魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

1月数学ゼミ

静岡数学研究会

<日時>1月13日(土)14:00~16:30

             [次回以降]210()316()

<会場>藤枝市文化センター 第4会議室

             (藤枝市駅前2-1-5 , Tel:054-641-1111)

ファインマン物理学量子力学

第10章 他の2状態系  Rep. K氏

 次回は新しい章に入ります。同じ線形代数でも、物理と数学では表記方法や記号が異なります。この辺での戸惑いはありますが、お互いの疑問点を出し合って進めていきましょう。前回の途中、「一様収束」の概念が出てきました。数学では重要な概念なので、少し振り返って整理してみるのもいいかな、と思いますがどうでしょうか?

 

 早いものであと数日で新年ですが、21世紀が始まってもう24年目で、ほぼ四半世紀となります。百年前の少し後に、シュレーディンガー方程式が登場します。   

 忘年会の代わりに、新年会を行います。H氏の「私はどうして吉本隆明を学び始めたか」というレポートはこのときとします。その他にも、皆さんに聞いてもらいたいことがありましたら、ご用意ください。

  静岡数学研究会

魏志倭人伝レポート-二著の批評を中心に-

 三世紀の日本、邪馬壹国(邪馬台国)、卑弥呼についての私たちの視野を広げてくれる本に出会った。①『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久著、冨山房インターナショナル2016年2月刊)②『決定版邪馬台国の全解決』(孫栄健著、言視舎2018年2月刊)の二冊である。この二冊が、どの様な点で私たちの参考になり、どのような点については賛成できないかを整理してみた。第一に自分たちの『魏志倭人伝に関係する知識を改めて整理・確認するためであり、第二に卑弥呼や邪馬壹国(邪馬台国)、三世紀の日本の歴史に興味を持たれている方々に私達の整理したことが少しでも参考になればと考えたからである。

 全体が30程のブログから成っているので、順番に見ることができるが、該当する目次をクリックすれば、その項目から見ることができる。また、各項目の最後にこのページへのリンクがあるので、そのリンクからこのページに戻ることができます。

[追記]

 この魏志倭人伝レポートは、2019年12月にインターネット上にアップされた。今回、新たに【Ⅱ】(2)邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない、を拡充した。今までの(2)の内容はそのまま(2-1)邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはないとし、新たに(2-2)卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想を付け加える。この本には、銅鏡や三角縁神獣鏡を考察する際の決定的な事実が示されている、と考えるからである。是非、(2-2)を見ていただきたいと思います。(2021年9月7日 記)

 

【Ⅰ】 ①、②に対する最初の読後感想
(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の最初の読後感想
(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の最初の読後感想
(3)比評の視点

【Ⅱ】 いくつかの確認できる点
(1) 卑弥呼は大和朝廷の系譜の女王ではない
(2ー1)  邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない

(2ー2)『卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想

(3) 魏志倭人伝での1里は約76m
(4) 景初2年が正しい

【Ⅲ】 個々の論点
(1) 対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?
(2) 「末盧国」で上陸した港はどこか?
(3) それぞれの国の位置の比定
(4) 「自郡至女王国萬二千餘里」の理解
(5) 「水行十日陸行一月」の解釈
(6) 狗奴国の位置
(7) 「会稽東治之東」
(8) 倭人、倭国とは何か
(9) 補足

【Ⅳ】 二著の章ごとの批評
(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の章ごとの批評

<第1章 魏志の再発見へ>
<第2章 中国史書の論理に学ぶ> <第3章 『魏志』里程記事を読む>
<第4章 三世紀の実相> <第5章 一大率と伊都国について>
<第6章 東アジアの中の日本>

(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の章ごとの批評

<第1章 魏志倭人伝は明快にかかれている>
<第2章 東夷伝序文の「長老」と韓の反乱> <第3章 短里と長里>
<第4章 「魏志倭人伝」研究史と皇国史観> <第5章 「島国」と漢書、後漢書>
<第6章 「従郡至倭」と起点と経由> <第7章 狗邪韓国と「七千余里の論証」> 
<第8章 対海国から女王国まで>
<第9章 倭の政治地図と裸国黒歯国>
<第10章 倭国の風土と外交>
<第11章 女王国の歴史と「倭国乱」>

<第12章 天孫降臨の山>

Ⅴ】 これまでの考察で明確になった点

(1) 「末盧国」で上陸した港は名護屋
(2) 残りの1300~1500里をどこに求めるか?

 

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   日本古代史についての考察

【Ⅰ】 ①、②に対する最初の読後感想

 詳しい批評は【Ⅳ】で記すことにして、まず、二著①、②の最初の読後感想を述べてみたい。②『決定版邪馬台国の全解決』から述べることにする。

(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の最初の読後感想

この本は、過去に出版された2冊の本邪馬台国の全解決』(1982年刊)魏志東夷伝の一構想』(1986年刊)の内容に、新たに倭国の政治交渉記事の内容を加えて、すべてをまとめて1冊にした本であると著者は言う。全体で、6つの章にまとめられている。最初の3章は、主に邪馬台国の全解決』の内容だろうと思われる。この部分は、最初読んでインパクトを受けた。
 漢文に不得手な私たちは、日本の古代史を理解するために、一生懸命魏志倭人伝を読み、その解釈をめぐる考察を積み重ねてきた。陳寿の書いた『魏志倭人伝(以降『』を省略)と范曄が書いた『後漢書』倭伝を読み比べて、異なった記述の箇所では、どちらの記述が正しいとか正しくないとかを論じてきた。専ら、日本の古代史を理解するという文脈の中でだけ、魏志倭人伝に接してきた感がある。
 ところが、魏志倭人伝は、陳寿の書いた『三国志』の中の『魏志』の中の第30巻「東夷伝」の中の第7条「倭人伝」であり、元々日本人に古代倭人の姿を伝えるために書かれた文献ではなく、中国の歴史と文化の中で、中国の王朝や周辺諸国の様子を中国の人々に示すために書かれた文献の中の一部である。『史記』、『漢書』、『三国志』…と続いた中国24史の中で、特に『史記』-『漢書』-『後漢書』-『三国志』は高く評価されて、前四史と呼ばれ、孔子の書いたとされる『春秋』に習って書かれている。これらの中国の史書は「春秋を継ぎ」、文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を伝える「春秋の筆法」で書かれている。つまり、一字やちょっとした表現の変化が大きな意味の違いを表しているから、まず矛盾、「文の錯(たが)え」、微言を発見し、次にその真意である大儀を求めるという読み方をしなければならないと、孫氏は述べる。
 後漢が崩壊し、その後に建国される魏、呉、蜀が勢力を拡大し、やがて魏が蜀や呉を滅ぼし、魏から西晋が継がれていく、いわゆる三国史の時代の様子を解説する。陳寿は蜀の歴史編集の官となり、やがて蜀は滅び、晋の重臣の知遇を得て、晋の歴史編集官になっていく経緯も詳しく書かれている。また、『後漢書』を編纂後、中央政界に復帰したが、クーデターを計画失敗して48歳で刑場の露と消えた范曄の経歴や生れてきた時代についても分かり易くまとめられている。このことは、著者の中国古文献の圧倒的な読書量によるものだろうと思われる。中国の歴史の流れ、中国の歴史書の意味、役割などが説得力をもって示されているように感じる。


 日本における伝統的な中国歴史書の読み方には、大きな問題があるのではないか、と孫氏は言う。中国文明の風習としての伝統的なレトリックが完全に見落とされているのではないか。そして、その欠落を補い、今までにないハイ・コンテクストな視点から魏志倭人伝に書かれていることを解読したのが本書であると述べる。

 1982年に『邪馬台国の全解決』が出版されてから数ヵ月後に、安本美典氏が主宰する『季刊邪馬台国』で、「魏志は春秋の筆法で読めるか」というテーマで、この本の特集が組まれたという。著名な学者達が論じ、その際の学者諸氏の評価はまちまちだったようだが、安本美典氏は、それなりの評価を与えたとする。確かに、この本は大きなインパクトを与えたのだろう。
 後漢の後の中国の歴史の流れが分かり易く説明されているという点、魏志倭人伝は元々中国の政治や文化の文脈の上に立って成立しているものであることを理解できた点が、この本から学べたことだ。


 最初に触れたように【Ⅳ】で、この本の個々の歴史的考察についての批評を述べていくが、本書で物足りなさや危うさを感じるのは、その当時の日本や朝鮮半島の歴史的状況への視点を欠いたまま、結論を下してしまうところであると思われる。日本の歴史的事象について判断するためには、その当時の日本の歴史的状況や中国や朝鮮半島の状況、古文献に書かれていることなどから総合的に判断していく他はない。その点で、本書は中国の歴史や古文献についての知識は優れているが、日本の歴史的状況、日本の歴史書等に書かれていることなどは余り考慮しないため、結果として肯じがたい結論に行き着く、というようなことがしばしばあるように感じた。すごく個性の強い本であり、著述のスタンスは必ずしもバランスが取れているとは言い難いが、学べる点も多くある本だという感想をもった。

   

         魏志倭人伝レポート

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   日本古代史についての考察

 

 

 

 

(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の最初の読後感想

 著者の木佐氏は、多方面にわたる知識の持ち主であり、教養豊かな方であるのだろう。日本古代史に関する今までの学者や研究者の説、それに対して痛烈な批判を展開した古田武彦氏が主張してきたことなどを、しっかりと受け留め、バランスの取れた判断力で裁断していると感じられた。古田氏の果たしてきた業績をしっかり認め、更に、古田氏が誤って考察していると思われる箇所では、批判して自分の見解をキチンと示している。
通常、魏志倭人伝に記されている女王国を「邪馬台国」と書く本が多いが、魏志倭人伝に記されている通りに「邪馬壹国」と記している。また、『隋書』で、倭の国について記された文書を『隋書』倭国伝と呼ぶことが多いが、この本は『隋書』がハッキリと記しているように『隋書』俀国(たいこく)伝と呼んでおり、大変好感が持てる。
この本の冒頭、「原文で読める魏志倭人伝」として、魏志倭人伝の古代の中国語での読み方が示されている。魏志倭人伝の文章は、散文であるにもかかわらず極めてリズミカルで、簡潔かつ明晰であることを示すためである。この本の説明を読むと、確かに倭人伝の文全体が韻を踏んでおり、素晴らしいリズムを作り出していることが分かる。『魏書』を書いていた皇后の姻戚である夏侯湛という人が陳寿の書いた『魏志』を読んで、自分の『魏書』を破棄してしまったという。漢文の素養のない私たちにも、確かに魏志倭人伝の素晴らしさが伝わってくる。
全般的に、調べるところは調べ、そう考える理由をしっかりと述べて結論に至る極めて説得的な論考である。多くのことを考慮しながら論を進めるバランスの良さもあるように感じる。また、「かくも明快」に疑問が解けたところも何箇所かあった。


 しかし、読んでいて、時々違和感を感じる点がある。それは、著者の木佐氏が九州王朝を認めているものの、古田氏と同じように九州王朝が連続していると考えている点にあるのではないか、と思った。『記紀』(以降『』を省略)が述べるように大和朝廷がこの国を支配していた、というのは史実と異なり、九州の王権が古代のかなりの時代まで支配権を持っていたと考えられる。このことを古田氏と同様に木佐氏も認めている。佃收氏はこの九州王権は、卑弥呼の邪馬壹国、倭の五王、『隋書』俀国(たいこく)伝に記されている俀国などのように、連続した王権ではなく、異なる王権が入れ替わっているとして、その歴史を説明する古代史を展開している。木佐氏は古田氏と同様にこの九州王朝が連続したもの、と考えているのではないか。また、倭人は昔から日本列島に居たように考えているように思われる。倭人が渡来した経過を、考察の外に置いているのではないだろうか。


 この点は確かに私たちとは異なる。しかし、①『かくも明快な魏志倭人伝の異なる論点に出会っても、暗い感じにはならない。それは、木佐氏のように、しっかりと議論をして違っているところは直すという、バランスの取れた態度で古代史の建設に向かっていくのなら、やがて多くの人が認める日本古代史が作られるのではないか、と感じるからである。一人の人間が、日本古代史をすべて建設することはできない。多くの人が協力して、いろいろな意見を出し合い、他者の良いところを認め合いながら、建設していく以外ない。学閥や権威に拘り、日本人がどの様に形成されて来たか、これからどの様に生きていくべきかという肝心要の問題に、結果的に背を向けてはならない。木佐氏もこの本のはじめにで、皇国史観を守るところから出発した古代史は、原発の専門家と、詭弁の使い方において同じだと述べ、批判している。更に、「魏志倭人伝には信頼できない情報がまじっている、というのは専門家の常識である。だから魏志倭人伝を死んだ昆虫のように扱って、自分の説を組み立てた。そもそも、自分で気がつかなかった問題、無視した問題は専門家といえども詳しく調べることがないのは、どの分野でも言えることだ。要は、素人だろうが専門家だろうが、カギとなる問題を見つけて徹底的に調べ、適切な方法で納得いくまで考え抜いたものには誰もかなわない、ということだと思う。」(p.7)と述べている。多くの人達がこのような姿勢で、日本古代史に向かう時が来ていることを、この本から感じることができた。

 

