魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

魏志倭人伝レポート-二著の批評を中心に-

 三世紀の日本、邪馬壹国(邪馬台国)、卑弥呼についての私たちの視野を広げてくれる本に出会った。①『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久著、冨山房インターナショナル2016年2月刊)②『決定版邪馬台国の全解決』(孫栄健著、言視舎2018年2月刊)の二冊である。この二冊が、どの様な点で私たちの参考になり、どのような点については賛成できないかを整理してみた。第一に自分たちの『魏志倭人伝に関係する知識を改めて整理・確認するためであり、第二に卑弥呼や邪馬壹国(邪馬台国)、三世紀の日本の歴史に興味を持たれている方々に私達の整理したことが少しでも参考になればと考えたからである。

 全体が30のブログから成っているので、順番に見ることができるが、該当する目次をリックすれば、その箇所から見ることができます。

【Ⅰ】 ①、②に対する最初の読後感想
(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の最初の読後感想
(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の最初の読後感想
(3)比評の視点

【Ⅱ】 いくつかの確認できる点
(1) 卑弥呼は大和朝廷の系譜の女王ではない
(2)    邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない
(3) 魏志倭人伝での1里は約76m
(4) 景初2年が正しい

【Ⅲ】 個々の論点
(1) 対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?
(2) 「末盧国」で上陸した港はどこか?
(3) それぞれの国の位置の比定
(4) 「自郡至女王国萬二千餘里」の理解
(5) 「水行十日陸行一月」の解釈
(6) 狗奴国の位置
(7) 「会稽東治之東」
(8) 倭人、倭国とは何か
(9) 補足

【Ⅳ】 二著の章ごとの批評
(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の章ごとの批評

<第1章 魏志の再発見へ>
<第2章 中国史書の論理に学ぶ> <第3章 『魏志』里程記事を読む>
<第4章 三世紀の実相> <第5章 一大率と伊都国について>
<第6章 東アジアの中の日本>

(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の章ごとの批評

<第1章 魏志倭人伝は明快にかかれている>
<第2章 東夷伝序文の「長老」と韓の反乱> <第3章 短里と長里>
<第4章 「魏志倭人伝」研究史と皇国史観> <第5章 「島国」と漢書、後漢書>
<第6章 「従郡至倭」と起点と経由> <第7章 狗邪韓国と「七千余里の論証」> 
<第8章 対海国から女王国まで>
<第9章 倭の政治地図と裸国黒歯国>
<第10章 倭国の風土と外交>
<第11章 女王国の歴史と「倭国乱」>
<第12章 天孫降臨の山>

【Ⅴ】 これまでの考察で明確になった点

(1) 「末盧国」で上陸した港は名護屋
(2) 残りの1300~1500里をどこに求めるか?

 

   日本古代史の復元 -佃收著作集-

   日本古代史についての考察

【Ⅰ】 ①、②に対する最初の読後感想

 詳しい批評は【Ⅳ】で記すことにして、まず、二著①、②の最初の読後感想を述べてみたい。②『決定版邪馬台国の全解決』から述べることにする。

(1)②『決定版邪馬台国の全解決』の最初の読後感想

この本は、過去に出版された2冊の本邪馬台国の全解決』(1982年刊)魏志東夷伝の一構想』(1986年刊)の内容に、新たに倭国の政治交渉記事の内容を加えて、すべてをまとめて1冊にした本であると著者は言う。全体で、6つの章にまとめられている。最初の3章は、主に邪馬台国の全解決』の内容だろうと思われる。この部分は、最初読んでインパクトを受けた。
 漢文に不得手な私たちは、日本の古代史を理解するために、一生懸命魏志倭人伝を読み、その解釈をめぐる考察を積み重ねてきた。陳寿の書いた『魏志倭人伝(以降『』を省略)と范曄が書いた『後漢書』倭伝を読み比べて、異なった記述の箇所では、どちらの記述が正しいとか正しくないとかを論じてきた。専ら、日本の古代史を理解するという文脈の中でだけ、魏志倭人伝に接してきた感がある。
 ところが、魏志倭人伝は、陳寿の書いた『三国志』の中の『魏志』の中の第30巻「東夷伝」の中の第7条「倭人伝」であり、元々日本人に古代倭人の姿を伝えるために書かれた文献ではなく、中国の歴史と文化の中で、中国の王朝や周辺諸国の様子を中国の人々に示すために書かれた文献の中の一部である。『史記』、『漢書』、『三国志』…と続いた中国24史の中で、特に『史記』-『漢書』-『後漢書』-『三国志』は高く評価されて、前四史と呼ばれ、孔子の書いたとされる『春秋』に習って書かれている。これらの中国の史書は「春秋を継ぎ」、文を規則的に矛盾させながら、その奥に真意を伝える「春秋の筆法」で書かれている。つまり、一字やちょっとした表現の変化が大きな意味の違いを表しているから、まず矛盾、「文の錯(たが)え」、微言を発見し、次にその真意である大儀を求めるという読み方をしなければならないと、孫氏は述べる。
 後漢が崩壊し、その後に建国される魏、呉、蜀が勢力を拡大し、やがて魏が蜀や呉を滅ぼし、魏から西晋が継がれていく、いわゆる三国史の時代の様子を解説する。陳寿は蜀の歴史編集の官となり、やがて蜀は滅び、晋の重臣の知遇を得て、晋の歴史編集官になっていく経緯も詳しく書かれている。また、『後漢書』を編纂後、中央政界に復帰したが、クーデターを計画失敗して48歳で刑場の露と消えた范曄の経歴や生れてきた時代についても分かり易くまとめられている。このことは、著者の中国古文献の圧倒的な読書量によるものだろうと思われる。中国の歴史の流れ、中国の歴史書の意味、役割などが説得力をもって示されているように感じる。


 日本における伝統的な中国歴史書の読み方には、大きな問題があるのではないか、と孫氏は言う。中国文明の風習としての伝統的なレトリックが完全に見落とされているのではないか。そして、その欠落を補い、今までにないハイ・コンテクストな視点から魏志倭人伝に書かれていることを解読したのが本書であると述べる。

