には、「倭人は鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。また、絹織物を作ることも記されている。弥生時代から古墳時代前記の絹製品については、福岡県では15地点で出土しているのに対して、奈良県ではわずか2地点となっている。その他勾玉の出土数も福岡県は奈良県の10倍程度になっている。考古学が示すデータからも、女王の都する所が奈良とはとても言えない。

 

 次に三角縁神獣鏡について述べる。三角縁神獣鏡の出土数は福岡県56に対して、奈良県120となって奈良県の方が多い。しかし、三角縁神獣鏡は日本ではすでに400面以上出土しているのに対し、中国からは1面も出土していないことから分かるように、日本で作られた鏡である。また、すべて4世紀以降の古墳から出土していることから古墳時代の鏡であり、魏王から卑弥呼に与えられた100枚の銅鏡(240年)とは異なる。三角縁神獣鏡邪馬台国近畿説の根拠とはならない。

 尚、佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』のp.307以下の「「邪馬壹国=纏向遺跡」説の考古学者に問う」という論文で、邪馬壹国は近畿(奈良)にはないことを明確に示している。

 

『鏡が語る古代史』(ⅰ)

 

 最初、景初4年銘の鏡の問題などには触れずに、この節はここで終わろうと思っていた。魏志倭人伝の2000文字程の漢文を(原文の文字を変えないで)読んで、一度でも自分なりの訳を考えてみたことがある人なら、ほとんどの人がこの項目については同意してくれると考えていたからである。ところが、最近出版された邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(安本美典著、勉誠出版2019年9月刊)を読んでビックリし、考えが変わった。この本は、安本氏が新たな説を展開しているかもしれない、との期待感から読んでみた。しかし、自説を展開しているのはわずかで、全体の三分の二は、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書2017年5月刊)への批判と、どうしてこのような誤りが生じたかの解説である。「この本(『鏡が語る古代史』)は、誤読・誤訳・勝手読みのオンパレードである」と激しく断罪する。2017年8月には、アメリカの科学誌「サイエンス」に載せた論文に改竄があったとして、論文は撤回され、東大の分子細胞研究所の教授が処分されていることを記し、京大教授、東アジア人文情報学研究センター長の岡村秀典氏が書いたこの本は、「研究不正」の域に達していると述べる。安本氏がこのような激しい言葉で批判しているので、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書を私たちは何回か読んでみた。

 

 その結果、『鏡が語る古代史』は「困った本」であり、同時に「惜しい本」であるという感想をもった。「困った本」であることは、以下の3つの理由による。(1) 自説に都合が悪い事実や対立する説についてはほとんど触れずに叙述をする姿勢で書かれている。(2) 自説に有利になるように禁じ手(文や事実の改竄)が使われている。(3) 「はじめに」で魏志倭人伝に記された銅鏡百枚と三角縁神獣鏡について簡単に触れている。1章から6章までは古代中国、主に前漢後漢時代の銅鏡の図象の様式や銘文の変化を追っていく。そのときの権力との政治的な結びつきよりも、銅鏡が日用品(化粧道具)であるという観点が必要以上に強調されているように感じた。しかし、7章の最後に三角縁神獣鏡を突如登場させ、8章では、政治と権力との関係を強調して、よく読んでみるとしっかりとした理由も示さず、「魏が倭王に贈った「銅鏡百枚」はこの年に鋳造された三角縁神獣鏡をおいてはみあたらない。」(p.225)と思い込みだけを性急に述べる。

 

 「惜しい本」であるという感想は次のことからである。主に前漢後漢時代の銅鏡の写真が図43まで、計100枚位示され、図象や銘文が解説されている。小冊子にこれだけの内容を盛り込むことは見事だと思った。方格規矩四神鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡、…と銅鏡は様々に分類され、名前が付けられている。写真とともに示されているので、このような名称も理解でき、また各地の工作氏や工房についても知ることができた。さすが公費をついやした共同研究の成果であり、岡村氏に感謝したい。ただ、安本氏が指摘するように根本的な読み違いがあり、一面的な解釈のまま叙述されているので、考察の部分では、他の本と読み比べてみないととても参考にできないな、と感じた。

『鏡が語る古代史』(ⅱ)

 