  魏志倭人伝レポート

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(3)比評の視点

 この二著の他、かつて読んだ次の本にザッと目を通した。③『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、ミネルヴァ書房朝日文庫④『倭人伝を徹底して読む』(古田武彦著、ミネルヴァ書房朝日文庫)、⑤『俾弥呼』(古田武彦著、ミネルヴァ書房⑥『新「日本の古代史」(上)』(佃收著、星雲社⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』古代史の復元2(佃收著、星雲社⑧『邪馬台国ハンドブック』(安本美典著、講談社⑨『邪馬台国の秘密』(高杉彬光著、光文社文庫もちろんこれ以外にも、重要な問題を提供している本は沢山ある。この拙文を読んでいただく方々の参考のために、一応、私たちが参考にした本を揚げた。
 卑弥呼はどのような女王であり、女王がいたとされる邪馬壹国は何処にあったのか、という問題は大変興味深い。しかし、この問題は、日本の古代史の中で、3世紀に卑弥呼や邪馬壹国がどういう役割を果たしたか、という視点から考えるべき問題である。皇国史観によって、西暦紀元前660年に神武天皇から始まる万世一系天皇によって作り上げられてきたのが日本だと考えている人は、極めて少ないと思われる。また、朝鮮半島から渡来した勢力によって築かれ、言わば朝鮮半島文化の亜流が日本文化だと考えている人は、ほとんど居ないだろう。日本という国がどのように作られてきたかを知ることは、これからの日本が世界の中でどのように生きていくかに大きくかかわっている。


 江戸時代に国学の隆盛によって『古事記』、『日本書紀』などが研究されるようになり、戦前の皇国史観を経て、戦後は一転して「第16代の応神天皇以前の歴史は虚妄である」とする合理主義・実証主義が振りかざされた。そのような中で、1970年代以降には、既存の日本歴史学会とは別のアマチュアによる歴史研究が盛んになり、象牙の塔に閉じこもっている専門学者をたじたじとさせた、と言われる。また、様々な遺跡の発見があり、中国大陸や朝鮮半島の文献や遺跡等についての知識も次第に蓄積されるようになり、東アジアの中での日本の歴史を実証的にも考えることができるようになってきた。ようやく、日本の古代史を明らかにできる時代が到来しているのではないだろうか。これが、十分な知識のないことを省みず、佃收氏が研究されてきたことを学びながら、私たちが古代史の学習に取り組んでいる理由である。

 

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【Ⅱ】 いくつかの確認できる点

 ①、②を読みながらの感想を記していく中で、様々な論点の整理をしていきたいと思う。まずそれに先立って、私たちには疑うことが出来ないいくつかの点について確認したい。
 古代史は少ない資料から古代の在り方を推論していく。当然様々な推論が可能になるので、まずあり得ない事を確定することにより、議論が多岐に渡り過ぎるのを防ぐことができる。それによって、より密度の濃い議論をすることができると考えたからである。

(1) 卑弥呼大和朝廷の系譜の女王ではない

 

 倭の女王卑弥呼は中国の正史『三国志』、『後漢書』、『晋書』、『隋書』、また朝鮮半島の最も古い歴史書三国史記』にも、名前が明記されている古代東アジアの有名な女王である。『三国志』の中の『魏志』の中の第30巻「東夷伝」の中の第7条「倭人伝」(いわゆる魏志倭人伝)の中に詳しい記述がある。日本の歴史書では、どの様に扱われているか、見てみよう。『日本書紀神功皇后39年の記事に、『魏志』についての記述がある。「魏志云……」という述べ方で、明帝景初3年6月倭女王が大夫難斗米等を魏に派遣したこと、正始元年に魏が倭に詔書印綬を与えたこと、正始4年に倭王が魏に献じたことが、魏志倭人伝と全く同じ漢字を用いて記されている。『日本書紀』の記述者は明らかに魏志倭人伝を読みながら記述している。ところが、倭女王について記しながら、卑弥呼の名は書かれていない。『古事記』では『魏志』そのものの記述が全くない。記紀は、神武天皇を初代天皇とする大和朝廷が日本を支配してきたと記述している。もし、卑弥呼大和朝廷の系譜の女王であったなら、当然のように中国の史書に何回も書かれている女王の名前を記すだろう。古代においてこのように東アジア全体で有名な自分達の祖先を書かない訳がない。中国や朝鮮の史書によって明確に記述されている倭女王卑弥呼を、神功紀で名前を伏せてただ単に倭女王と記しているのは、この女王を神功皇后に見立てるという意図を持ち、更に、『古事記』では全く触れていないことは、卑弥呼大和朝廷(天氏)の系譜の女王ではないことを明確に物語っていると言える。
 記紀の伝えるところでは、神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后であり、子を孕みながら新羅征伐をしたとする古代の偉人である。その4代前とされる第10代崇神天皇は「戌寅」に死去したと『古事記』は記す。崩年干支「戌寅」から判断して、第10代崇神天皇は318年に死去したと考えられる。仮に、「戌寅」が干支の1周期前の258年だとしても、倭女王が朝貢したとする明帝景初3年(日本書紀)は西暦239年だから、時間的に、卑弥呼崇神天皇神功皇后の順になり、卑弥呼神功皇后はまったく違う時代の人物である。
 神功皇后より古い時代の女性でかつ大和朝廷の系譜の女性の大物ということから、天照大神卑弥呼である、あるいは卑弥呼の存在から天照大神についての神話が生れたというような説を述べる歴史家は多い(戦前では和辻哲郎白鳥庫吉などが示唆し、戦後では安本美典氏などがいる)。しかし、少なくとも『日本書紀』の著者は、卑弥呼神功皇后に見立てたいという意図をもって、神功皇后紀にこの女王の記事を書いている。この説の歴史家と、『日本書紀』の著者は、卑弥呼について全く異なる見解を示していると言える。
 

 尚、『日本書紀』によれば、記紀は天武10年(681年)3月に天武天皇が編纂を指示したとされる。天武天皇は「天氏」であるから、倭人であっても、「天氏」以外で日本に渡来した「卑弥氏」の支配は載せようとしない。邪馬壹国の卑弥呼倭の五王が直接に記紀に登場しないは、卑弥呼倭の五王が「卑弥氏」であるからである。
佃收氏は、大和朝廷(天氏)の天皇の実際の系譜と、記紀に記された天皇の関係について、更に深めた考察をしている。記紀は、渡来人である崇神・景行・応神・仁徳天皇を、万世一系大和朝廷天皇の系譜に組み入れて記述している、と述べる。また、天武天皇天智天皇は異なる王権の王であり、記紀の編纂を天武天皇(天武王権)から引き継いだ持統天皇以下の天智王権は、神武天皇から始まる万世一系の王権は天智王権であるように、記紀を書き替えている、とする。そのため、天武天皇天智天皇の弟にし、天武天皇の父は舒明天皇ということになって、天武王権を創設した実際の「天武天皇の父」は記紀には登場しない、と述べる。私達の目の前にある記紀は、この結果のものである。これらのことについて、佃氏は著書⑥『新「日本の古代史」(上)』『新「日本の古代史」(中)』『新「日本の古代史」(下)』の中で体系的に記述していることを、参考までに記しておきたい。

 

  魏志倭人伝レポート

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(2ー1) 邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない

 魏志倭人伝の「邪馬壹国」は、後漢書では「邪馬臺国」とされ、読み方の点でのヤマト朝廷との関連から「邪馬臺国」として、さらに当用漢字で「邪馬台国」と表記されることが多い。その所在地をめぐって、江戸時代から多くの説が唱えられ、明治の末頃から、近畿説、九州説の論争が激しく行われてきた。

 

 魏志倭人伝は、ほぼ20年に渡って倭国に滞在した張政の報告を受け、魏から見た東方世界即ち東夷の倭人の様子を述べる。もし、邪馬壹国が近畿の奈良にあったとすれば、当時日本の中国地方を陸行することは考えられないから、船で、瀬戸内海を通るか、日本海を通るしかない。狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国までの船での行程はリアルに著わされている。瀬戸内海、日本海どちらを通るにせよ、九州から近畿への航路は狗邪韓国から末盧国までの1.5倍程度にはなり、夜の航海はできないから途中何ヶ所で泊まることになる。その航海の様子を陳寿が書かない訳はない。読んでみれば誰でも分かるように、魏志倭人伝の文章からは、全くそのようなことは感じられない。

 

 更に、邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(安本美典著、勉誠出版にも記されているように、鉄の鏃(やじり)の出土数は福岡県398個に対して、奈良県は4個であり、福岡県は奈良県の100倍となっている。鉄剣、鉄鉾、刀子も同様な分布であるという。魏志倭人伝には、「倭人は鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。また、絹織物を作ることも記されている。弥生時代から古墳時代前記の絹製品については、福岡県では15地点で出土しているのに対して、奈良県ではわずか2地点となっている。その他勾玉の出土数も福岡県は奈良県の10倍程度になっている。考古学が示すデータからも、女王の都する所が奈良とはとても言えない。

 

 次に三角縁神獣鏡について述べる。三角縁神獣鏡の出土数は福岡県56に対して、奈良県120となって奈良県の方が多い。しかし、三角縁神獣鏡は日本ではすでに400面以上出土しているのに対し、中国からは1面も出土していないことから分かるように、日本で作られた鏡である。また、すべて4世紀以降の古墳から出土していることから古墳時代の鏡であり、魏王から卑弥呼に与えられた100枚の銅鏡(240年)とは異なる。三角縁神獣鏡邪馬台国近畿説の根拠とはならない。

 尚、佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』のp.307以下の「「邪馬壹国=纏向遺跡」説の考古学者に問う」という論文で、邪馬壹国は近畿(奈良)にはないことを明確に示している。

 

『鏡が語る古代史』(ⅰ)

 

 最初、景初4年銘の鏡の問題などには触れずに、この節はここで終わろうと思っていた。魏志倭人伝の2000文字程の漢文を(原文の文字を変えないで)読んで、一度でも自分なりの訳を考えてみたことがある人なら、ほとんどの人がこの項目については同意してくれると考えていたからである。ところが、最近出版された邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(安本美典著、勉誠出版2019年9月刊)を読んでビックリし、考えが変わった。この本は、安本氏が新たな説を展開しているかもしれない、との期待感から読んでみた。しかし、自説を展開しているのはわずかで、全体の三分の二は、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書2017年5月刊)への批判と、どうしてこのような誤りが生じたかの解説である。「この本(『鏡が語る古代史』)は、誤読・誤訳・勝手読みのオンパレードである」と激しく断罪する。2017年8月には、アメリカの科学誌「サイエンス」に載せた論文に改竄があったとして、論文は撤回され、東大の分子細胞研究所の教授が処分されていることを記し、京大教授、東アジア人文情報学研究センター長の岡村秀典氏が書いたこの本は、「研究不正」の域に達していると述べる。安本氏がこのような激しい言葉で批判しているので、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書を私たちは何回か読んでみた。

 

 その結果、『鏡が語る古代史』は「困った本」であり、同時に「惜しい本」であるという感想をもった。「困った本」であることは、以下の3つの理由による。(1) 自説に都合が悪い事実や対立する説についてはほとんど触れずに叙述をする姿勢で書かれている。(2) 自説に有利になるように禁じ手(文や事実の改竄)が使われている。(3) 「はじめに」で魏志倭人伝に記された銅鏡百枚と三角縁神獣鏡について簡単に触れている。1章から6章までは古代中国、主に前漢後漢時代の銅鏡の図象の様式や銘文の変化を追っていく。そのときの権力との政治的な結びつきよりも、銅鏡が日用品(化粧道具)であるという観点が必要以上に強調されているように感じた。しかし、7章の最後に三角縁神獣鏡を突如登場させ、8章では、政治と権力との関係を強調して、よく読んでみるとしっかりとした理由も示さず、「魏が倭王に贈った「銅鏡百枚」はこの年に鋳造された三角縁神獣鏡をおいてはみあたらない。」(p.225)と思い込みだけを性急に述べる。

 

 「惜しい本」であるという感想は次のことからである。主に前漢後漢時代の銅鏡の写真が図43まで、計100枚位示され、図象や銘文が解説されている。小冊子にこれだけの内容を盛り込むことは見事だと思った。方格規矩四神鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡、…と銅鏡は様々に分類され、名前が付けられている。写真とともに示されているので、このような名称も理解でき、また各地の工作氏や工房についても知ることができた。さすが公費をついやした共同研究の成果であり、岡村氏に感謝したい。ただ、安本氏が指摘するように根本的な読み違いがあり、一面的な解釈のまま叙述されているので、考察の部分では、他の本と読み比べてみないととても参考にできないな、と感じた。

『鏡が語る古代史』(ⅱ)

 

 岡村秀典氏は、「三角縁神獣鏡は、魏の皇帝が倭のために洛陽で特別にあつらえた『特鋳品』である。」との説(『特鋳説』)である。1986年京都府福知山市の天田広峯遺跡から景初4年銘の斜縁盤龍鏡が発掘され、更にもう一面、景初4年銘の鏡が発見された。よく知られているように、魏の明帝は景初2年(238年)12月に重体になり、景初3年(239年)1月に死亡した。景初3年の翌年は、年号が変わり正始元年(240年)となり、景初4年は存在しない。もし、魏の首都の洛陽で作られたのなら、景初4年銘の銅鏡が作られることはない。平成は平成31年(2019年)4月で終わり、令和元年(2019年)5月から令和になった。平成32年は存在しない。日本の首都東京で作られ、国が外国に贈る品物に平成32年と紀年することがあるだろうか。

 

 岡村氏は「卑弥呼朝貢してきた「景初三年」に「陳氏」が後漢の画文帯神獣鏡をモデルに試行錯誤しながら本鏡(景初三年銘の三角縁神獣鏡)を創作した」(p.221)と述べ、その翌年に「陳氏」が景初4年銘の斜縁盤龍鏡をつくっている(p.216)と述べる。しかし、景初4年が存在しないことには全く触れない。

 

  その代わりに、その10ページほど前に「実在しない年号の鏡」という項目をわざわざ立て、実際に呉の国で「実在しない年号の鏡」があったことを示し、何とか「実在しない年号の鏡」である景初4年鏡を正当化しようとする。中国社会科学院の王仲殊の説を説明し、呉時代に無かった年号である「嘉興」銘の神獣鏡が、実は呉の皇帝孫皓が自殺を命じられた父親の名誉回復のために作らせた鏡であることを示している。しかしこの件は、皇帝が自らと父の名誉のために「実在しない年号の鏡」をわざわざ作らせたのである。「実在しない年号の鏡」はしっかりした目的があって作られていて、偽物でないことが認められる。