 1982年に『邪馬台国の全解決』が出版されてから数ヵ月後に、安本美典氏が主宰する『季刊邪馬台国』で、「魏志は春秋の筆法で読めるか」というテーマで、この本の特集が組まれたという。著名な学者達が論じ、その際の学者諸氏の評価はまちまちだったようだが、安本美典氏は、それなりの評価を与えたとする。確かに、この本は大きなインパクトを与えたのだろう。
 後漢の後の中国の歴史の流れが分かり易く説明されているという点、魏志倭人伝は元々中国の政治や文化の文脈の上に立って成立しているものであることを理解できた点が、この本から学べたことだ。


 最初に触れたように【Ⅳ】で、この本の個々の歴史的考察についての批評を述べていくが、本書で物足りなさや危うさを感じるのは、その当時の日本や朝鮮半島の歴史的状況への視点を欠いたまま、結論を下してしまうところであると思われる。日本の歴史的事象について判断するためには、その当時の日本の歴史的状況や中国や朝鮮半島の状況、古文献に書かれていることなどから総合的に判断していく他はない。その点で、本書は中国の歴史や古文献についての知識は優れているが、日本の歴史的状況、日本の歴史書等に書かれていることなどは余り考慮しないため、結果として肯じがたい結論に行き着く、というようなことがしばしばあるように感じた。すごく個性の強い本であり、著述のスタンスは必ずしもバランスが取れているとは言い難いが、学べる点も多くある本だという感想をもった。

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   日本古代史についての考察

 

 

 

 

(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』の最初の読後感想

 著者の木佐氏は、多方面にわたる知識の持ち主であり、教養豊かな方であるのだろう。日本古代史に関する今までの学者や研究者の説、それに対して痛烈な批判を展開した古田武彦氏が主張してきたことなどを、しっかりと受け留め、バランスの取れた判断力で裁断していると感じられた。古田氏の果たしてきた業績をしっかり認め、更に、古田氏が誤って考察していると思われる箇所では、批判して自分の見解をキチンと示している。
通常、魏志倭人伝に記されている女王国を「邪馬台国」と書く本が多いが、魏志倭人伝に記されている通りに「邪馬壹国」と記している。また、『隋書』で、倭の国について記された文書を『隋書』倭国伝と呼ぶことが多いが、この本は『隋書』がハッキリと記しているように『隋書』俀国(たいこく)伝と呼んでおり、大変好感が持てる。
この本の冒頭、「原文で読める魏志倭人伝」として、魏志倭人伝の古代の中国語での読み方が示されている。魏志倭人伝の文章は、散文であるにもかかわらず極めてリズミカルで、簡潔かつ明晰であることを示すためである。この本の説明を読むと、確かに倭人伝の文全体が韻を踏んでおり、素晴らしいリズムを作り出していることが分かる。『魏書』を書いていた皇后の姻戚である夏侯湛という人が陳寿の書いた『魏志』を読んで、自分の『魏書』を破棄してしまったという。漢文の素養のない私たちにも、確かに魏志倭人伝の素晴らしさが伝わってくる。
全般的に、調べるところは調べ、そう考える理由をしっかりと述べて結論に至る極めて説得的な論考である。多くのことを考慮しながら論を進めるバランスの良さもあるように感じる。また、「かくも明快」に疑問が解けたところも何箇所かあった。


 しかし、読んでいて、時々違和感を感じる点がある。それは、著者の木佐氏が九州王朝を認めているものの、古田氏と同じように九州王朝が連続していると考えている点にあるのではないか、と思った。『記紀』(以降『』を省略)が述べるように大和朝廷がこの国を支配していた、というのは史実と異なり、九州の王権が古代のかなりの時代まで支配権を持っていたと考えられる。このことを古田氏と同様に木佐氏も認めている。佃收氏はこの九州王権は、卑弥呼の邪馬壹国、倭の五王、『隋書』俀国(たいこく)伝に記されている俀国などのように、連続した王権ではなく、異なる王権が入れ替わっているとして、その歴史を説明する古代史を展開している。木佐氏は古田氏と同様にこの九州王朝が連続したもの、と考えているのではないか。また、倭人は昔から日本列島に居たように考えているように思われる。倭人が渡来した経過を、考察の外に置いているのではないだろうか。


 この点は確かに私たちとは異なる。しかし、①『かくも明快な魏志倭人伝の異なる論点に出会っても、暗い感じにはならない。それは、木佐氏のように、しっかりと議論をして違っているところは直すという、バランスの取れた態度で古代史の建設に向かっていくのなら、やがて多くの人が認める日本古代史が作られるのではないか、と感じるからである。一人の人間が、日本古代史をすべて建設することはできない。多くの人が協力して、いろいろな意見を出し合い、他者の良いところを認め合いながら、建設していく以外ない。学閥や権威に拘り、日本人がどの様に形成されて来たか、これからどの様に生きていくべきかという肝心要の問題に、結果的に背を向けてはならない。木佐氏もこの本のはじめにで、皇国史観を守るところから出発した古代史は、原発の専門家と、詭弁の使い方において同じだと述べ、批判している。更に、「魏志倭人伝には信頼できない情報がまじっている、というのは専門家の常識である。だから魏志倭人伝を死んだ昆虫のように扱って、自分の説を組み立てた。そもそも、自分で気がつかなかった問題、無視した問題は専門家といえども詳しく調べることがないのは、どの分野でも言えることだ。要は、素人だろうが専門家だろうが、カギとなる問題を見つけて徹底的に調べ、適切な方法で納得いくまで考え抜いたものには誰もかなわない、ということだと思う。」(p.7)と述べている。多くの人達がこのような姿勢で、日本古代史に向かう時が来ていることを、この本から感じることができた。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(3)比評の視点

 この二著の他、かつて読んだ次の本にザッと目を通した。③『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、ミネルヴァ書房朝日文庫④『倭人伝を徹底して読む』(古田武彦著、ミネルヴァ書房朝日文庫)、⑤『俾弥呼』(古田武彦著、ミネルヴァ書房⑥『新「日本の古代史」(上)』(佃收著、星雲社⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』古代史の復元2(佃收著、星雲社⑧『邪馬台国ハンドブック』(安本美典著、講談社⑨『邪馬台国の秘密』(高杉彬光著、光文社文庫もちろんこれ以外にも、重要な問題を提供している本は沢山ある。この拙文を読んでいただく方々の参考のために、一応、私たちが参考にした本を揚げた。
 卑弥呼はどのような女王であり、女王がいたとされる邪馬壹国は何処にあったのか、という問題は大変興味深い。しかし、この問題は、日本の古代史の中で、3世紀に卑弥呼や邪馬壹国がどういう役割を果たしたか、という視点から考えるべき問題である。皇国史観によって、西暦紀元前660年に神武天皇から始まる万世一系天皇によって作り上げられてきたのが日本だと考えている人は、極めて少ないと思われる。また、朝鮮半島から渡来した勢力によって築かれ、言わば朝鮮半島文化の亜流が日本文化だと考えている人は、ほとんど居ないだろう。日本という国がどのように作られてきたかを知ることは、これからの日本が世界の中でどのように生きていくかに大きくかかわっている。