 岡村秀典氏は、「三角縁神獣鏡は、魏の皇帝が倭のために洛陽で特別にあつらえた『特鋳品』である。」との説(『特鋳説』)である。1986年京都府福知山市の天田広峯遺跡から景初4年銘の斜縁盤龍鏡が発掘され、更にもう一面、景初4年銘の鏡が発見された。よく知られているように、魏の明帝は景初2年(238年)12月に重体になり、景初3年(239年)1月に死亡した。景初3年の翌年は、年号が変わり正始元年(240年)となり、景初4年は存在しない。もし、魏の首都の洛陽で作られたのなら、景初4年銘の銅鏡が作られることはない。平成は平成31年(2019年)4月で終わり、令和元年(2019年)5月から令和になった。平成32年は存在しない。日本の首都東京で作られ、国が外国に贈る品物に平成32年と紀年することがあるだろうか。

 

 岡村氏は「卑弥呼朝貢してきた「景初三年」に「陳氏」が後漢の画文帯神獣鏡をモデルに試行錯誤しながら本鏡(景初三年銘の三角縁神獣鏡)を創作した」(p.221)と述べ、その翌年に「陳氏」が景初4年銘の斜縁盤龍鏡をつくっている(p.216)と述べる。しかし、景初4年が存在しないことには全く触れない。

 

  その代わりに、その10ページほど前に「実在しない年号の鏡」という項目をわざわざ立て、実際に呉の国で「実在しない年号の鏡」があったことを示し、何とか「実在しない年号の鏡」である景初4年鏡を正当化しようとする。中国社会科学院の王仲殊の説を説明し、呉時代に無かった年号である「嘉興」銘の神獣鏡が、実は呉の皇帝孫皓が自殺を命じられた父親の名誉回復のために作らせた鏡であることを示している。しかしこの件は、皇帝が自らと父の名誉のために「実在しない年号の鏡」をわざわざ作らせたのである。「実在しない年号の鏡」はしっかりした目的があって作られていて、偽物でないことが認められる。

 それに対して、景初4年銘の鏡を洛陽で作る理由は見当たらない。この鏡が洛陽で作られているか疑われても仕方がないだろう。工人陳氏は日本に来ていて、その直近の中国の実情に詳しくないか、またはこの鏡が日本で作られた仿製鏡なら、十分に理解できる。この鏡が本当に洛陽で作られたのか、工人は洛陽に居たのかが問われている。洛陽で作られたと言うなら、「景初4年」と紀年される理由を示さなければならないだろう。「嘉興」銘の神獣鏡とは全く異なる問題である。

 

 何ヶ所かで王仲殊の説を論拠に論を展開している関係からか、さすがに「呉の神獣鏡工人が日本に渡来して三角縁神獣鏡を製作した」とする王仲殊の説は紹介して、批判をしている。しかし、安本氏が指摘しているように、岡村氏は批判の中での「徐州」の捉え方を間違えている。王仲殊は安本氏への手紙の中で次のように述べる。

「20世紀の80年代以降になると、中国本土および朝鮮半島の地域内に、三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しないことが、確認されたのち、魏鏡説(富岡謙蔵提出)は、成立がむずかしくなりました。とくに、1986年10月に2面の景初4年銘の三角縁盤竜鏡が発見され、いわゆる『特鋳説』もまた、立足の余地を完全に失いました。これは鉄のように固い事実です。何人も、否認することができないことです。…」(邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』p.131)

 

 安本氏は岡村氏への批判の最初で、「…カールグレンが考証したように、その「盖」は「羊」に「皿」を加えた字で、「祥」の仮借であり、「青祥」は緑色の吉祥なる金属をいう。有志の鏡工たちは「青盖」を雅号とするグループを「尚方」工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」(『鏡が語る古代史』p.80)と書かれていることに対して、次のように述べる。岡村氏は「青盖」(せいしょう)と読んだが、様々な辞書を調べてもそのように読むことは記されていず、「青盖」(せいがい)と読むことが正しい。「青盖」(せいがい)、「黄盖」(こうがい)、「三盖」(さんがい)は王室の機関名に由来し、「青盖」(せいがい)は、おもに皇太子や王族のもちものの製作を担当したグループである。岡村氏は完全な誤訳をしている、と指摘する。大変詳しく論じられているので、(邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』p.88以降)を見てほしい。

 

 少なくとも、『鏡が語る古代史』の第4章は全面的な書き直しが必要だろうと思われた。「青盖」などを金属とする説は、スウェーデンの中国語学者カールグレンが今から80年以上前の1934年の論文で説いた説であり、1990年代以降に王仲殊、古代史研究者三木太郎、考古学者の近藤喬一、奥野正男らは安本氏が示した説を述べている。岡村氏は80年以上前の説に立脚して、先人の説を見ていないと批判する。

 