 それに対して、景初4年銘の鏡を洛陽で作る理由は見当たらない。この鏡が洛陽で作られているか疑われても仕方がないだろう。工人陳氏は日本に来ていて、その直近の中国の実情に詳しくないか、またはこの鏡が日本で作られた仿製鏡なら、十分に理解できる。この鏡が本当に洛陽で作られたのか、工人は洛陽に居たのかが問われている。洛陽で作られたと言うなら、「景初4年」と紀年される理由を示さなければならないだろう。「嘉興」銘の神獣鏡とは全く異なる問題である。

 

 何ヶ所かで王仲殊の説を論拠に論を展開している関係からか、さすがに「呉の神獣鏡工人が日本に渡来して三角縁神獣鏡を製作した」とする王仲殊の説は紹介して、批判をしている。しかし、安本氏が指摘しているように、岡村氏は批判の中での「徐州」の捉え方を間違えている。王仲殊は安本氏への手紙の中で次のように述べる。

「20世紀の80年代以降になると、中国本土および朝鮮半島の地域内に、三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しないことが、確認されたのち、魏鏡説(富岡謙蔵提出)は、成立がむずかしくなりました。とくに、1986年10月に2面の景初4年銘の三角縁盤竜鏡が発見され、いわゆる『特鋳説』もまた、立足の余地を完全に失いました。これは鉄のように固い事実です。何人も、否認することができないことです。…」(邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』p.131)

 

 安本氏は岡村氏への批判の最初で、「…カールグレンが考証したように、その「盖」は「羊」に「皿」を加えた字で、「祥」の仮借であり、「青祥」は緑色の吉祥なる金属をいう。有志の鏡工たちは「青盖」を雅号とするグループを「尚方」工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」(『鏡が語る古代史』p.80)と書かれていることに対して、次のように述べる。岡村氏は「青盖」(せいしょう)と読んだが、様々な辞書を調べてもそのように読むことは記されていず、「青盖」(せいがい)と読むことが正しい。「青盖」(せいがい)、「黄盖」(こうがい)、「三盖」(さんがい)は王室の機関名に由来し、「青盖」(せいがい)は、おもに皇太子や王族のもちものの製作を担当したグループである。岡村氏は完全な誤訳をしている、と指摘する。大変詳しく論じられているので、(邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』p.88以降)を見てほしい。

 

 少なくとも、『鏡が語る古代史』の第4章は全面的な書き直しが必要だろうと思われた。「青盖」などを金属とする説は、スウェーデンの中国語学者カールグレンが今から80年以上前の1934年の論文で説いた説であり、1990年代以降に王仲殊、古代史研究者三木太郎、考古学者の近藤喬一、奥野正男らは安本氏が示した説を述べている。岡村氏は80年以上前の説に立脚して、先人の説を見ていないと批判する。

 

『鏡が語る古代史』(ⅲ)

 

 1998年の発掘調査で、天理市の黒塚古墳から大量の33面の三角縁神獣鏡が出土した。現在「日本で出土した三角縁神獣鏡の個数は厳しく見ても375をこえ、出土不明なもの等を併せると400は優に超える」(邪馬台国の鏡』(奥野正男著、梓書院2011年4月刊)という。卑弥呼に贈られた銅鏡100枚の4倍の数である。一方、王仲殊等が言うように、中国からは1面も出土していない。『鏡が語る古代史』p.214には「…景初3年(239)「陳是(氏)作」三角縁神獣鏡のモデルになったのは、190年ごろの画文帯同方式神獣鏡である。洛陽市吉利区の出土は、径15センチ、鈕の右に西王母、左に東王公があり、…」と書かれ、「神獣鏡が出土」したと記している。ところが、この記述の元本の『洛鏡銅華 上』(中国・科学出版社2013年刊、岡村秀典監訳)でも、この中国本の翻訳の『洛陽銅鏡』(科学出版社東京、2016年刊)でも、同じ鏡が「採集」と書かれている。中国では贋造鏡が極めて多い。「採集」では贋造鏡であることもあり得る。そのため、「出土」と変えてしまったのだろう。自分が監訳した本で、意味の異なる言葉に変えてしまうのはどうかと思われる。

 

 また、『鏡が語る古代史』p.224では、『全唐文』という文献の次の一部を引用している。「むかし魏は倭国に酬るに銅鏡・紺文に止め、漢は単于に遺るに犀毘・綺袷に過ぎず、…」(奏吐蕃交馬事宜状)ここに示された「銅鏡・文」は『全唐文』の原文で確認してみると「銅鏡・文」であり、よく見ないと分からないが、「」(かねへん)が勝手に「」(いとへん)に書き換えられている。

 岡村氏は、字を変更した「銅鏡・紺文」いとへんを「銅鏡と絹織物」と訳して、魏が倭に銅鏡や絹織物を与えていることを示している、と言う。一方、元の「銅鏡・鉗文に止め」かねへんは、安本美典氏によれば、「特別な制約をつけずに銅鏡を」のように訳すことができる。(多少粗悪な鏡も、大きな鏡も小さな鏡も)特別な制約をつけずに銅鏡を倭国に与えた、ということであれば、「特別に注文して作った鏡」ということに反してしまう。

 山口博氏がこの『全唐文』の奏吐蕃交馬事宜状の記事を根拠にして、「三角縁神獣鏡は魏が倭に贈るために、特別に注文して作った鏡である」という説(『特鋳説』)を2011年に週刊誌で発表した。確かに、岡村氏のように字を変えた方が、山口氏の説に説得力が増すと思われる。しかし、原文を変えてしまうことは許されることなのだろうか。早速、次ページのp.225では、山口氏の説を紹介し、最後に、「…魏が倭王に贈った「銅鏡百枚」は…三角縁神獣鏡をおいてほかにはみあたらない。」と自分の結論を性急に述べる。

 

 この本は「惜しい本」であり、できれば改訂版を出してもらいたいと思う。それが叶わないなら、せめて、岩波書店の方からp.214の5行目の「出土」を「採取」に、p.224の8行目の「紺」を「鉗」に直す正誤表をつけて販売してくれるといいな、と思った。「新書」であるから、高校生なども読むだろう。解釈に大きく作用する、原文から(意図的に?)変えられた字がそのままで販売されることは許されないと思うのだが…。

  思いのほか長くなったので、この本に関してはこの辺で切り上げる。ただ、漢の時代の銅鏡にこれほど豊富な知識をもつ著者が、禁じ手を使ってまで示そうとする説明がこの程度であることは、逆に言えば、三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に贈られた鏡でないことを明確に証明しているようなものである、という認識に私たちは改めて達した。

 

 この文書全体を2019年12月にアップしたときには、ここから、次の節(3)魏志倭人伝での1里は約76m に移った。しかし、最近になって、邪馬台国近畿説にとって根幹をなす三角縁神獣鏡の製作地について決定的なことを示す本が出版されていることを知った。この本は2016年1月に発行されているが、決定的なことが書かれている割には、余り知られていないように思われる。そのため、(2-2)と新たな小節を設けて、この本の読後感想を記す。卑弥呼の鏡』(-鉛同位体比チャートが示す真実-藤本昇著、海鳥社刊)である。次の(2-2)は卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想である。

 

   魏志倭人伝レポート

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   日本古代史についての考察

(2ー2)『卑弥呼の鏡』(藤本昇著)の読後感想

卑弥呼の鏡』ー鉛同位体比チャートが示す真実ー

 

 『季刊邪馬台国』特任顧問の豊田滋通さんが「よもやま邪馬台国」というタイトルの新聞の連載記事を書かれている。その記事の紹介で、この本に出会うことができた。150ページ程の小冊子だが、今までの青銅鏡の議論を根本的に変えてしまう力作であるように思われる。

 

 以下の内容は、ほとんどこの本の紹介である。多くの文献に当たられ、整理した結論に到った資料をその都度示している的確な文に対して、私たちの冗長な文をつけ加えるのは申し訳なく感じる。高価な本ではないので、是非直接読まれることをお勧めしたい。

 著者の藤本氏は農学部出身で福岡市役所に入り、公害防止・環境アセスメントに従事し、平成元年、下水道の高度処理で窒素・リンを肥料として回収するMAP法を世界で始めて開発し、博多湾のクリーン化に貢献したとある。環境科学関係の技術者だろうか。

 

青銅は銅と錫と鉛の合金である。鉛には204Pb、206Pb、207Pb、208Pb の安定した4種類の同位体がある。1980年代から馬淵久夫氏や平尾良光氏らの努力により、銅鐸や三角縁神獣鏡などの銅鏡の鉛同位体比の測定データが報告されるようになってきた。藤本氏は前から古代史にも興味を持っていて、青銅に含まれる鉛同位体比についての報告を興味深く眺めていたが、そのデータが考古学者の中で十分に生かされていないのではないかと考えていた。従来は208Pb/206Pbの値を鉛同位体比の鉛値と呼び、他の値は余り考慮されていなかったようだ。      

             f:id:kodaishi:20210907231814j:plain(同書p.31)

 あるきっかけから、右軸に207Pb/206Pbの値、左軸に208Pb/206Pbの値、上軸に207Pb/204Pbの値、下軸に206Pb/204Pbの値をプロットし、四角形の図を描く4軸レーダーチャートを作ってみた。すると見事にこの図が鉛同位体比の違いを表している。鉛同位体比は地域や鉱山によって微妙に異なるが、その違いから原料産地の推定に利用できる。客観的なデータから導き出された4軸レーダーチャートより様々なことが導き出された、というのがこの本の内容である。以下各章の内容を順に見ていこう。

 

<序章 卑弥呼の鏡と三角縁神獣鏡

 

 正始元年(240年)魏王は、卑弥呼に金印紫綬の他、絹織物、金八両、五尺刀、二口、銅鏡百枚を授けた、と魏志倭人伝に書かれている。この銅鏡百枚が後世に「卑弥呼の鏡」と呼ばれるようになった。日本で出土する銅鏡としては、三角縁神獣鏡と呼ばれるものが一番多い。京都大学の富岡謙蔵氏が最初に、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であると唱えたとされている。次いで、小林行雄氏は卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡であり、ヤマト朝廷がその支配を確立するために使い、全国にこの鏡を配布したとする説を発表した。この鏡は、邪馬台国近畿説の根幹をなすものになっていった。

 しかし、この鏡は4世紀以降に作られた古墳からしか出てこなかった。卑弥呼の時代と半世紀以上隔たっている。さらに、三角縁神獣鏡は中国から贈られたとしても、肝心の中国からは1枚も出土していない。

 

 この弱点を補強するために、いろいろな説が出された。伝世鏡説、特鋳鏡説、楽浪鏡説、紀年銘鏡説、長方形鈕口説…。この様々な説については、第3章で詳しく論じる。

 また、議論の出発点として、三角縁神獣鏡の特徴をまとめている。さらに、岡村秀典氏がその本の中で示す漢代の鏡の年代と分類を載せている。ただし、この表を見るとき、魏や晋の時代にも復古鏡や仿古鏡が作られ、倭国でも踏み返し鏡が盛んに作られたことへの注意喚起をしている。

 

<1章 鉛同位体比と三角縁神獣鏡

 

 まず、福岡県弥永原遺跡の小型仿製鏡、平原遺跡の内行花文鏡、方格規矩鏡、神戸市桜ヶ丘町出土の銅鐸、須玖岡本遺跡の草葉文鏡のチャートを示す。すべて横拡がりの同じ図形(Aチャートと呼ぼう)を示している。

 次に、岡村秀典氏が畿内出土の伝世鏡として天理市の大和天神山古墳の鏡を挙げているので、この漢鏡と呼ばれている鏡のチャートを見ていく。岡村氏が漢鏡5期に分類する2枚の天神山規矩鏡は、上のAチャートと同じチャートになる。ところが、同じ5期の天神山内行花文鏡は縦に長いチャート(Bチャートと呼ぼう)で全く異なる。漢鏡6期とされている大牟田市の潜塚古墳の内行花文鏡のチャートもこの縦長のBチャートと同じ形になる。ところが、岡村氏が漢鏡7期に分類する天神山古墳の獣帯鏡のチャートは、もっと別の形になる。(次に述べる三角縁神獣鏡と同じ)同じ期とされる漢鏡でも、全く異なる鉱山の原料を使っていることが4軸レーダーチャートによって明確に示されることに驚かされる。

 

 三角縁神獣鏡のチャートに移る。馬淵氏らによって、この鏡の鉛値は2.1180~2.1400になることが分かっている。舶載鏡とされているもの、仿製鏡とされているもののチャートを見ると、すべて同じ平行四辺形のような図になる。明らかに魏製の鏡、明らかに呉製の鏡とされるもののチャートを一緒に並べてみる。すると中国製の2つの鏡のチャートは縦長のBチャートと似た形となり、三角縁神獣鏡のチャートとは全く異なっている。

 続いて、大和天神山古墳から出土した23枚の銅鏡のチャートをすべて調べてみる。すると3つのグループに分けることができた。これらのチャートから、天神山古墳の鏡は平原古墳の鏡と三角縁神獣鏡の中間に位置していることが分かる。さらに、3世紀中頃から後半に作られたと思われる仿製鏡のデータも調べ、鏡の編年表を作っている。縦軸に西暦の年、横軸に208Pb/206Pbの鉛値を取った表である。

 

 この編年表から、三角縁神獣鏡は4世紀前後の倭製鏡の中から生れていることが分かる。また、従来、出来栄えがよいものが舶載鏡、見た目が悪いものは仿製鏡という風に、舶載鏡と仿製鏡の明確な基準がないまま区分されてきた。しかし、チャートを見るとほとんど重なり、区別がないことがハッキリした。橿原考古学研究所の水野氏が3次元計測の分析結果から、「三角縁神獣鏡は全て中国製か、全て日本製かのいずれかの可能性が高い」と述べている。異なる科学機器による分析結果からも同じ結論に達している。