 江戸時代に国学の隆盛によって『古事記』、『日本書紀』などが研究されるようになり、戦前の皇国史観を経て、戦後は一転して「第16代の応神天皇以前の歴史は虚妄である」とする合理主義・実証主義が振りかざされた。そのような中で、1970年代以降には、既存の日本歴史学会とは別のアマチュアによる歴史研究が盛んになり、象牙の塔に閉じこもっている専門学者をたじたじとさせた、と言われる。また、様々な遺跡の発見があり、中国大陸や朝鮮半島の文献や遺跡等についての知識も次第に蓄積されるようになり、東アジアの中での日本の歴史を実証的にも考えることができるようになってきた。ようやく、日本の古代史を明らかにできる時代が到来しているのではないだろうか。これが、十分な知識のないことを省みず、佃收氏が研究されてきたことを学びながら、私たちが古代史の学習に取り組んでいる理由である。

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  日本古代史についての考察

【Ⅱ】 いくつかの確認できる点

 ①、②を読みながらの感想を記していく中で、様々な論点の整理をしていきたいと思う。まずそれに先立って、私たちには疑うことが出来ないいくつかの点について確認したい。
 古代史は少ない資料から古代の在り方を推論していく。当然様々な推論が可能になるので、まずあり得ない事を確定することにより、議論が多岐に渡り過ぎるのを防ぐことができる。それによって、より密度の濃い議論をすることができると考えたからである。

(1) 卑弥呼大和朝廷の系譜の女王ではない

 

 倭の女王卑弥呼は中国の正史『三国志』、『後漢書』、『晋書』、『隋書』、また朝鮮半島の最も古い歴史書三国史記』にも、名前が明記されている古代東アジアの有名な女王である。『三国志』の中の『魏志』の中の第30巻「東夷伝」の中の第7条「倭人伝」(いわゆる魏志倭人伝)の中に詳しい記述がある。日本の歴史書では、どの様に扱われているか、見てみよう。『日本書紀神功皇后39年の記事に、『魏志』についての記述がある。「魏志云……」という述べ方で、明帝景初3年6月倭女王が大夫難斗米等を魏に派遣したこと、正始元年に魏が倭に詔書印綬を与えたこと、正始4年に倭王が魏に献じたことが、魏志倭人伝と全く同じ漢字を用いて記されている。『日本書紀』の記述者は明らかに魏志倭人伝を読みながら記述している。ところが、倭女王について記しながら、卑弥呼の名は書かれていない。『古事記』では『魏志』そのものの記述が全くない。記紀は、神武天皇を初代天皇とする大和朝廷が日本を支配してきたと記述している。もし、卑弥呼大和朝廷の系譜の女王であったなら、当然のように中国の史書に何回も書かれている女王の名前を記すだろう。古代においてこのように東アジア全体で有名な自分達の祖先を書かない訳がない。中国や朝鮮の史書によって明確に記述されている倭女王卑弥呼を、神功紀で名前を伏せてただ単に倭女王と記しているのは、この女王を神功皇后に見立てるという意図を持ち、更に、『古事記』では全く触れていないことは、卑弥呼大和朝廷(天氏)の系譜の女王ではないことを明確に物語っていると言える。
 記紀の伝えるところでは、神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后であり、子を孕みながら新羅征伐をしたとする古代の偉人である。その4代前とされる第10代崇神天皇は「戌寅」に死去したと『古事記』は記す。崩年干支「戌寅」から判断して、第10代崇神天皇は318年に死去したと考えられる。仮に、「戌寅」が干支の1周期前の258年だとしても、倭女王が朝貢したとする明帝景初3年(日本書紀)は西暦239年だから、時間的に、卑弥呼崇神天皇神功皇后の順になり、卑弥呼神功皇后はまったく違う時代の人物である。
 神功皇后より古い時代の女性でかつ大和朝廷の系譜の女性の大物ということから、天照大神卑弥呼である、あるいは卑弥呼の存在から天照大神についての神話が生れたというような説を述べる歴史家は多い(戦前では和辻哲郎白鳥庫吉などが示唆し、戦後では安本美典氏などがいる)。しかし、少なくとも『日本書紀』の著者は、卑弥呼神功皇后に見立てたいという意図をもって、神功皇后紀にこの女王の記事を書いている。この説の歴史家と、『日本書紀』の著者は、卑弥呼について全く異なる見解を示していると言える。
 

 尚、『日本書紀』によれば、記紀は天武10年(681年)3月に天武天皇が編纂を指示したとされる。天武天皇は「天氏」であるから、倭人であっても、「天氏」以外で日本に渡来した「卑弥氏」の支配は載せようとしない。邪馬壹国の卑弥呼倭の五王が直接に記紀に登場しないは、卑弥呼倭の五王が「卑弥氏」であるからである。
佃收氏は、大和朝廷(天氏)の天皇の実際の系譜と、記紀に記された天皇の関係について、更に深めた考察をしている。記紀は、渡来人である崇神・景行・応神・仁徳天皇を、万世一系大和朝廷天皇の系譜に組み入れて記述している、と述べる。また、天武天皇天智天皇は異なる王権の王であり、記紀の編纂を天武天皇(天武王権)から引き継いだ持統天皇以下の天智王権は、神武天皇から始まる万世一系の王権は天智王権であるように、記紀を書き替えている、とする。そのため、天武天皇天智天皇の弟にし、天武天皇の父は舒明天皇ということになって、天武王権を創設した実際の「天武天皇の父」は記紀には登場しない、と述べる。私達の目の前にある記紀は、この結果のものである。これらのことについて、佃氏は著書⑥『新「日本の古代史」(上)』『新「日本の古代史」(中)』『新「日本の古代史」(下)』の中で体系的に記述していることを、参考までに記しておきたい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(2) 邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない

 明治以降戦前までは、特に天皇制による求心力によって近代国家を築いていくことが最優先された。原文の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と直して、この女王国を大和朝廷につなげようとする。その中から、近畿説、九州山門説などが出てくる。
 魏志倭人伝は、ほぼ20年に渡って倭国に滞在した張政の報告を受け、魏から見た東方世界即ち東夷の様子を述べる。魏の大型構造船は、狗邪韓国から対馬壱岐を通り、東松浦半島唐津方面に上陸し、その後は陸行が続く。短い文にもかかわらず、航路の様子が見事に表されていると感じられる。邪馬壹国は九州島にあるから、このような経路になる。
 もし、邪馬壹国が近畿の奈良にあったとすれば、九州(東松浦半島唐津方面)に上陸し、その後は陸行が続くという事は考えられない。九州島に立ち寄ることはあっても、上陸し陸行することはあり得ない。
 近畿が目的地なら、魏使達が、韓国においてと同様に、当時日本の中国地方を陸行していくことは考えられない。船で、日本海を通るか、瀬戸内海を通るしかない。狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国までの船での行程はリアルに表されている。日本海、瀬戸内海どちらを通るにせよ、九州から近畿への航路は狗邪韓国から末盧国までの1.5倍程度にはなり、夜の航海はできないから途中何箇所で泊まることになる。中国の歴史上、東夷の様子を初めて記述した陳寿が、その途中の航海の様子を書かない訳はない。実際に読んでみれば、魏志倭人伝の文章からは、全くそのような航海のことは感じられない。


 更に、邪馬台国は99.9%福岡県にあった』(安本美典著、勉誠出版にも記されているように、鉄の鏃(やじり)の出土数は福岡県398個に対して、奈良県は4個であり、福岡県は奈良県の100倍となっている。鉄剣、鉄鉾、刀子も同様な分布であるという。魏志倭人伝には、「倭人は鉄の鏃(やじり)」を使うと記されている。また、絹織物を作ることも記されている。弥生時代から古墳時代前記の絹製品については、福岡県では15地点で出土しているのに対して、奈良県ではわずか2地点となっている。その他勾玉の出土数も福岡県は奈良県の10倍程度になっている。考古学が示すデータからも、女王の都する所が奈良とはとても言えない。


 以上述べたように、文献的にも、遺跡等から発掘された考古学的な物的根拠からも邪馬壹国(邪馬台国)は近畿(奈良)にはない、と考えられる。
 次に銅鏡について述べる。三角縁神獣鏡の出土数は福岡県56に対して、奈良県120となって奈良県の方が多い。しかし、三角縁神獣鏡は日本では400面程度出土しているのに対し、中国からは1面も出土していないことから分かるように、日本で作られた鏡である。すべて4世紀以降の古墳から出土していることから古墳時代の鏡であり、卑弥呼の時代3世紀と時代が異なる。魏志倭人伝が伝える魏から女王に与えられた100枚の銅鏡とは全く異なるものである。
 尚、佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』のp.127以下の「「邪馬壹国=纏向遺跡」説の考古学者に問う」という論文で、邪馬壹国は近畿(奈良)にはないことを明確に示している。

 

『鏡が語る古代史』(ⅰ)

 最初、景初4年銘の鏡の問題などには触れずに、この項はここで終わろうと思っていた。魏志倭人伝の2000文字程の漢文を見て、何回か魏志倭人伝を読んだことがある人なら、ほとんどの人がこの項目については同意してくれると考えていたからである。ところが、最近出版された邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(安本美典著、勉誠出版2019年9月刊)を読んでビックリし、考えが変わった。この本は、安本氏が新たな説を展開しているかもしれない、との期待感から読んでみた。しかし、自説を展開しているのはわずかで、全体の三分の二は、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書2017年5月刊)への批判と、どうしてこのような誤りが生じたかの解説である。「この本(『鏡が語る古代史』)は、誤読・誤訳・勝手読みのオンパレードである」と安本氏は激しく断罪する。この本が刊行された直後の2017年8月には、アメリカの科学誌「サイエンス」に載せた論文に改竄があったとして、論文は撤回され、東大の分子細胞研究所の教授が処分されていることを記し、京大教授、東アジア人文情報学研究センター長の岡村秀典氏が書いたこの本は、「研究不正」の域に達していると述べる。安本氏がこのような激しい言葉で批判しているので、『鏡が語る古代史』(岡村秀典著、岩波新書を私たちは2回読んでみた。
その結果、『鏡が語る古代史』は「困った本」であり、同時に「惜しい本」であるという感想をもった。「困った本」であることは、以下の3つの理由による。(1) 自説に都合が悪い事実や対立する説についてはほとんど触れずに叙述をする姿勢で書かれている。(2) 自説に有利になるように禁じ手(文や事実の改竄)が使われている。(3) 「はじめに」で魏志倭人伝に記された銅鏡百枚と三角縁神獣鏡について簡単に触れている。1章から6章までは古代中国、主に前漢後漢時代の銅鏡の図象の様式や銘文の変化を追っていく。そのときの権力との政治的な結びつきよりも、銅鏡が日用品(化粧道具)であるという観点が必要以上に強調されているように感じた。しかし、7章の最後で急に三角縁神獣鏡を登場させ、8章では、政治と権力との関係を強調して、よく読んでみるとしっかりとした理由も示さず、「魏が倭王に贈った「銅鏡百枚」はこの年に鋳造された三角縁神獣鏡をおいてはみあたらない。」(p.225)と思い込みだけを性急に述べる。


 「惜しい本」であるという感想は次のことからである。主に前漢後漢時代の銅鏡の写真が図43まで、計100枚位示され、図象や銘文が解説されている。新書本にこれだけの内容を盛り込むことは見事だと思った。方格規矩四神鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡、…と銅鏡は様々に分類され、漢字での難しい名前が付けられている。写真とともに示されているので、このような名称も理解でき、また各地の工作氏や工房についても知ることができた。さすが公費をついやした共同研究の成果であり、この点では岡村氏に感謝したい。ただ、安本氏が示すように根本的な読み違いがあると思われ、一面的な解釈のまま叙述されているので、考察の部分では、他の本と読み比べてみないと参考にできないな、と感じた。

 

『鏡が語る古代史』(ⅱ)