『鏡が語る古代史』(ⅲ)

 

 1998年の発掘調査で、天理市の黒塚古墳から大量の33面の三角縁神獣鏡が出土した。現在「日本で出土した三角縁神獣鏡の個数は厳しく見ても375をこえ、出土不明なもの等を併せると400は優に超える」(邪馬台国の鏡』(奥野正男著、梓書院2011年4月刊)という。卑弥呼に贈られた銅鏡100枚の4倍の数である。一方、王仲殊等が言うように、中国からは1面も出土していない。『鏡が語る古代史』p.214には「…景初3年(239)「陳是(氏)作」三角縁神獣鏡のモデルになったのは、190年ごろの画文帯同方式神獣鏡である。洛陽市吉利区の出土は、径15センチ、鈕の右に西王母、左に東王公があり、…」と書かれ、「神獣鏡が出土」したと記している。ところが、この記述の元本の『洛鏡銅華 上』(中国・科学出版社2013年刊、岡村秀典監訳)でも、この中国本の翻訳の『洛陽銅鏡』(科学出版社東京、2016年刊)でも、同じ鏡が「採集」と書かれている。中国では贋造鏡が極めて多い。「採集」では贋造鏡であることもあり得る。そのため、「出土」と変えてしまったのだろう。自分が監訳した本で、意味の異なる言葉に変えてしまうのはどうかと思われる。

 

 また、『鏡が語る古代史』p.224では、『全唐文』という文献の次の一部を引用している。「むかし魏は倭国に酬るに銅鏡・紺文に止め、漢は単于に遺るに犀毘・綺袷に過ぎず、…」(奏吐蕃交馬事宜状)ここに示された「銅鏡・文」は『全唐文』の原文で確認してみると「銅鏡・文」であり、よく見ないと分からないが、「」(かねへん)が勝手に「」(いとへん)に書き換えられている。

 岡村氏は、字を変更した「銅鏡・紺文」いとへんを「銅鏡と絹織物」と訳して、魏が倭に銅鏡や絹織物を与えていることを示している、と言う。一方、元の「銅鏡・鉗文に止め」かねへんは、安本美典氏によれば、「特別な制約をつけずに銅鏡を」のように訳すことができる。(多少粗悪な鏡も、大きな鏡も小さな鏡も)特別な制約をつけずに銅鏡を倭国に与えた、ということであれば、「特別に注文して作った鏡」ということに反してしまう。

 山口博氏がこの『全唐文』の奏吐蕃交馬事宜状の記事を根拠にして、「三角縁神獣鏡は魏が倭に贈るために、特別に注文して作った鏡である」という説(『特鋳説』)を2011年に週刊誌で発表した。確かに、岡村氏のように字を変えた方が、山口氏の説に説得力が増すと思われる。しかし、原文を変えてしまうことは許されることなのだろうか。早速、次ページのp.225では、山口氏の説を紹介し、最後に、「…魏が倭王に贈った「銅鏡百枚」は…三角縁神獣鏡をおいてほかにはみあたらない。」と自分の結論を性急に述べる。

 

 この本は「惜しい本」であり、できれば改訂版を出してもらいたいと思う。それが叶わないなら、せめて、岩波書店の方からp.214の5行目の「出土」を「採取」に、p.224の8行目の「紺」を「鉗」に直す正誤表をつけて販売してくれるといいな、と思った。「新書」であるから、高校生なども読むだろう。解釈に大きく作用する、原文から(意図的に?)変えられた字がそのままで販売されることは許されないと思うのだが…。

  思いのほか長くなったので、この本に関してはこの辺で切り上げる。ただ、漢の時代の銅鏡にこれほど豊富な知識をもつ著者が、禁じ手を使ってまで示そうとする説明がこの程度であることは、逆に言えば、三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に贈られた鏡でないことを明確に証明しているようなものである、という認識に私たちは改めて達した。

 

 この文書全体を2019年12月にアップしたときには、ここから、次の節(3)魏志倭人伝での1里は約76m に移った。しかし、最近になって、邪馬台国近畿説にとって根幹をなす三角縁神獣鏡の製作地について決定的なことを示す本が出版されていることを知った。この本は2016年1月に発行されているが、決定的なことが書かれている割には、余り知られていないように思われる。そのため、(2-2)と新たな小節を設けて、この本の読後感想を記す。卑弥呼の鏡』(-鉛同位体比チャートが示す真実-藤本昇著、海鳥社刊)である。次の(2-2)は卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想である。

 

   魏志倭人伝レポート

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   日本古代史についての考察