 最後に、三角縁神獣鏡は倭製鏡であることが分かったが、どこの鉱山から鉛を取ったかが考察されている。チャートが岐阜県神岡鉱山の円山坑の鉛のものときれいに重なっている。中国の鉱山で鉛同位体比が最も近い水口山(湖南省)のチャートと比べたが、縦長で全く別のものであることが確認できる。

 

<2章 和風文化の発生と三角縁神獣鏡

 

 中国の考古学者王仲殊氏は、京都大学で樋口隆康氏から多くの三角縁神獣鏡を見せてもらって、「中国の銅鏡とはあまりに違うということに気づきました。つまり、作風が全然違っています。」と述べた。森下章司氏によれば、漢代の中国鏡には、基本的に信仰、思想的な裏付けのある図柄が採用され、紋様には一つの定式が存在し、それらの組み合わせにも約束事があるという。そして時間とともにその紋様には変化が生じるが、それは一定の範疇に収まるということである。一方で、倭鏡は、図柄の共有性が薄く、また時間差、系統差、工人差が極めて大きく、この紋様の多様性に倭鏡の大きな特徴がある、とのことである。

 

 壹与が晋に使いを送った266年から413年に東晋へ遺使するまでの約150年間、倭は中国との公式な交流を行っていない。この間に、前方後円墳などの日本独自の墓、三種の神器を副葬する葬儀、庄内式土器から布留式土器の普及、九州北部に偏在していた鉄器や絹織物の他地方への普及などが生じて、和風文化が発生しているとする。社会に高揚するエネルギーは鏡の世界における中国鏡の縛りを解き放ち、紋様の定式を飛び出す鏡が続々と作られるようになる。日本独自の図柄、紋様形式の多様化、紋様の配置換えによるバリエーションの多様化が生じる。その流れの中に三角縁神獣鏡がある。

 

 大和天神山古墳からは23枚もの鏡が出土しているが、その中に三角縁神獣鏡は1枚もない。天神山古墳鏡は前記倭製鏡のモデルになっていることに特別な存在価値があるのではないか、と藤本氏は述べる。3世紀後半の天神山遺跡の後、4世紀の古墳から続々と三角縁神獣鏡が出土する。

 

 この章の初めに、壹与の後の邪馬台国は東進して、中央集権的なヤマト朝として発展していったというような記述がある。確かに、4世紀以降近畿地方前方後円墳が沢山作られ、銅鏡、鉄製品や絹織物などが大量に出土しており、近畿地方に強い権力が出来てくると考えられる。ただ、これを簡単に邪馬台国が東進したものとしていいだろうか。古事記日本書紀では、大和朝廷の初代は神武天皇となっているが、神武天皇卑弥呼や壹与の関係はどうなっているのだろうか。この点については、この本の主旨から離れてしまうので、簡単に指摘するに留めたい。

 

<3章 卑弥呼の鏡説の検証>

                                                      f:id:kodaishi:20210907233045j:plain(同書p.60)

 三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡だとする説を、紀年銘鏡説、伝世鏡説、特鋳鏡説、楽浪鏡説、保険説、長方形鈕口説と名前をつけて分類し、その説を詳細に検討して、不合理性を示している。

 

(1) 紀年銘鏡説

 景初2年(238年)6月卑弥呼使節団を魏に送り、正始元年(240年)魏は金印や銅鏡百枚を倭国に渡す、と魏志倭人伝に書かれている。この年号「景初」、「正始」を記した三角縁神獣鏡があることが、この鏡が卑弥呼の鏡である根拠とされた。

紀年銘のある三角縁神獣鏡として、正始元年鏡が3枚、景初3年鏡が1枚見つかっている。島根県兵庫県群馬県山口県と奈良からかなり離れたしかも小さな古墳から出土していて、魏からもらった国宝級の大事な鏡には見えない。しかも正始元年鏡は破損していて「正始元年」の字がまともに残るものがない。日本で出土した紀年銘鏡は13枚あるが、年号が抜けているものは4枚だけで、その内の3枚が正始元年鏡である。この3枚の正始元年鏡のチャートを見ると、3枚ともバラバラで重ならず、同じ原料で作られていない。

 

 大阪大学の都出比呂志氏は著書の中で「これまで発見された三角縁神獣鏡のうち第Ⅰ群の約四十面、すなわち、これまでの出土総数の少なくとも一割ほどが景初三年の卑弥呼の遣使で獲得した『銅鏡百枚』の主要部分をなすといえます」と述べ、日本出土の中国の紀年銘鏡一覧の表を著書の中で掲げている。この表の中で、魏の紀年銘鏡である可能性のあるものは9枚あり、その中の1枚には「願氏作竟」とあり、残り7枚には「陳氏作竟」とある。その銘文には、私人の陳が作り、この鏡をもてば、役人なら出世し、母なら子孫に恵まれ、長生きできる、というようなことしか書いてない。「親魏倭王として汝をいとおしむ。国中の人にそのことを広く知らしめよ。」という魏王の詔書の気配は微塵もない。また、この表の中には、「景初四年」と書かれた2枚の斜縁盤龍鏡が含まれているが、「景初四年」は魏ではあり得ず、何と、都出氏はこの2枚も中国の紀年銘鏡としている。

 

(2) 伝世鏡説

 一般に、製作後通常以上に長期に渡って使用したり保持したりしたものを伝世品と言うが、古墳に副葬されている鏡のうち、長い間使用されるか保持された後に埋葬された鏡が伝世鏡と呼ばれるようになった。最初、高松市の古墳群から出土した方格規矩鏡の背面の文様の摩滅が長期間の使用による手ずれと判断され、梅原末治氏により伝世鏡とされたようだ。卑弥呼は正始元年(240年)魏から銅鏡百枚を受け取る。しかし、三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳からしか出土しない。この約半世紀以上の時間的ずれを解決するために伝世鏡の考えが使われるようになり、これを伝世鏡説と言う。

 

 伝世鏡論を強く主著しているのは、京都大学の考古学者岡村秀典氏である。その著書『三角縁神獣鏡の時代』を藤本氏が読んだときの感想が書かれている。「…期待外れであった。読んでも読んでもタイトルの三角縁神獣鏡はおろか、卑弥呼もなかなか出てこない。出てくるのは漢鏡がどうのこうの、伝世鏡があちこちから出ているよということばかりで、三角縁神獣鏡卑弥呼は終わりに近づいた頃やっと出てくる。三、四回読んで、この本の言わんとすることがやっとわかった。つまり、あちこちから出土する漢鏡は伝世したものが多いから、同じ漢鏡八期の三角縁神獣鏡も伝世鏡ですよ、としっかり読者に「刷り込み」をするためと得心した。」私たちが岡村氏の『鏡が語る古代史』を読んだときと同じ様な感想だな、と思った。

 

 岡村氏は『三角縁神獣鏡の時代』で12枚の伝世鏡を揚げている。その中で、鉛値が示されている4つはその数値から、前漢鏡と判断できるとしている。しかし、第1章で見たように、この鉛値の範囲には、前漢鏡や銅鐸や3世紀の平原遺跡の仿製鏡など弥生後期の銅製品が入っており、前漢鏡とする断定は危険であると藤本氏は諫める。また、ほとんどが十数メートル程度の小さな墳墓から出土しており、径10cm以下の小型鏡で、文様が不鮮明であるとする。これらの鏡は、仿製鏡、踏み返し鏡である可能性が高いと藤本氏は指摘する。

 

 岡村氏は上の書の中で楽浪、韓、九州、九州以東の四地域について、漢鏡二期から七期までの漢鏡の出土数のグラフを示している。弥生後期とされる200年まで、圧倒的に九州から出土していて、九州以東ではほんの少ししか出土がない。ところが、岡村氏の表を見ると、三期後半(前1世紀前半から中頃)から九州以東が九州に劣らない数となっており、六期(2世紀前半)以降は九州以東が九州を凌駕している。

 考古学の常識では考えられないこの表はどうして作られたのか。   

                    f:id:kodaishi:20210907233533j:plain(同書p.97)

 漢鏡は魏・晋の時代になっても復古鏡(仿古鏡)として、延々と作られ続けた。倭国でも踏み返し鏡などが作られていて、古墳から出土する漢鏡は、その鏡の型式が属する時期に作られたのではないものが多く存在している。このことは、今では常識となっている。

 実際に出土したのが4世紀の古墳からなのに、その鏡の見かけの型式が作られた時期を鏡の時期としてしまえば、いくらでも古い鏡が出土することになる。

 

 寺澤薫氏は次のように言う。「こうした漢鏡の列島における実際の出土時期を無視し、ここの資料の仿古、踏み返しの可能性についても等閑に付した上での『見かけ』の型式を優先した時期別分布をベースとした議論は、古くは川西宏幸氏『銅鐸の埋納と鏡の伝世』をはじめ、伝世鏡を採る研究者によって一般的には使われてきた手法であり、伝世鏡論は成立しがたい」(「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論(上)(下)」2005年)この表では、漢鏡八期が除かれているが、これも岡村氏の恣意が働いているためではないかと、藤本氏は指摘する。

岡村氏が書いた『鏡が語る古代史』は「自説を守るため、データ改ざんもいとわず」「これはもはや研究不正だ」と、安本美典氏が烈しく糾弾している。同じ様なことが、岡村著『三角縁神獣鏡の時代』でも起きているということなのだろうか。

 

 21世紀になって、伝世鏡をデジタルマイクロスコープで見た新たな研究が発表されている。それによると、手ずれ等により文様などが不鮮明になることはなく、鋳造時の鋳上がった状態がそのまま残っていて、踏み返し鏡である可能性が高い、とのことである。一般に、伝世品は存在するが、古墳に埋葬された鏡を伝世鏡とする議論は成立しない。

 

(3) 特鋳鏡説

 三角縁神獣鏡は中国からは一枚も出土していない。魏王は卑弥呼のために特別に三角縁神獣鏡を作った。だから中国から一枚も出土していないのだ、という論法である。

岡村氏は、卑弥呼のために全土から洛陽に工人を動員し、漢鏡をモデルに作ったと述べているが、根拠は示していない。

 

 これは様々な観点から認めることができない。第一にこの時代は魏が銅不足に悩まされた時代であり、卑弥呼のためにわざわざ銅鏡を造る余裕はない。第二に、最近見つかった曹操の墓からは鉄鏡一枚だけが出土したように、魏は薄葬令(陵墓に金銀などの華美なものの埋葬を禁止)を発していたことが揚げられる。また、日本での三角縁神獣鏡の出土数は現在500を超え、近いうちに1000を超えるのではないかと言われており、また、その文様の変化も著しく変化している。そのため、かなり長期に渡って三角縁神獣鏡が作られたことになるが、魏自身が265年には完全消滅し晋国になっている。それなのに、248年前後で死んだ卑弥呼のために延々と三角縁神獣鏡を作り続けたのだろうか。

 中国の王仲殊は著書の中で次のように言う。「魏の皇帝は、他の外国の君主のために銅鏡を特鋳していないのに、なぜ卑弥呼のためだけに特鋳したのだろうか。…かりに特鋳が行われたとしても、その際、見本がなくてはどうしようもあるまい。中国の職人は、三角縁神獣鏡をこれまで中国で鋳造したことはなかった。…どうして、突如何の拠りどころもなくして、このような鏡の大量鋳造ができようか」

 

(4) 楽浪鏡説

 三角縁神獣鏡は中国から出土しないので、中国から倭国への中継基地であった楽浪郡でこの鏡が作られたとする説である。楽浪郡からは銅鏡が五、六百枚出土しているが、三角縁神獣鏡は一枚も出ていない。朝鮮族倭人と違って鏡にはほとんど興味を示さない。卑弥呼使節を送った年に、公孫淵は魏によって滅ぼされ、楽浪郡の人口は極端に減少している。このような中で、魏に言われて楽浪郡で鏡が作られることがあっただろうか。藤本氏は他の理由も挙げているが、これで十分だろう。

 

(5) 保険説

 卑弥呼の鏡のすべてが三角縁神獣鏡であるとする説が多い。しかし、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だけとは限らず、その他の前漢鏡・後漢鏡や紀年銘鏡も含むという説である。万が一、三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡でなかったときの備えとして考え出された説であるとして、藤本氏が名付けられた。

 

 数年前に亡くなられた樋口隆康氏は、活動期の後半には、卑弥呼の鏡は三角縁神獣鏡だけとは限らないような発言をされている。都出氏も、五百枚以上ある三角縁神獣鏡のうち第一期の舶載鏡や紀年銘鏡の約五十枚に限定して卑弥呼の鏡とし、他の三角縁神獣鏡は除外しているから、保険説であると言える。また、自分が特鋳鏡説であることを明言している。しかし、同氏は不足する五十枚等については言及していない。

 

 中国の紀年銘鏡について2世紀後半から3世紀までの分を車崎正彦氏がまとめている。それによれば、魏国では青龍三年(235年)まで全く紀年銘鏡が作られていない。青龍三年(235年)以降の紀年銘鏡はいずれも日本でしか出土しておらず、魏鏡ではないことを、これまでの議論で確認した。都出氏は、魏では鏡を与える習慣があったと言う。しかし、肝心の紀年銘鏡が魏では作られていない。

 

車崎氏によるまとめの中には、出土地不詳の「正始五年」鏡が一枚ある。特鋳鏡論者の田中琢氏は岡村氏に『鏡が語る古代史』を書くように勧めた(同書)とあるが、この「正始五年」鏡の魏鏡説を主張している。これに対して、王仲殊氏は次のように述べている。「…当時(20世紀初頭)の北京の骨董屋の間では、古鏡を偽造することが流行っていた。とりわけ…紀年鏡の偽造には力が入れられた。骨董屋から買った出処不明の一枚の異式鏡をもって、論証の重要な根拠とするのはあまり妥当ではないというのが私の感想です。」

 