 岡村秀典氏は、「三角縁神獣鏡は、魏の皇帝が倭のために洛陽で特別にあつらえた『特鋳品』である。」との説(『特鋳説』)である。1986年京都府福知山市の天田広峯遺跡から景初4年の銘が書かれた三角縁神獣鏡が発掘され、更にもう一面景初4年銘の鏡が発掘された。よく知られているように、魏の明帝は景初2年(238年)12月に重体になり、景初3年(239年)1月に死亡した。景初3年の翌年は、年号が変わり正始元年(240年)となり、景初4年は存在しない。もし、魏の首都の洛陽で作られたのなら、景初4年銘の銅鏡が作られることはない。平成は平成31年(2019年)4月で終わり、令和元年(2019年)5月から令和になった。平成32年は存在しない。日本の首都東京で作られ、日本国が外国に贈る品物に平成32年と書かれることがあるだろうか。


 岡村氏は景初4年銘の三角縁神獣鏡も陳氏の作であるとし、その特徴を述べる。(p.216)しかし、景初4年が存在しないことには全く触れない。その代わりに、その10ページほど前に「実在しない年号の鏡」という項目をわざわざ立て、実際に呉の国で「実在しない年号の鏡」があったことを示し、何とか「実在しない年号の鏡」である景初4年鏡を正当化しようとする。中国社会科学院考古研究所長であった王仲殊の説を説明し、呉時代に無かった年号である「嘉興」銘の神獣鏡が、実は呉の皇帝孫皓が自殺を命じられた父親の名誉回復のために作らせた鏡であることを示している。しかしこの件は、皇帝が自らと父の名誉のために「実在しない年号の鏡」をわざわざ作らせたのであり、景初4年銘の三角縁神獣鏡は、この鏡が本当に洛陽で作られたのか、工人は洛陽に居たのかが問われているのであって、問題が全く異なる。


 中国の考古学の権威である王仲殊は、「呉の神獣鏡工人が日本に渡来して三角縁神獣鏡を製作した。」とする説を述べ、三角縁神獣鏡は、魏から女王に与えられた100枚の銅鏡とは全く異なるものであるとしている。何箇所かで王仲殊の説を論拠に論を展開している関係からか、さすがに王仲殊の説は紹介して、批判をしている。しかし、安本氏が指摘しているように、岡村氏はこの批判の中での「徐州」の捉え方を間違えていると考えられる。王仲殊は安本氏への手紙の中で次のように述べる。
「20世紀の80年代以降になると、中国本土および朝鮮半島の地域内に、三角縁神獣鏡の出土例が完全に存在しないことが、確認されたのち、魏鏡説(富岡謙蔵提出)は、成立がむずかしくなりました。とくに、1986年10月に2面の景初4年銘の三角縁盤竜鏡が発見され、いわゆる『特鋳説』もまた、立足の余地を完全に失いました。これは鉄のように固い事実です。何人も、否認することができないことです。…」(邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』p.131)


 安本氏は岡村氏への批判を、『鏡が語る古代史』の4章の記述から始める。銅鏡工房「尚方」の中に生れた「青盖」という名のグループについて、その読み方を岡村氏は「青盖」(せいしょう)と読んで解釈しているが、「青盖」(せいがい)と読まなければならないと述べる。岡村氏は、「…カールグレンが考証したように、その「盖」は「羊」に「皿」を加えた字で、「祥」の仮借であり、「青祥」は緑色の吉祥なる金属をいう。有志の鏡工たちは「青盖」を雅号とするグループを「尚方」工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」(『鏡が語る古代史』p.80)と記述する。岡村氏は「青盖」(せいしょう)と読んでいる。しかし、様々な辞書を調べてもそのように読むことは記されていず、「青盖」(せいがい)と読むことが正しいと安本氏は指摘する。「青盖」(せいがい)、「黄盖」(こうがい)、「三盖」(さんがい)は王室の機関名に由来し、「青盖」(せいがい)は、おもに皇太子や王族のもちものの製作を担当したグループとする。邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』のp.88以降で筋の通った見解を述べている。少なくとも、『鏡が語る古代史』の第4章は全面的な書き直しが必要だろうと思われる。


 「青盖」などを金属とする説は、カールグレンが今から80年以上前の1934年の論文で説いた説であり、1990年代以降に王仲殊、古代史研究者三木太郎、考古学者の近藤喬一、奥野正男らは安本氏が示した説を述べている。岡村氏は80年以上前の説に立脚していて、先人の説を見ていない、と安本氏は批判する。

 

『鏡が語る古代史』(ⅲ)

 1998年の発掘調査で、天理市の黒塚古墳から大量の33面の三角縁神獣鏡が出土した。現在「日本で出土した三角縁神獣鏡の個数は厳しく見ても375をこえ、出土不明なもの等を併せると400は優に超える」(邪馬台国の鏡』(奥野正男著、梓書院2011年4月刊)という。卑弥呼に贈られた銅鏡100個の4倍ほどの数である。一方、王仲殊等が言うように、中国からは1面も出土していない。『鏡が語る古代史』p.214には「…景初3年(239)「陳是(氏)作」三角縁神獣鏡のモデルになったのは、190年ごろの画文帯同方式神獣鏡である。洛陽市吉利区の出土例は、径15センチ、鈕の右に西王母、左に東王公があり、…」と書かれ、「神獣鏡が出土」したと記している。ところが、この記述の元本の『洛鏡銅華上』(中国・科学出版社2013年刊、岡村秀典監訳)でも、この中国本の翻訳の『洛陽銅鏡』(科学出版社東京、2016年刊)でも、同じ鏡が「採集」と書かれている。「出土」ではなく「採集」では、年代や場所が確定できないからまずいと判断したのだろうが、自分が監訳した本の言葉を変えてしまうのはどうかと思われる。


 また、『鏡が語る古代史』p.224では、『全唐文』という古文献の一部を引用して、「むかし魏は倭国に酬るに銅鏡・文に止め、漢は単于に遺るに犀毘・綺袷に過ぎず、…」(奏吐蕃交馬事宜状)と書かれている。ここに示された「銅鏡・文」は『全唐文』の原文で確認してみると「銅鏡・文」であり、「」(かねへん)が勝手に「」(いとへん)に書き換えられている。
 山口博氏がこの『全唐文』の奏吐蕃交馬事宜状の記事を根拠にして、「三角縁神獣鏡は魏が倭に贈るために、特別に注文して作った鏡である」という説(『特鋳説』)を2011年に週刊誌で発表したが、その説を補強するためだろうか、しかし、原文を変えてしまうことは許されることなのか。早速、次ページのp.225では、山口博氏の説を紹介し、最後に、「…「銅鏡百枚」は…三角縁神獣鏡をおいてほかにはみあたらない。」と自分の結論を急ぐ。