(6) 長方形鈕口説

 銅鏡では、壁に掛けたり、手に持つためにヒモを通す鈕口(鈕はつまみ)が必要である。角ばっていてはヒモが切れやすいので、鈕口は丸いものや半円状のものがほとんどである。福永伸哉氏は、日本でだけ出土する三角縁神獣鏡の鈕口はほとんどが長方形か方形であることを見出した。

 

 福永氏は、中国での長方形の鈕口が三角縁神獣鏡の故郷と考え、中国での長方形の鈕口を考察する。彼の文献の中で、長方形の鈕口は中国でもごくまれで少数派であり、例外的と書いている。しかし、同時にその著書の中で、魏の紀年鏡とその鈕口形態を「円」、「半円」、「長方」と区別した表を載せているが、何と鈕口形態が「長方」となっているほとんどの資料が三角縁神獣鏡であり、魏ではあり得ない景初四年鏡2枚もその資料の中に入れている。三角縁神獣鏡は中国産であることを示そうとして、中国の紀年鏡の鈕口の表の資料の中に大量の三角縁神獣鏡を含めたのではトートロジーと言わざるを得ない。岡村氏張りの資料の作り方である。

 

 福永氏はその著書の中で「画文帯神獣鏡を最上位の威信財に据えた三世紀前半の初期邪馬台国政権から、三角縁神獣鏡を権威の切り札とした三世紀中葉の初期大和政権への連続的展開という流れで、古墳時代成立期の政治的動きを理解できるという見通しを示す」と述べる。

 しかし、三世紀中葉の初期大和政権はどこにあると言うのか。ヤマトや近畿の三世紀中葉の墓や遺跡からは漢鏡や三角縁神獣鏡はごく少量しか出ていない。また、三角縁神獣鏡は10mそこそこの小さな古墳からも複数枚出てきており、全国では500枚を超え、1000枚出てくるとする学者もいる。とても権威の象徴とはいえないだろう。

 実際、33枚の三角縁神獣鏡を出土した黒塚古墳では、死者の頭部にあったのは画文帯神獣鏡で、33枚の三角縁神獣鏡は死者の両側に、しかも棺外に立て掛けて置かれていた。

 

(7) 漢鏡説

 卑弥呼の鏡は、三角縁神獣鏡でないことはハッキリした。卑弥呼の鏡は、当時、魏の国にあった鏡であろう。中国の考古学者徐氏は、その頃魏の国で流行した鏡として、8つの型の鏡を挙げ、有力なのは方格規矩鏡、内行花文(蝙蝠鈕座)、き鳳鏡、獣首鏡、位至三公鏡の5種類としている。

 安本美典氏によれば、これらの漢鏡は福岡県を中心に九州北部、岡山県兵庫県大阪府京都府などから出土していて、奈良県はわずか2枚であり、邪馬台国の時代には奈良県からは出土していないとのことである。

卑弥呼の鏡の正体とは、こんなところであろうとする。

 

<第4章 三角縁神獣鏡は国産鏡である>

 

 これまでも十分に明らかにしてきたように、三角縁神獣鏡は国産鏡である。中国の考古学者王仲殊氏は1998年の福岡で開催されたシンポジウムで、「…日本の先生方も、もう中国で探す必要はない。…中国には考古学者はたくさんいますが、何が三角縁神獣鏡か知らない人がいっぱいるんです。なぜかというと、中国にはないからです。」と言い切っている。

王仲殊氏は、十分な理由を八点挙げて、三角縁神獣鏡は中国鏡ではなく、平縁の神獣鏡の内区と外区とを参考に作られており、これら二つの鏡が作られていたのは呉の国であるから、呉の人が倭に渡来して作ったものである、としている。

王氏の説に対する反論もある。だが、王氏の説に比べて根拠が弱く、王氏の説は可能性が高いと藤本氏は締めくくっている。

 

 邪馬台国はどこにあったか、考古学会では邪馬台国近畿説が99%と豪語されるようだ。藤本昇氏のこの本『卑弥呼の鏡』は、強力にこの流れを変えることができる力を有しているのではないかと考えた。私たちの拙い文ではなく、新たな判定法を確立し、多くの資料に当たり結論を出されているこの本に直接、多くの人々が接せられることを願っている。その紹介の意味で、長い読後感想を書いた。

 

<最後に>

 

 銅鏡や三角縁神獣鏡に関する本は本当に沢山出版されている。その中で、ほとんどデータベースの表でもある『日本列島出土鏡集成』(2016年12月発行、下垣仁志著、同成社刊)が発刊されている。様々に展開される説に、確実な共通のデータを提供しようとするものだろう。表の中で6000を越える鏡に「舶」と「倭」の別を記し、舶載鏡か倭製鏡かの区別をしている。この本のデータベースの後に記された「論考 集成の概要と活用」では、「なお、出土総数に注目が集まる三角縁神獣鏡については、中国製三角縁神獣鏡が446面、「仿製」三角縁神獣鏡が132(真贋の疑わしい資料をふくめると139面)、舶倭合わせて578面(真贋の疑わしい資料をふくめると585面)に達している。」と述べている。

 

 藤本昇氏の鉛同位体比についての客観的なデータからの考察では、三角縁神獣鏡は舶載鏡と倭製鏡の区別なく、全て国産であることが示され、すべて「倭」である。藤本氏の見解を認めるなら、このデータベースは全面的な書き直しが必要になる。これを認めないなら、しっかりと反論すべきだろう。

 最後に「他方、研究が進むにつれ、新たな情報や鏡じたいの属性が重要になってくるだろう。たとえば、同位体や微量元素の数値、鈕孔・断面・厚さなどの形態に関する諸情報などを、随時追加してゆくことが望ましい。本書の刊行後も、データの増補・修正を継続する作業を自身に課して本論の結びとしたい。」と下垣氏は述べられている。

 

 このような大掛かりなデータベースを作られたことには、本当に頭が下がる思いがする。このデータベースはExcelAccessか何かで作られているだろうから、是非、4軸のレーダーチャートで使う4種類の鉛同位体比の項目を追加してほしい。また、4つの数値が分かれば自動的に4軸のレーダーチャートを図示するソフトは簡単に作れると思われる。そうして、今までの曖昧なまま判断されてきた「舶」と「倭」の区別の横の項目に、レーダーチャートから判断された客観的な裏づけを持つ「舶」と「倭」の区別を入れてほしい。そうすることによって、誤まった議論を離れて、古代の日本の姿を明瞭に示す鏡に関する議論を展開できるようになるのではないか。

 場合によっては、このような客観的なデータから得られたデータベースを藤本氏と考古学者の共同研究という形で作ることも可能と思われる。そのような歴史学者・考古学者の出現を期待したい。

 

 歴史学は総合的な学問だから文献の研究だけでなく、自然科学を含む様々な分野の知識を生かしていく必要がある。また、藤本氏のような考古学の専門外の方に教えていただくことが、今後も多くあるのではないだろうか。懐が深い歴史学・考古学であってほしいと願うものである。

 

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  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

  

(3) 魏志倭人伝での1里は約76m

 昔、高校での授業で、魏志倭人伝に書いた通りに進むとすると、1里=434mだから、行程は日本列島からはるかに飛び出てしまう。従って、魏志倭人伝の記述は途方もないものであり、そのままでは全く根拠にすることができない、というように習った記憶がある。
 それに対して、③『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日文庫1971年刊)の記述は衝撃的であった。漢・唐の長里に対して、魏・西晋の短里があり、魏志倭人伝はこの短里に基づいて記述されているとし、1短里=75m~90mと述べる。また、「邪馬壹国」の「壹」がどの様な経過を辿って「臺」と変化し、「邪馬台国」と言われる様になったのかの説明や「島めぐり」読法などによる記述は、すごく説得力があったことを記憶している。

                   f:id:kodaishi:20191226201541j:plain(①p.224の図7-1より)

 魏志倭人伝では狗邪韓国から対馬まで千余里と述べられている。朝鮮半島から対馬までの実際の距離は約60Km程度だから、千里で割り算をすれば、1里≒60mとなる。魏志韓伝では、韓は方4千里と述べられている。朝鮮半島の東西の幅を300Kmとすれば、これも割り算をして、1里≒75mとなる。帯方郡-狗邪韓国-対海国-一大国-末盧国の地図を見ながら魏志倭人伝を読めば、1里=434mという解釈はどう見てもおかしいと思うのだが、古田氏の③『「邪馬台国」はなかった』を読んだ後、このようなことすら据え置かれて魏志倭人伝が解釈されてきたかと思って、既存の日本古代史に対して不信感を強く感じたことを覚えている。
 古田氏は言う。従来、長里は中国の一貫した里程であると考えられてきたが、魏・西晋朝公認の短里(1里=77m)がある。「倭人伝の里単位は韓伝と同じであり、韓伝は高句麗伝の里単位と同じであり、そしてさらには、本伝の帝紀に出てくる里単位であるということになります。」(④『倭人伝を徹底して読む』p.148)
 これに対して、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で孫氏は、「魏・晋里は1里=434.16mであり、三国志の里単位は、韓伝と倭人伝だけ例外としてすべてこの魏・晋里と一致し、多くの学者達によって考証済みだ。」(②p.32)と反論する。更に、魏志で韓伝と倭人伝のみ5倍の誇大表示されていることには深い訳があるとし、『三国志』の著者の陳寿西晋を築いた司馬懿(宣帝)との関係などから説明している。


 佃收氏は古田氏を支持し、『邪馬一国の証明』(古田武彦著、角川文庫)の巻末に載せられている谷本茂氏の論文「魏志倭人伝と短里『周髀算径』の里単位」によって周の時代に確かに短里があったことが立証されたとし、このことが示されたのは30年以上前のことだ、と指摘する。
 安本美典氏は⑧『邪馬台国ハンドブック』の中で次のように述べている。「三国志の中には、中国本土内の距離を、「里数」で記している箇所が何箇所もある。中国本土内の二地点間の距離の記載を、地図上の実測地と比較してみると、1里は、ほぼ400m強となる。これについては、篠原俊次が、『計量史研究』という雑誌に発表された極めて詳細な研究がある。(当時は、中国本土内でも、1里は100m弱であったとする古田武彦の説があるが、これは、実測地と、ほとんど合致していない。)白鳥庫吉も、『魏志』や『呉志』などにあげられた「里数」について、いくつかの考察をし、それらが、だいたい標準里(1里=400m強)に合致していることを論じている(「倭女王卑弥呼考」)。」として、古田説を否定している。
 木佐氏は、①『かくも明快な魏志倭人伝の第3章を短里と長里と題し、詳しく述べている。「魏志倭人伝を含む東夷伝の「里数」は、基本的に「歴史記述」ではなく、西晋の読者への「現状記述」という形で用いられており、西晋の正式な里単位が「短里」であったことを示している。」(p.103)とする。また、『魏志』明帝紀の記事について、対立する山尾幸久氏と古田武彦氏の説を詳しく検討し、山尾氏の説に賛成している。更に、「真理文」と「出来事文」の違いについて説明し、「真理文」については、西晋の正式な認識であるから短里で書かれている、とする。ところが「出来事文」になると過去の出来事だから、資料にあったすべての長里を短里に直すのは難しく、特に「引用文」については、長里のままで記述するのが自然である、と述べる。そして、『三国志』は東夷伝序文に強調されているように、魏代から西晋代にかけて、倭国を中心として東夷に対する新たな認識が広がったことを、直前の『漢書』の欠を補うものとして誇っているのが特徴であり、したがって「真理文」としての里程記事も東夷伝には集中的に出てくる、とする。それが「なぜ三国志では、長里と短里が混在し、魏志倭人伝では短里だけが出てくるのか」に対する理由ではないか、と説明している。尚、この本では、『三国志』の中で短里によって書かれている記事、長里によって書かれている記事をともに多く例示し、短里、長里の一方だけで記述していることはないことを確認できる。
 何人かの説を並べてみた。ただ、どの論者も、魏志倭人伝に出てくる記事の里数の比率については正確である、という認識である。このことから、1里≒76mと考えることが妥当であると考える。

 

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(4) 景初2年が正しい

 魏志倭人伝の後半の部分で、魏と倭国の交渉の記録が示される。景初2年(西暦238年)6月倭女王は大夫難升米を郡に詣らせ、魏に朝貢を願い出た、と書かれている。ところが、前に触れたように、この事績の年を、『日本書紀神功皇后39年の記事では景初3年(239年)としている。また、『梁書』倭伝でも、景初3年と記している。孫氏は次のように述べる。「…この時期魏は、まだ帯方郡を接収していない。景初年間(237~239年)に魏は、遠征軍を派遣し、遼東半島軍閥公孫淵を倒し、帯方郡を奪い、朝鮮半島に進出した。「魏志公孫淵伝」では公孫淵の死は景初2年8月23日だ。したがって、公孫淵帯方郡を支配している景初2年6月に、倭国の使者が魏の帯方郡朝貢を願い出ることは起こり得ない。…したがって、本書は景初3年6月が正しいとする。西暦239年だ。」(②p.54)安本美典氏も同様な理由で景初3年説であり、景初3年が通説になっていた。


 これに対して、古田武彦氏は③『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房p.92~)の中で、魏志倭人伝に書かれているように、景初2年が正しいことを主張した。原文は、文字を変えないことが原則であるが、まず古田氏の見解を見てみよう。
 景初3年説が通説になった経緯について、古田氏は次のように述べる。(1)新井白石が、(上の孫氏と同じように考え、)魏が公孫淵を討った景初2年8月以降であるとした。(2)松下見林が、日本書紀に景初3年とあるからとした。(3)『晋書』はそうではないが、『梁書』の著書の姚思廉はやはり(上と同じように考え、)「魏の景初三年公孫淵誅せられて後に至り、卑弥呼始めて使いを遣わして朝貢す」(『梁書東夷伝倭伝)と記している。(4)内藤湖南は(やはり上と同じように考え、)更に『梁書』に景初3年とあるからとした。


 それに続いて、景初2年が正しいとする理由を次のように述べている。(1)景初2年6月に卑弥呼の使いが帯方郡へ行った時、帯方郡の太守劉夏は役人を遣わし京都まで送っている。これは特別な計らいであり、公孫淵と戦争中だったからである。戦争は景初2年8月に終わっているから、もし卑弥呼朝貢が景初3年6月ならば戦争は既に終わっており、そのような扱いはしなかった。(2)卑弥呼の奉献物は男生口4人、女生口6人、班布2匹2条匹である。余りに貧弱である。使いの者も2名と少ない。これは戦争中だったからである。(3)その年(238年)12月に、詔書して、親魏倭王の金印紫綬や数々の下賜品を「皆装封して使人の難升米・牛利に付し、還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家、汝を哀れむを知らしむべし」とある。ところが、難升米等は手ぶらで帰ってきている。送られてきたのは翌々年の正始元年(240年)である。なぜこのようになったのか。それは、景初2年(238年)12月に明帝が急病になり、翌景初3年(239年)正月に死去したから、諸行事は1年間中止されたことによる。詔書には下賜品について書かれているが実際には難升米等には渡されなかったのである。このように考えると、卑弥呼朝貢詔書や下賜品の拝仮についての疑問が解けるが、景初3年としたなら、謎は解決されないとする。
 更に、魏志八・二公孫伝の記事から、景初2年6月には魏は水陸両路から遼東の公孫淵の城下に殺到し、海上を制圧して、大勢は決していることが分かる。卑弥呼朝貢は、動向を見極めた素早い「戦時遣使」であり、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にある、とする。


 佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.361~)で、『三国志』から引用して次の様に述べ、古田説を支持する。「景初中、明帝密遣帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣越海定二郡」(『三国志』韓伝)
(訳)<景初中(237~239年)に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕、楽浪郡太守鮮于嗣を遣わし、海を越え、二郡を定める。>景初中に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。景初2年8月に公孫淵は討伐されるから、この「景初中」は景初2年8月より前である。一方、魏志倭人伝には、景初2年6月倭女王は大夫難升米等を遣わし帯方郡に詣で、帯方郡の太守劉夏は吏を遣わし、将に送りて京都に詣る、と書かれている。また、使者が帰国する時も、其年(景初2年)12月帯方郡の太守劉夏は使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送る、と書かれている。この記事から、景初2年6月から12月まで帯方郡太守は劉夏であることが分かる。そうすると、帯方郡太守劉昕は、劉夏の前の太守ということになり、景初2年6月には劉夏が太守であるから、景初2年6月より前に太守を交替している。明帝は、景初2年6月より前に太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。佃氏が指摘する『三国志』の記事も、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にあることを示している。古田氏や佃氏の説の方が筋が通っており、私たちも景初2年(238年)が正しいと考える。

 

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【Ⅲ】 個々の論点

 さて、以上の考察に続いて、個々の論点について考えてみよう。

(1) 対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?

 

 魏志倭人伝で、対海国(対馬国)は「方可四百餘里」と書かれている。現在は、二つの島に分かれているが、当時はつながった一つの島であった。名前の呼び方が紛らわしいので、他の本と同じように、下島という名の北側の島は上県郡で、これを北島、上島という名の南側の島は下県郡で、これを南島と呼ぶことにする。                       

f:id:kodaishi:20191227161648j:plain(左①p.261図8-2より、

                             右⑧p.87地図7より)
 古田武彦氏は、南北両島では、南北と東西の長さが違い過ぎて、「方可四百餘里」の表現に適さないとして、「対海国」は南島だけを指していると述べる。南島と一大国(壱岐)は方形に近く、それぞれ「方可四百餘里」と「方可三百里」と書かれているから、両島をそれぞれ半周すると2倍の八百余里と六百余里になるとし、これを「半周」読法と名付けている。
 孫氏も全く古田氏と同じ考えで、「方可四百餘里」は方形を表しているとする。魏使の航路は、西側から浅茅湾に入り、大船越を越える航路だとする。大船越は、江戸時代に開削工事を受けるまでは陸地がつながっていた。しかし、弥生時代の海面は今より高かったので、船越の古代水道を抜けることができた、と孫氏は述べる。
 

 これに対して、木佐氏は「方○里」というのは、面積の一般的な表示法であり、正方形に換算して面積を示せば分かり易いので、このような表現がされたとし、例を示して反論した後、次のように述べる。「…昔は船を引いて陸を越え、浅茅湾対馬海峡をつないだのが、地名の由来である。浅茅湾の南東隅に位置する大船越の南は、数百メートルで対馬海峡だ。1672年に、この大船越瀬戸の開削工事が完成した。魏志倭人伝の時代、対馬は一つの島であった。南島自体も、南北方向は約二十七キロ(約三百五十五里)、東西方向が平均十二キロ、最大でも二十キロ程度(約二百六十里)だから、正方形からはほど遠く、「方可四百餘里」とも大きくずれている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.262)
 底が平らな倭の船ならともかく、魏使の船は大型構造船なので、多少海面が高かったとしても引いて陸を越えることは無理ではないだろうか。そうすると、どの港に寄港したのだろうか。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』では、最初に北島の港に寄港したとする見解が多いとし、(1) 北島、佐須奈 (2)北島、佐護 (3)北島、鰐浦などを揚げている。北島、鰐浦は、神功皇后新羅に渡るとき、ここから出発したという伝承があるという。南島の方が、当時も人口密度が大きかったとみられ、対馬の都のあったのは南島の可能性の方が高く、北島の港に寄った後、南島の港に到着したのかもしれない。


 それに対して、松下孝幸氏は『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』(長崎新聞新書)(p.104)の中で、「最近の発掘調査で、この(対馬国の)中心集落は峰町の三根遺跡ではないかと推定されている。」と述べている。松下孝幸氏は、日本人の起源を明らかにする目的で、1万体にも及ぶ人骨を見てきた医学博士である。この見解だと、北島に都があることになる。
 今後、対馬の遺跡の発掘等が進展して当時の様子が明確になってくると、魏志の航路も確定できるかもしれない。しかし、今の段階では、単純に西側から浅茅湾に入り、大船越を越え、やがて対馬海峡に至るルートは無理があるのと思われる。そうすると、古田氏の「島めぐり」読法は成り立たなくなるのではないか。更に、古田氏は対馬壱岐で港に到着した後に、わざわざ魏使達が島内を陸行すると主張している。これはもっと無理があるのではないだろうか。

 

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(2) 「末盧国」で上陸した港はどこか?

 帯方郡から朝鮮半島に沿って船で狗邪韓国に到着し、対馬壱岐を経て「末盧国」に上陸している。古田武彦氏は「陸行1月」を説明するために、「韓国国内を陸行している」としているが、これは論外としていいだろう。帯方郡から港まで行き、船で出発する。その後、韓国内で一旦船から降りて陸行し、その後また船に乗り狗邪韓国に到着するという事は考えられない。「陸行1月」は別の観点から説明されなければならない、と思われる。
この上陸した「末盧国」はどこだったか、について考察してみよう。
 古田武彦氏は東松浦半島呼子唐津、浜崎が候補として考えられるとし、一大国との距離が千余里であることなどから、唐津であろうとしている。(③『「邪馬台国」はなかった』)孫栄健氏は、「…現在の松浦半島の唐津湾岸と定説される。考古学の成果によれば、その中心は唐津市の桜馬遺跡から鏡山地区の宇木汲田遺跡であると言われる。」(②『決定版邪馬台国の全解決』p.159)と述べ、行程中の末盧国の基点を松浦川河口と見て、行程として書かれた内容に見事に一致すると述べる。木佐敬久氏は「末盧国は、通説どおり唐津でよい。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.255)と述べ、「末盧国の港は、現在の唐津港より東南にあり、旧・松浦川の河口を少し遡ったあたりと思われる。」(同p.258)としている。末盧国の位置については、古田、孫、木佐氏、三氏ともほぼ同じ見解である。


 これに対して、佃收氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』(p.24)の中で、長年タグボートの船長をしている高橋実氏の説を紹介しながら、呼子町名護屋港であるとしている。「船を長期間停泊させるには良港が必要である。博多湾唐津湾は遠浅であり、丸木舟には最適であるが大型船には不適である。北部九州の中で大型船に最適な天然の良港は名護屋である。魏の船は大型船であるから、名護屋を港に選んだのだろう。」と、高橋氏の見解を書き、続いて「…豊臣秀吉も朝鮮征伐の時に名護屋を港に選んでいる。私は高橋氏の「末盧国=名護屋」説に賛成である。」と述べている。
 作家の高木彬光氏は、著書⑨『邪馬台国の秘密』の中で、魏の使節の上陸港を宗像海岸の神湊としている。東松浦半島呼子唐津、浜崎などに使節が上陸したとすると、次に向かう伊都国へは唐津街道(現在の国道202号線)を通って行くことになる。ところが、卑弥呼の時代の3世紀頃は今より海岸線が6mくらい高く、今の唐津街道の大半が海の中に消えてしまう。歴史学者達が言う伊都国への道は存在しないのではないかとし、東松浦半島への上陸は考えられないとする。続いて、玄界灘は風が強く、強い風の日が少ない8月ころが渡航には便利であることを述べ、「夏の8,9月ごろといえば、…台風の季節に入っている…なるほど、魏使たちが上陸して、邪馬台国へ行っている間に、台風か何かにあって、船をやられてしまっては、帰国するにも手段がなくなって来ますね。…」(⑨p.288)と述べる。その結果「そういう風に対するそなえまで考えると、博多湾方面に、良港は一つしか考えられないのだがなあ…宗像海岸、神湊-…僕には、風に対して強い古代の港は、博多湾では、ここしかないように思われるんだ。」(⑨p.289)と神湊説の理由を述べている。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』を見ると、末盧国=佐世保説もあり、この説を唱えるのは中国人学者に多いという。壱岐から「千余里」であることを重視した見解だろう。


 それぞれの説を比べてみて、私達は魏の使節の上陸地は、佃氏や高橋氏が述べる名護屋港だと考える。こう考えたのは、主に3つの理由からである。1つ目は佃氏の次のような指摘による。「当時の中国の船は大型構造船である。150-300人は乗れる大きな船である。安全な航海ができる。一方、弥生時代の日本列島の船は丸木舟である。せいぜい20-30人程度しか乗れない。波が荒いときは危険である。また、丸木舟では波を被る。下腸品は絹織物だけででもトラック1台分はある。(更に銅鏡100枚)魏の使者はこれらを海水で濡らすことなく無事に届けなければならない。丸木舟ではとても無理である。魏の使者は危険性から見ても、丸木舟には絶対にのらないであろう。」(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.102)大型構造船が長期間安全に停泊できるのは、名護屋港と思われる。秀吉が使っていないところを見ると、宗像海岸の神湊港は大型構造船には適さないのではないだろうか。
 2つ目は、魏志倭人伝に「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」と書かれた文面による。「末盧国」では前の人が見えないくらいに、草木が繁茂していると言う。倭人の活動では、丸木舟が使用される。したがって、水深が深過ぎる名護屋港は、倭人の活動には適していない。魏の使者が来たときだけ使われ、普段は余り使われない。だから道もないくらいに、草木が繁茂しているのではないだろうか。


 3つ目は、魏志倭人伝の次の行程文「東南陸行五百里到伊都国」による。「末盧国」から「東南」方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着するという。「伊都国」は古田氏、孫氏、佃氏共に定説のように福岡県前原市付近だとしている。「末盧国」の位置については、古田氏、孫氏が唐津であるとする。地図上で唐津から前原方面を見ると、東北の方向になる。魏志倭人伝が言う「東南」の方向とは全く異なる。古田氏は、この点を解決するために、「東南陸行」は「末盧国」から「伊都国」への方向ではなく、「末盧国」を出発する時の始発方向であると述べ、「道しるべ」読方と名付けた。確かに唐津市を出発して前原市に向かおうとすると、唐津湾を回って行くから、始発方向は東南になる。しかし、そのような場合、東南方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着する、と言うだろうか。途中でいくらでも方向が変ることがあるから、始発方向だけでは、伊都国に到るとは言わないのではないか。


 次に孫氏はどの様にこの点を解決したか、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で見ていく。「『魏志』によれば、末盧国より伊都国までは「東南陸行五百里」と述べられる。この伊都国を…その中心は福岡県前原町の平原弥生遺跡のあたりと推定される。すると、末盧国より「東南」ではなく「東北」の方向になる。だが、この記述は前述の『魏略』逸文に「東南五百里、到伊都国」とすでに「東南」が用いられるように、何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう。」(p.159)と述べる。これで理由を示したことになるのだろうか。『魏志倭人伝が方向「東南」を記し、『魏略』も同じ方向「東南」を記している。しかし、定説であるとされる「末盧国」=唐津、「伊都国」=前原市では、方向「東南」の説明が全くつかない。このような場合、定説である出発点や到着点を再検討することもなく、「何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう」として、間違いがそのまま載せられているとする。なぜ間違えたのか、どのように間違えたのかについての考察を全くしないまま、結論を下している。このような論法が許されるなら、自分と異なる結論はすべてこの論法で否定できるのではないか。魏志倭人伝の行程文「東南陸行五百里到伊都国」についての古田氏と孫氏の見解には同意することができないことを示した。