 この本は「惜しい本」であり、できれば改訂版を出してもらいたいと思う。それが叶わないなら、せめて、岩波書店の方からp.214の5行目の「出土」を「採集」に、p.224の8行目の「紺」を「鉗」に直す正誤表をつけて販売してくれるといいな、と思った。「新書」であるから、高校生なども読むだろう。解釈に大きく作用する、原文から変えられた字がそのままで販売されることは許されないと思うのだが…。
 思いのほか長くなったので、この本に関してはこの辺で切り上げる。ただ、漢の時代の銅鏡にこれほど豊富な知識をもつ著者が、禁じ手を使ってまで示そうとする説明がこの程度であることは、逆に言えば、三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に贈られた鏡でないことを明確に証明しているようなものである、という認識に私たちは改めて達した。前に少し触れた邪馬台国の鏡』(奥野正男著、梓書院)は、三角縁神獣鏡古墳時代の国産の鏡であることを述べている。資料を伴った本格的な本で、読み切るのは大変だが、反対の説もキチンと紹介して、自説を説明する姿勢で書かれていると思われるので、参考までに揚げておきたい。

 

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(3) 魏志倭人伝での1里は約76m

 昔、高校での授業で、魏志倭人伝に書いた通りに進むとすると、1里=434mだから、行程は日本列島からはるかに飛び出てしまう。従って、魏志倭人伝の記述は途方もないものであり、そのままでは全く根拠にすることができない、というように習った記憶がある。
 それに対して、③『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日文庫1971年刊)の記述は衝撃的であった。漢・唐の長里に対して、魏・西晋の短里があり、魏志倭人伝はこの短里に基づいて記述されているとし、1短里=75m~90mと述べる。また、「邪馬壹国」の「壹」がどの様な経過を辿って「臺」と変化し、「邪馬台国」と言われる様になったのかの説明や「島めぐり」読法などによる記述は、すごく説得力があったことを記憶している。

                   f:id:kodaishi:20191226201541j:plain(①p.224の図7-1より)

 魏志倭人伝では狗邪韓国から対馬まで千余里と述べられている。朝鮮半島から対馬までの実際の距離は約60Km程度だから、千里で割り算をすれば、1里≒60mとなる。魏志韓伝では、韓は方4千里と述べられている。朝鮮半島の東西の幅を300Kmとすれば、これも割り算をして、1里≒75mとなる。帯方郡-狗邪韓国-対海国-一大国-末盧国の地図を見ながら魏志倭人伝を読めば、1里=434mという解釈はどう見てもおかしいと思うのだが、古田氏の③『「邪馬台国」はなかった』を読んだ後、このようなことすら据え置かれて魏志倭人伝が解釈されてきたかと思って、既存の日本古代史に対して不信感を強く感じたことを覚えている。
 古田氏は言う。従来、長里は中国の一貫した里程であると考えられてきたが、魏・西晋朝公認の短里(1里=77m)がある。「倭人伝の里単位は韓伝と同じであり、韓伝は高句麗伝の里単位と同じであり、そしてさらには、本伝の帝紀に出てくる里単位であるということになります。」(④『倭人伝を徹底して読む』p.148)
 これに対して、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で孫氏は、「魏・晋里は1里=434.16mであり、三国志の里単位は、韓伝と倭人伝だけ例外としてすべてこの魏・晋里と一致し、多くの学者達によって考証済みだ。」(②p.32)と反論する。更に、魏志で韓伝と倭人伝のみ5倍の誇大表示されていることには深い訳があるとし、『三国志』の著者の陳寿西晋を築いた司馬懿(宣帝)との関係などから説明している。


 佃收氏は古田氏を支持し、『邪馬一国の証明』(古田武彦著、角川文庫)の巻末に載せられている谷本茂氏の論文「魏志倭人伝と短里『周髀算径』の里単位」によって周の時代に確かに短里があったことが立証されたとし、このことが示されたのは30年以上前のことだ、と指摘する。
 安本美典氏は⑧『邪馬台国ハンドブック』の中で次のように述べている。「三国志の中には、中国本土内の距離を、「里数」で記している箇所が何箇所もある。中国本土内の二地点間の距離の記載を、地図上の実測地と比較してみると、1里は、ほぼ400m強となる。これについては、篠原俊次が、『計量史研究』という雑誌に発表された極めて詳細な研究がある。(当時は、中国本土内でも、1里は100m弱であったとする古田武彦の説があるが、これは、実測地と、ほとんど合致していない。)白鳥庫吉も、『魏志』や『呉志』などにあげられた「里数」について、いくつかの考察をし、それらが、だいたい標準里(1里=400m強)に合致していることを論じている(「倭女王卑弥呼考」)。」として、古田説を否定している。
 木佐氏は、①『かくも明快な魏志倭人伝の第3章を短里と長里と題し、詳しく述べている。「魏志倭人伝を含む東夷伝の「里数」は、基本的に「歴史記述」ではなく、西晋の読者への「現状記述」という形で用いられており、西晋の正式な里単位が「短里」であったことを示している。」(p.103)とする。また、『魏志』明帝紀の記事について、対立する山尾幸久氏と古田武彦氏の説を詳しく検討し、山尾氏の説に賛成している。更に、「真理文」と「出来事文」の違いについて説明し、「真理文」については、西晋の正式な認識であるから短里で書かれている、とする。ところが「出来事文」になると過去の出来事だから、資料にあったすべての長里を短里に直すのは難しく、特に「引用文」については、長里のままで記述するのが自然である、と述べる。そして、『三国志』は東夷伝序文に強調されているように、魏代から西晋代にかけて、倭国を中心として東夷に対する新たな認識が広がったことを、直前の『漢書』の欠を補うものとして誇っているのが特徴であり、したがって「真理文」としての里程記事も東夷伝には集中的に出てくる、とする。それが「なぜ三国志では、長里と短里が混在し、魏志倭人伝では短里だけが出てくるのか」に対する理由ではないか、と説明している。尚、この本では、『三国志』の中で短里によって書かれている記事、長里によって書かれている記事をともに多く例示し、短里、長里の一方だけで記述していることはないことを確認できる。
 何人かの説を並べてみた。ただ、どの論者も、魏志倭人伝に出てくる記事の里数の比率については正確である、という認識である。このことから、1里≒76mと考えることが妥当であると考える。

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  日本古代史についての考察

(4) 景初2年が正しい

 魏志倭人伝の後半の部分で、魏と倭国の交渉の記録が示される。景初2年(西暦238年)6月倭女王は大夫難升米を郡に詣らせ、魏に朝貢を願い出た、と書かれている。ところが、前に触れたように、この事績の年を、『日本書紀神功皇后39年の記事では景初3年(239年)としている。また、『梁書』倭伝でも、景初3年と記している。孫氏は次のように述べる。「…この時期魏は、まだ帯方郡を接収していない。景初年間(237~239年)に魏は、遠征軍を派遣し、遼東半島軍閥公孫淵を倒し、帯方郡を奪い、朝鮮半島に進出した。「魏志公孫淵伝」では公孫淵の死は景初2年8月23日だ。したがって、公孫淵帯方郡を支配している景初2年6月に、倭国の使者が魏の帯方郡朝貢を願い出ることは起こり得ない。…したがって、本書は景初3年6月が正しいとする。西暦239年だ。」(②p.54)安本美典氏も同様な理由で景初3年説であり、景初3年が通説になっていた。


 これに対して、古田武彦氏は③『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房p.92~)の中で、魏志倭人伝に書かれているように、景初2年が正しいことを主張した。原文は、文字を変えないことが原則であるが、まず古田氏の見解を見てみよう。
 景初3年説が通説になった経緯について、古田氏は次のように述べる。(1)新井白石が、(上の孫氏と同じように考え、)魏が公孫淵を討った景初2年8月以降であるとした。(2)松下見林が、日本書紀に景初3年とあるからとした。(3)『晋書』はそうではないが、『梁書』の著書の姚思廉はやはり(上と同じように考え、)「魏の景初三年公孫淵誅せられて後に至り、卑弥呼始めて使いを遣わして朝貢す」(『梁書東夷伝倭伝)と記している。(4)内藤湖南は(やはり上と同じように考え、)更に『梁書』に景初3年とあるからとした。


 それに続いて、景初2年が正しいとする理由を次のように述べている。(1)景初2年6月に卑弥呼の使いが帯方郡へ行った時、帯方郡の太守劉夏は役人を遣わし京都まで送っている。これは特別な計らいであり、公孫淵と戦争中だったからである。戦争は景初2年8月に終わっているから、もし卑弥呼朝貢が景初3年6月ならば戦争は既に終わっており、そのような扱いはしなかった。(2)卑弥呼の奉献物は男生口4人、女生口6人、班布2匹2条匹である。余りに貧弱である。使いの者も2名と少ない。これは戦争中だったからである。(3)その年(238年)12月に、詔書して、親魏倭王の金印紫綬や数々の下賜品を「皆装封して使人の難升米・牛利に付し、還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家、汝を哀れむを知らしむべし」とある。ところが、難升米等は手ぶらで帰ってきている。送られてきたのは翌々年の正始元年(240年)である。なぜこのようになったのか。それは、景初2年(238年)12月に明帝が急病になり、翌景初3年(239年)正月に死去したから、諸行事は1年間中止されたことによる。詔書には下賜品について書かれているが実際には難升米等には渡されなかったのである。このように考えると、卑弥呼朝貢詔書や下賜品の拝仮についての疑問が解けるが、景初3年としたなら、謎は解決されないとする。
 更に、魏志八・二公孫伝の記事から、景初2年6月には魏は水陸両路から遼東の公孫淵の城下に殺到し、海上を制圧して、大勢は決していることが分かる。卑弥呼朝貢は、動向を見極めた素早い「戦時遣使」であり、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にある、とする。


 佃收氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.361~)で、『三国志』から引用して次の様に述べ、古田説を支持する。「景初中、明帝密遣帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣越海定二郡」(『三国志』韓伝)
(訳)<景初中(237~239年)に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕、楽浪郡太守鮮于嗣を遣わし、海を越え、二郡を定める。>景初中に、明帝は密かに帯方郡の太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。景初2年8月に公孫淵は討伐されるから、この「景初中」は景初2年8月より前である。一方、魏志倭人伝には、景初2年6月倭女王は大夫難升米等を遣わし帯方郡に詣で、帯方郡の太守劉夏は吏を遣わし、将に送りて京都に詣る、と書かれている。また、使者が帰国する時も、其年(景初2年)12月帯方郡の太守劉夏は使を遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利を送る、と書かれている。この記事から、景初2年6月から12月まで帯方郡太守は劉夏であることが分かる。そうすると、帯方郡太守劉昕は、劉夏の前の太守ということになり、景初2年6月には劉夏が太守であるから、景初2年6月より前に太守を交替している。明帝は、景初2年6月より前に太守劉昕などを派遣して、帯方郡楽浪郡を平定している。佃氏が指摘する『三国志』の記事も、景初2年6月には、帯方郡は既に魏の支配下にあることを示している。古田氏や佃氏の説の方が筋が通っており、私たちも景初2年(238年)が正しいと考える。

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【Ⅲ】 個々の論点

 さて、以上の考察に続いて、個々の論点について考えてみよう。

(1) 対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?

 

 魏志倭人伝で、対海国(対馬国)は「方可四百餘里」と書かれている。現在は、二つの島に分かれているが、当時はつながった一つの島であった。名前の呼び方が紛らわしいので、他の本と同じように、下島という名の北側の島は上県郡で、これを北島、上島という名の南側の島は下県郡で、これを南島と呼ぶことにする。                       

f:id:kodaishi:20191227161648j:plain(左①p.261図8-2より、

                             右⑧p.87地図7より)
 古田武彦氏は、南北両島では、南北と東西の長さが違い過ぎて、「方可四百餘里」の表現に適さないとして、「対海国」は南島だけを指していると述べる。南島と一大国(壱岐)は方形に近く、それぞれ「方可四百餘里」と「方可三百里」と書かれているから、両島をそれぞれ半周すると2倍の八百余里と六百余里になるとし、これを「半周」読法と名付けている。
 孫氏も全く古田氏と同じ考えで、「方可四百餘里」は方形を表しているとする。魏使の航路は、西側から浅茅湾に入り、大船越を越える航路だとする。大船越は、江戸時代に開削工事を受けるまでは陸地がつながっていた。しかし、弥生時代の海面は今より高かったので、船越の古代水道を抜けることができた、と孫氏は述べる。
 