 次に、佃氏と木佐氏の見解を見てみる。まず、佃氏の見解を見よう。佃氏は使節が上陸したのは呼子町名護屋港、また「伊都国」=前原市としている。現在の地図で見ると唐津前原市は東北の方向であり、呼子町名護屋港)→前原市は東の方向になる。佃氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』の中で、野津清氏が邪馬台国物語』(雄山閣で明らかにされた次のことを指摘する。「中国人は西暦前1100年ほどまえから周髀(しゅうひ)の名で、太陽観測によって正確な方位の測定を見につけていたわけで、倭人伝が書かれた時代でもこと方位に関する確信は、1300年の伝習の上に築かれていたのだから、(中略)。現在、われわれが使っている地軸の方位を真北・真南で表した地図に当てはめる場合、軌道に対して、23度27分、地軸が東に傾斜しているから、これだけは、必ず修正しなければならない。そうしないかぎり、倭人伝の方位が今の地図の上では合わなくなる。」(⑦p.25)この古代中国人の方向で記せば、唐津前原市は東北東の方向であり、名護屋港→前原市は東南東の方向になり、ほぼ東南である。名護屋港→前原市魏志倭人伝が示す「東南」の記述に合っている。これが、上陸した「末盧国」=唐津を否定し、名護屋港とした3つ目の理由である。


 『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』の著者の松下孝幸氏は、この本の第5章倭人伝の弥生人の中で、次のように述べている。「この「末盧国」は現在の唐津市を中心にした地域に比定されている。確かにここには宇木汲田遺跡や青銅器を出土した桜馬場遺跡などの遺跡が集中しており、このあたりが「末盧国」の中心地だったと考えられている。しかし、私は「山海に濱いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水、深浅無く皆沈没して之を取る」という魏志倭人伝の文章からどうしても東松浦郡呼子町の大友遺跡を想起してしまう。大友遺跡は呼子町の海岸に存在する埋葬遺跡である。」(同p.131) 松下氏は、魏使は呼子町に上陸したような印象を持っている。氏は、同書の中での弥生人の人骨を3つのタイプに分類し、中国の古人骨との比較・検討をしている。また、大友遺跡の発掘調査の結果やそれから考えられることについても述べていて、大変興味深い。


 次に木佐氏の見解を見てみよう。木佐氏は「末盧国」=唐津とし、「伊都国」=現在の佐賀県小城市付近とする。まず、前に高木彬光氏が指摘したように、唐津から前原に向かうルートは大変危険であることを指摘する。「唐津糸島半島を海岸沿いに結ぶ「唐津街道」ができたのは、江戸時代である。現在でも、県道付近は道幅に余り余裕がない。というのは、背振山地の尾根が肥前佐賀県)と筑前(福岡県)を別ける境界となっており、この背振山地は海岸近くまで迫っている。このため通説のように、唐津から海岸伝いに「前原」方面に向かうのは「親知らず、子知らず」を通るように危険であった。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.273)
 方向については、古田氏や孫氏のように考えず、現在の地図上で素直に東南方向に、唐津から小城市付近に進む。松浦川厳木川の左岸、現在のJR唐津線と国道203号線が走っている川沿いの道を進む。これを、木佐氏は「佐賀ルート」と呼んでいる。小城市付近には国史跡・土生遺跡があり、佐賀平野西部では最大規模とされる弥生中期の集落跡が残っているという。確かにこのルートも考えられるのだろうが、「山海に濱うて居る」という魏志倭人伝の文言に適しているかはやや疑問が残る。「伊都国」から東南に百里(7.6Km)で、「奴国」に至る。この「奴国」は佐賀市付近とであると述べ、佐賀市北部の大和町にある国府跡はその有力な候補地であろうとする。また「奴国」の「二万余戸」の人口は、佐賀平野の穀倉地帯が支えていたとする。次に「奴国」から東に百里行くと千代田町辺りで筑後川にぶつかる。ここが「不弥国」であるとする。当時は筑後川下流も現在より西寄りを流れ、「不弥国」は有明海の湾奥、筑後川の河口近くになると述べる。

 

 「不弥国」の人口は「千余家」と「戸」単位ではなく。「家」単位で表されている。税を徴収する単位として「戸」があり、税を払う単位としてではなく、単に住居としての単位が「家」であると説明し、「不弥国」は港湾労働者の出入りが激しく、住民が収税の単位として成立しなかったのではないかと述べている。更に、筑後川の河口を肥前側(佐賀県)から筑後側(福岡県)に渡ったところが「邪馬壹国」であり、現在の久留米市城島町付近が入口である。また、女王の宮殿のあった場所は高良山ではないかとする。「高良山には筑後一の高良大社があり、現在でも神社建築としては九州一を誇る。この高良山を囲むように、神籠石の石が残っている。」(①p.307)「女王国は九州の東岸に面している。これらを考えると、女王国は現在の福岡県と大分県に相当する。」(①p.308)と結論付けている。

 

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(3) それぞれの国の位置の比定

 前の節では、木佐説のみ一気に女王国の位置までいってしまった。ここで、各論者の特定する場所を一覧表にして見てみよう。 

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 この表から、魏志倭人伝が記す邪馬壹国への行程や邪馬壹国の位置などを、各論者がどの様に考えているかが分かる。

 

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(4) 「自郡至女王国萬二千餘里」の理解

 魏志倭人伝の前から三分の一の部分は行程や国々などの地理情報を著している。この部分の最後に記された「自郡至女王国萬二千餘里」の「萬二千餘里」を各論者がどう理解しているかを、次に見ていく。この文は、帯方郡から女王国までの道のりが一万二千余里であるとし、邪馬壹国の位置の比定に大きな意味をもつ。


<古田説>
古田氏の見解をまず示そう。古田氏は、自分の読み方に名前をつけて、説明している。「道行き」読法、「最終行程0」の論理、「島めぐり」読法などである。「道行き」読法では、「至」が先行動詞と結合していない場合は、傍線行程を表すとし、「奴国」や「投馬国」への行程は傍線行程であるとする。主線行程を進みながら、傍らの国々についても述べる実地的・実際的表記法であるとする。「最終行程0」の論理は、不弥国と邪馬壹国は接しているから、不弥国から邪馬壹国への行程は0とするものである。「島めぐり」読法は、「対海国」が「方可四百余里」、「一大国」が「方可三百里」と書かれていることから、対馬壱岐については、島の正方形の二辺をめぐる形で行程しているとするものである。以上の読み方により、古田氏は次のように帯方郡からの「萬二千餘里」を理解した。
(1) 帯方郡治――狗邪韓国 7000里(水行・陸行)
(2) 狗邪韓国――対海国  1000里(水行)
(3) 対海国         800里(陸行)
(4) 対海国―― 一大国  1000里(水行)
(5) 一大国         600里(陸行)
(6) 一大国―― 末盧国  1000里(水行)
(7) 末盧国―― 伊都国   500里(陸行) 
(8) 伊都国―― 不弥国   100里(陸行) (伊都国― 奴国 100里 は傍線行程)
(9) 不弥国(接する)邪馬壹国 計12,000里 (①『「邪馬台国」はなかった』p.200)
 狗邪韓国に至るまでに、韓国内でまた対海国や一大国でわざわざ陸行をするだろうか、という疑問は当然湧くだろう。


 <孫説>
 次に、孫栄健氏の理解を見ていこう。孫氏は様々な理由を述べるが、結論的には古田氏の「島めぐり」読法と榎一雄氏の「放射コース式」の読み方を活用する。帯方郡治から狗邪韓国までの7000里は、すべて水行とする。また、対馬島壱岐島の海岸を船で行くので、両島を半周することになる。正方形の二辺を加えるから、800里と600里を加えるが、これもすべて水行である。上の(1)~(6)まですべて水行とする。
魏志倭人伝の記述を見ると、初めは「方位+距離+地名」の順で書かれていたが、伊都国から先の記述では、地名と距離の順番が変わり「方位+地名+距離」の形式となる。これは、直線的に行くのではなく、放射コースに進むと解釈するのが榎氏の「放射コース式」の読み方である。それにより、伊都国→奴国、伊都国→不弥国は放射コースであるとする。更に、後漢書の記述などから「…邪馬台国は実は九州北部三十国の総称で、逆に女王国はその中心となる都のことだった。(1)郡より「万二千余里」で、(2)「自女王国以北……戸数・道里」より里数記事の最南端にあたる国は、すなわち奴国にあたる。」(②『決定版邪馬台国の全解決』p.201)と述べる。(詳しくはⅣ(1)2章参照)これによって、女王国は奴国であるとし、上の(8)が伊都国―― 奴国  100里(陸行) 計12,000里 となる。佃氏との違いは、結論的には(1)~(6)がすべて水行となり、(8)の不弥国が奴国に入れ替わるだけとなる。
(1)~(6) (すべて水行、他は同じ)
(7) 末盧国―― 伊都国   500里(陸行) 同じ
(8) 伊都国――奴国(女王国)100里(陸行)(伊都国――不弥国 100里は傍線行程)
           計12,000里     
 <佃説>
次に、佃收氏の説を見ていく。
 佃氏も「始度一海千余里至対海国」は海を渡るのだから、千余里は海岸に沿って渡るのではなく海を渡る距離で、「方可四百余里」とあるから、一辺が四百余里の海岸の二辺を四百余里ずつ海岸に沿って水行するとする。(1)~(7)まで、孫氏と同じ結論である。古田氏と同じように、「東南至奴国」と「東行至不弥国」の違いに注目し、「奴国」への「至」は動詞が付かず、「不弥国」への「至」は動詞「行」が付くことから、実際に行くのは「不弥国」で、「奴国」へは行かずに「伊都国―奴国100里」は傍線行程であるとする。その結果、古田氏の説の(1)~(6)をすべて水行としたものとなる。
(1)~(6) (すべて水行、他は同じ)
(7),(8),(9) 同じ


 <木佐説>
 次に、木佐敬久氏の見解を見る。木佐氏は、古田氏の「道行き」読法や「島めぐり」読法を取らず、これを批判して、別の説を提出する。通説では、「七千余里」の起点は帯方郡治であり、終点の狗邪韓国は釜山、金海付近とされている。しかし、木佐氏は「七千余里」の起点を帯方郡境とし、終点の狗邪韓国は統営(トンヨン)であるとする。統営(トンヨン)は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄の役のとき、大海戦の戦場となったところであり、以来水軍の本拠地となった場所でもある。更に、帯方郡治の場所の特定については、ソウルと沙里院の二説があるが、ソウルが正しいとする。また、『後漢書』の范曄はこの「七千余里」の起点を正しく理解していて「楽浪郡徼」と表現している、と述べる。帯方郡治から帯方郡境(韓国との境)までは短里で千三百里ある。この千三百里帯方郡治からの出発点に横たわっていたが、魏志倭人伝には記載されていない。陳寿が記載しなかった理由を、木佐氏は次のように述べる。「陳寿はなぜ、「帯方郡治~郡境」の「千三百里」をキチンと記さなかったのか。帯方郡が中国領であり、中国人には既知の情報であったために、記す必要がなかったからである。帯方郡治の具体的な名前が出てこないのも、同じ理由による。それにここは倭人伝である。倭人伝の中でわざわざ「帯方郡治~郡境」の距離を記すほうが、かえって不自然である。」(①『かくも明快な魏志倭人伝P.239)
(0) 帯方郡治(ソウル)――帯方郡境 1300里
(1) 帯方郡境――狗邪韓国(統営)  7000里(水行)
(2) 狗邪韓国(統営)――対海国     1000里(水行)
(3) 対海国―― 一大国                    1000里(水行)
(4) 一大国―― 末盧国(唐津)      1000里(水行)
(5) 末盧国―― 伊都国(小城市付近)     500里(陸行)
(6) 伊都国―― 奴国(佐賀市)        100里(陸行)
(7) 奴国―― 不弥国(千代田町)       100里(陸行)
(8) 不弥国(接する)邪馬壹国      計12,000里


 邪馬壹国は、不弥国(千代田町)から筑後川を東側に渡った所(城島町付近)を入口とし、高良山に宮殿があり、現在の福岡県・大分県にかけて展開されている大国であるという。従来は、帯方郡治から出発して邪馬壹国に至るのに「萬二千餘里」と解釈したため、すでに記載されている距離の合計10700里に何かを加えるなどして、12000里となるような説が考えられた。それが「道行き」読法や「島めぐり」読法、あるいは榎一雄氏の「放射コース式」の読み方であると批判する。対海国の「方可四百余里」、一大国の「方可三百余里」の表現を古田氏は正方形ととらえ、正方形の二辺を通るとする「島めぐり」読法を提出した。これに対し、木佐氏は「方○里」という表現は、古代における面積の一般的な表示法だとする。どんな形でも、正方形の面積に換算して示せば、広さはわかりやすいからだ、と述べる。これは、前の(1)対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?で述べた通りである。コロンブスの卵的な発想の説である。


 <安本説>
 次に安本美典氏の説を見よう。
 安本氏の説は、(1)~(6)までは、佃氏とほぼ同じである。伊都国から先は榎氏の「放射コース式」の読み方を重視し、これを「斜行式」の読み方と改めて名付けている。伊都国には一大率が置かれ、諸国を検察させている。また、郡使は伊都国に常駐している。このことからも、伊都国以後の行程はすべて伊都国を出発点とし、放射的(斜行的)であるとする。
(1) ~(6)  (すべて水行、他は同じ)
(7) 末盧国―― 伊都国 500里(陸行)  (伊都国―― 奴国  100里は傍線行程)
                     (伊都国――不彌国 100里は傍線行程)
(8) 伊都国――邪馬壹国 1500里
         計12,000里
 安本氏は伊都国を怡土郡糸島郡)としているから、邪馬壹国は怡土郡糸島郡)から1500里ほど離れたところにあるのではないかとする。このように考えた場合、福岡県夜須町のあたりに邪馬壹国の位置を求めることは可能であるとしている。


 <高木説>
 最後に、高木彬光氏の考えを見ていこう。高木氏はまず、行程の記述での里数をすべて足し合わせた数10700里に注目する。その里数の中で、7000里と3つの1000里に「余」が付いていることを指摘する。「…精密な海図があるわけじゃないんだし、たとえば現在のわれわれが日本全図を持ち出して、釜山-対馬壱岐-博多と直線距離を測って行くようなことは、三世紀の人間にとっては、それこそ人智を超越した神わざとしか思えなかったろう。彼等にとっては、航海に費やしたおよその時間から、距離の大ざっぱな見当をつけるしか方法はなかったろうし、そうなれば、切りすて切り上げ四捨五入さえ出来なくなったかも知れない。いわゆるプラスアルファといった含みで誤差を書き出す。それが、(1)から(4)にあらわれて来る「余里」の意味じゃないのかな?」(⑨『邪馬台国の秘密』(p.380))と、本の中の主人公神津恭介に言わせている。そして、7000里と3つの1000里はすべて概数であるから、この合計10000里を10%増しにして、残りの700里を加えれば、11700里となり、10000里を13%増しにして700里を加えれば合計が12000里になることを指摘する。このことから、里数合計10700里と「自郡至女王国萬二千餘里」と記されている12000里の差は誤差の範囲で収まる数であるとする。大らかな態度だな、と感心する他はない!?
以上、「自郡至女王国萬二千餘里」についての五氏の説を見てきた。

 

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(5) 「水行十日陸行一月」の解釈

 次は、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と記されている「水行十日陸行一月」をどう理解するかについて、やはり五氏の説を見ていこう。
 <古田説>
 「水行十日陸行一月」は、帯方郡治より邪馬壹国に至る全行程の全所要日数とする。帯方郡治→帯方郡西南端、狗邪韓国→対海国、対海国→一大国、一大国→末盧国の水行に要する日数が10日であるので、「水行十日」と書かれているとする。帯方郡西南端(韓国西北端)まで船で行った後、船を降りて、帯方郡西南端から狗邪韓国までは朝鮮半島を、東に進み次に南に進む、また東に進み次に南に進むという風にジグザグな陸行を繰り返すと、古田氏は言う。韓人に対するデモンストレーションでもあるので、このように進むとしている。この朝鮮半島でのジグザグな陸行、対海国と一大国での「島めぐり」読法での陸行、末盧国から邪馬壹国までの陸行の3つを合わせて、「陸行一月」であるとする。「陸行一月」を受け留めるために朝鮮半島での不自然なジグザグ陸行を考えたのだろう。


 <孫説>
 帯方郡治から邪馬壹国の道のりは「萬二千餘里」とする。『魏志』明帝紀の景初二年の条で、司馬懿将軍が軍行について述べる記事から、この時代では陸行1日40里を標準の行程としていた、と考えられるとする。そうすると、12000里は、40里で割り算をして30日となるから、陸行一月と考えることができると言う。また、唐時代の陸行と水行の規定が載っている政典から、水行の距離は陸行の3倍とすることができるとする。そうすると、水行1日は120里となり、やはり割り算をすれば、十日となる。これが水行十日であると言う。つまり、「自郡至女王国萬二千餘里」を陸行で表すと「陸行一月」、水行で表すと「水行十日」であると孫氏は解釈している。もともと、孫氏は短里には全く触れずに、長里についてだけ考察し、1里=434mとして議論をしている。長里での「萬二千餘里」は途方もない長さであり、そうすると記事も途方もないものになる。この記事が書かれたのは、当時魏が戦っていた呉に対し混乱した情報を流すのが原因であると言う。地理情報撹乱は司馬懿あたりから出て、司馬懿に気を使っている陳寿が「史の成文」として残したのではないかと、孫氏は述べる。


 この説は、私達には途方もないものに感じられた。第一に、単に「自郡至女王国萬二千餘里」の単純な言い換えのために、「水行十日陸行一月」と陳寿が書くだろうか。陳寿の文書は、素晴らしいリズムで、無駄のない表現しているからだ。それに、12000里は水行と陸行を合わせた里数であるのだろう。これを全部水行すると10日、全部陸行すると1月となると、机上の議論を展開しても意味がない。「邪馬壹国に行くのには、水行と陸行をしてこれだけの日数が必要ですよ。」、と中国の読者に伝えているのではないだろうか。第二に、『春秋』や『史記』や『漢書』を継ぎ、『前四史』の中でも特に銘文とされる『三国志』が一時的な軍事的事情のために、途方もなく誤まった記事をそのままにすることがあるだろうか。呉に知られたくなければ、しばらく公表を控えるとか、もっと別の方法があるのではないか。と言うより、このような史書は、一時的な事情とか、個人的な事情とかを突き抜けたもっと普遍的なものを希求する精神に支えられて書かれている、と私たちには思われる。私たちは、孫氏のこの説に同意することは出来ないと感じた。


 <佃説>
 次に佃氏の見解を見てみよう。
 佃氏は、「従郡至倭、循海岸水行」から始まり、「自郡至女王国萬二千餘里」で終わる部分を帯方郡から邪馬壹国へ至る「行程文」と呼び、この「行程文」は、それぞれの国への行程を示す<行程部分>とその国を説明する<説明部分>から成り立っているとし、「行程文」全体のこの構成をしっかりと見て読む必要がある、と注意を喚起する。邪馬壹国については、「南至邪馬壹国」が<行程部分>であり、「女王之所都 水行十日陸行一月…」が<説明部分>である。従来は、「水行十日陸行一月」を<行程部分>と考えたため、時間を距離に換算して邪馬壹国に至る距離に加算して、迷路に入り込んだ。しかし、「水行十日陸行一月」は邪馬壹国に対する<説明部分>の中にあるから、郡から邪馬壹国へ至る期間を説明しており、「水行十日陸行一月」の期間がかかると述べているのだと、佃氏は理解する。


 水行する区間は郡から末盧国までである。(1)郡~狗邪韓国7000余里、(2)狗邪韓国~対海国1000余里、(3)対海国~一大国1000余里、(4)一大国~末盧国1000余里と記されている。古代は日中(昼間)のみの航海であり、朝早く出発して日のあるうちに次の港に着く。1日の航海分を距離では1000余里と表現している。(2)と(3)と(4)では実際の距離に差がある。しかし、1日分の航海と考えれば、同じ距離とみなし得る。(2)と(3)と(4)の航海でそれぞれ1日、(1)の航海で前の7倍の7日となり、計10日である。対海国や一大国では海岸に沿った部分も水行する。当然の如く、海中で止まる事は出来ないから、対海国に着くまでに1日、一大国に着くまでに1日、末盧国に着くまでに1日となる。
 「水行十日陸行一月」はいろいろな解釈がされてきた。(ア)水行すれば十日、陸行すれば一月 (イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月 (ウ)水行を十日し、その後陸行を一月する。
上で見たように、孫氏は(ア)の解釈であった。古田氏は(イ)の解釈をしている。佃氏は(ウ)のように考える。末盧国から邪馬壹国は陸行である。これに一ヶ月の期間を要するのだろうか、という疑問がわく。これに対して、佃氏は次のように説明している。「…末盧国から伊都国への道は「草木茂盛 行不見前人」とある。人が通らないような道を、草木を切り開きながら通っている。(大型構造船が停泊する名護屋港は、倭人が使っている丸木舟には適しないため)この道は魏使が来たときのみ使用される道であり、普段は使われない。そのため、「草木茂盛 行不見前人」となるのである。そのため、多くの時間が必要になる。また川があれば、下賜品の絹織物を濡らさないように慎重に船に積み、川を渡る。量が多いので、何度も何度も船を往復させる。雨の日は休むであろう。さらに伊都国へ着くと歓迎の宴が幾日も催される。このように魏使は1月かかって邪馬壹国へ着いた。「陸行一月」は実際にかかった期間が書かれている。」(⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』p.45)確かに、末盧国から伊都国に進む道とされる唐津街道について、高木彬光氏は古代には成立していない道である、と述べ、木佐敬久氏はようやく江戸時代に開通した街道であると述べている。魏使たちがこの道を進んだとすれば、一ヶ月を要したかもしれない、と考えられる。


 <木佐説>
 木佐氏は、「「傍線行程」を「主線行程」と区別する書き方は、陳寿が先例とした『漢書』西域伝に示されている。同様に、「水行十日、陸行一月」が首都・洛陽からの総日程である根拠も、西域伝に示されている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.298)と述べる。続いて、「西域伝の場合は、各国とも「王都」を明示したあと、必ず「首都」(長安)からの総距離を記している。……これをモデルとしたのが、女王国の「王都」邪馬壹国への行程記事である。」(p.303)とする。このことから、「首都」洛陽から邪馬壹国までの総行程が「水行十日陸行一月」であるとする。その意味は上で述べた(イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月であり、出発点等が異なるが、合計である点では古田氏と同じである。
 具体的には、洛陽から山東半島の煙台までで、「陸行一月」の大部分が費やされる。直線距離で850Km、道のりで950Kmを1日行程34Kmとすれば、28日となる。洛陽から山東半島への道路は、秦の始皇帝も利用したくらいだから早くから整備されていて、妥当な数字だと言う。続いて、「陸行の残りの二日は、末盧国から邪馬壹国までの七百里(53.2Km)余りである。」(p.323)と述べる。末盧国から伊都国までの500里(約38Km)を1日の行程とし、伊都国→奴国→不弥国→邪馬壹国は200里(約16Km)だが、邪馬壹国の入口(城島町)から高良山にある卑弥呼の宮殿までが更に200里程なので、約400里余り(約31Km)となり、こちらは「余裕のある1日行程であり、朝発って夕刻には卑弥呼に会うことが可能であった。」(p.324)と述べる。


 水行については、「山東半島の煙台から朝鮮半島の長山串へ渡って、ソウル(帯方郡治)の玄関・仁川までが「3日」、仁川から狗邪韓国までが「4日」で、一日行程はそれぞれ一六〇キロ前後。狗邪韓国から三海峡(各千余里、八〇~九〇キロ)は各1日で、計「3日」だ。三海峡の場合は「大海」であり、危険な夜の航海を避けて対馬壱岐に宿泊する。そのため行程が短くなっている。」(同書p.324)と述べている。これまでの論者は、「水行十日陸行一月」の出発点を帯方郡治又は境としていたが、木佐氏は魏の首都洛陽が出発点であると言う。ただ、大型構造船が唐津港に着いたとして、港での大量の絹織物、銅鏡等の荷を降ろす作業や伊都国などでの歓迎の挨拶や宴、また絹織物や大量の銅鏡等を筑後川を渡して運ぶ作業、卑弥呼の宮殿での儀式等が2日間で出来るかどうか、心配ではある。実際、魏志倭人伝では「草木茂盛行不見前」と書かれており、道を進むのが困難な様子を述べている。末盧国から2日で邪馬壹国到着は、少し無理な数字ではないか、と私たちには感じられた。
 一方、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の直前の「南至投馬国水行二十日」について木佐氏は、「水行二十日」の出発点は不弥国であり、「投馬国」は奄美大島あたりを入口とする沖縄・琉球圏であると述べ、琉球特産のゴホウラ貝の経済的意味についても言及している。この点でも他の論者と異なる論考を提出している。


 尚、これらの結論を導く過程で、「方角+地名+距離」の形の叙述は傍線行程とする榎一雄氏の「放射コース式」の読み方は成り立たないと批判する。また、「至」の前に移動を表す先行動詞がある場合と先行動詞はなくともこれが省略されている場合は主線行程であり、それ例外は傍線行程とする古田氏の「道行き」読法を証明したとされる古田氏の「全用例調査」を改めて検討し、そうでない例が多くあることを確認している。その結果、「至」だけで主線行程になることがあることを示し、古田氏の「道行き」読法も成り立たないとする。
 <安本説>
 安本氏は、私たちの理解では、「水行十日陸行一月」について多くを語っていないように(私たちの勉強不足かも知れないが)見える。「陸行一月」は「陸行一日」の誤りではないかとした本居宣長白鳥庫吉などについても言及する。また古田武彦氏の説についても、感じたことを述べている。支持できる点もあるが、支持できない点もあるとしているように見える。


 <高木説>
 高木氏は、「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬壹国までの全コースに相当すると述べ、古田氏の朝鮮半島での陸行説を支持している。「金海または釜山から対馬まで水行一日、対馬壱岐間水行一日、壱岐、宗像間水行一日、……宗像神湊へ上陸してからの陸路は七百里にすぎないね。七里一キロとしてほぼ100キロ、江戸時代の旅行の標準で言ったなら、一日の行程は約三〇キロから四〇キロだが、この三世紀当時は道路事情も悪かったろうから、一日二〇キロとしてみようか。これにしても五日の陸行と見たらいいところだろうねえ」(⑨『邪馬台国の秘密』p.401)とする。次に「…そういう風待ちまで考えたら対馬壱岐という二つの島で五日ぐらいの日数がかかったとしてもふしぎではないな。その間には漕ぎ舟を使って、左回り右回りの両コースで島を一周し、そのピッチの数から周の長さを実測するようなこともあったかも知れない。…壱岐だったら、それこそ島中を歩いて一周したかも知れないし、九州の陸行と合わせて小計十日になる」(p.402)とする。「それでもまだ、陸行二十日に、水行七日が残っていますよ……」と、相方の推理作家の松下研三が続ける。次に、豊臣秀吉朝鮮出兵のとき、小西行長率いる第一軍がソウルに入ったのは、釜山上陸後二十日後であることを述べ、韓国内を陸行する際の時間的な目安にした後に、「…もし、帯方郡がソウルだとすれば、郡山あたりに上陸しそこから陸行に移ったかも知れない。また、伊勢説のように帯方郡が甕州(ようしゅう)半島にあったとすれば、仁川上陸、そしてその後の陸行はいよいよ自然になって来るね。とにかく、この部分の水行を七日と解釈すれば、「水行十日、陸行一月」という日程は、何の抵抗もなく理解できる」(p.404)と主人公の神津恭介に述べさせている。高木氏の説は、上陸した場所や魏使たちが進むコースは異なるが、「水行十日、陸行一月」の理解の仕方は古田氏とほぼ同じといってよいと思われる。
 また「南至投馬国水行二十日」については、帯方郡から出発して投馬国まで「水行二十日」と解しており、投馬国は宮崎県のどこかにある、と考えている。

 

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