 これに対して、木佐氏は「方○里」というのは、面積の一般的な表示法であり、正方形に換算して面積を示せば分かり易いので、このような表現がされたとし、例を示して反論した後、次のように述べる。「…昔は船を引いて陸を越え、浅茅湾対馬海峡をつないだのが、地名の由来である。浅茅湾の南東隅に位置する大船越の南は、数百メートルで対馬海峡だ。1672年に、この大船越瀬戸の開削工事が完成した。魏志倭人伝の時代、対馬は一つの島であった。南島自体も、南北方向は約二十七キロ(約三百五十五里)、東西方向が平均十二キロ、最大でも二十キロ程度(約二百六十里)だから、正方形からはほど遠く、「方可四百餘里」とも大きくずれている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.262)
 底が平らな倭の船ならともかく、魏使の船は大型構造船なので、多少海面が高かったとしても引いて陸を越えることは無理ではないだろうか。そうすると、どの港に寄港したのだろうか。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』では、最初に北島の港に寄港したとする見解が多いとし、(1) 北島、佐須奈 (2)北島、佐護 (3)北島、鰐浦などを揚げている。北島、鰐浦は、神功皇后新羅に渡るとき、ここから出発したという伝承があるという。南島の方が、当時も人口密度が大きかったとみられ、対馬の都のあったのは南島の可能性の方が高く、北島の港に寄った後、南島の港に到着したのかもしれない。


 それに対して、松下孝幸氏は『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』(長崎新聞新書)(p.104)の中で、「最近の発掘調査で、この(対馬国の)中心集落は峰町の三根遺跡ではないかと推定されている。」と述べている。松下孝幸氏は、日本人の起源を明らかにする目的で、1万体にも及ぶ人骨を見てきた医学博士である。この見解だと、北島に都があることになる。
 今後、対馬の遺跡の発掘等が進展して当時の様子が明確になってくると、魏志の航路も確定できるかもしれない。しかし、今の段階では、単純に西側から浅茅湾に入り、大船越を越え、やがて対馬海峡に至るルートは無理があるのと思われる。そうすると、古田氏の「島めぐり」読法は成り立たなくなるのではないか。更に、古田氏は対馬壱岐で港に到着した後に、わざわざ魏使達が島内を陸行すると主張している。これはもっと無理があるのではないだろうか。

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(2) 「末盧国」で上陸した港はどこか?

 帯方郡から朝鮮半島に沿って船で狗邪韓国に到着し、対馬壱岐を経て「末盧国」に上陸している。古田武彦氏は「陸行1月」を説明するために、「韓国国内を陸行している」としているが、これは論外としていいだろう。帯方郡から港まで行き、船で出発する。その後、韓国内で一旦船から降りて陸行し、その後また船に乗り狗邪韓国に到着するという事は考えられない。「陸行1月」は別の観点から説明されなければならない、と思われる。
この上陸した「末盧国」はどこだったか、について考察してみよう。
 古田武彦氏は東松浦半島呼子唐津、浜崎が候補として考えられるとし、一大国との距離が千余里であることなどから、唐津であろうとしている。(③『「邪馬台国」はなかった』)孫栄健氏は、「…現在の松浦半島の唐津湾岸と定説される。考古学の成果によれば、その中心は唐津市の桜馬遺跡から鏡山地区の宇木汲田遺跡であると言われる。」(②『決定版邪馬台国の全解決』p.159)と述べ、行程中の末盧国の基点を松浦川河口と見て、行程として書かれた内容に見事に一致すると述べる。木佐敬久氏は「末盧国は、通説どおり唐津でよい。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.255)と述べ、「末盧国の港は、現在の唐津港より東南にあり、旧・松浦川の河口を少し遡ったあたりと思われる。」(同p.258)としている。末盧国の位置については、古田、孫、木佐氏、三氏ともほぼ同じ見解である。


 これに対して、佃收氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』(p.24)の中で、長年タグボートの船長をしている高橋実氏の説を紹介しながら、呼子町名護屋港であるとしている。「船を長期間停泊させるには良港が必要である。博多湾唐津湾は遠浅であり、丸木舟には最適であるが大型船には不適である。北部九州の中で大型船に最適な天然の良港は名護屋である。魏の船は大型船であるから、名護屋を港に選んだのだろう。」と、高橋氏の見解を書き、続いて「…豊臣秀吉も朝鮮征伐の時に名護屋を港に選んでいる。私は高橋氏の「末盧国=名護屋」説に賛成である。」と述べている。
 作家の高木彬光氏は、著書⑨『邪馬台国の秘密』の中で、魏の使節の上陸港を宗像海岸の神湊としている。東松浦半島呼子唐津、浜崎などに使節が上陸したとすると、次に向かう伊都国へは唐津街道(現在の国道202号線)を通って行くことになる。ところが、卑弥呼の時代の3世紀頃は今より海岸線が6mくらい高く、今の唐津街道の大半が海の中に消えてしまう。歴史学者達が言う伊都国への道は存在しないのではないかとし、東松浦半島への上陸は考えられないとする。続いて、玄界灘は風が強く、強い風の日が少ない8月ころが渡航には便利であることを述べ、「夏の8,9月ごろといえば、…台風の季節に入っている…なるほど、魏使たちが上陸して、邪馬台国へ行っている間に、台風か何かにあって、船をやられてしまっては、帰国するにも手段がなくなって来ますね。…」(⑨p.288)と述べる。その結果「そういう風に対するそなえまで考えると、博多湾方面に、良港は一つしか考えられないのだがなあ…宗像海岸、神湊-…僕には、風に対して強い古代の港は、博多湾では、ここしかないように思われるんだ。」(⑨p.289)と神湊説の理由を述べている。
 ⑧『邪馬台国ハンドブック』を見ると、末盧国=佐世保説もあり、この説を唱えるのは中国人学者に多いという。壱岐から「千余里」であることを重視した見解だろう。


 それぞれの説を比べてみて、私達は魏の使節の上陸地は、佃氏や高橋氏が述べる名護屋港だと考える。こう考えたのは、主に3つの理由からである。1つ目は佃氏の次のような指摘による。「当時の中国の船は大型構造船である。150-300人は乗れる大きな船である。安全な航海ができる。一方、弥生時代の日本列島の船は丸木舟である。せいぜい20-30人程度しか乗れない。波が荒いときは危険である。また、丸木舟では波を被る。下腸品は絹織物だけででもトラック1台分はある。(更に銅鏡100枚)魏の使者はこれらを海水で濡らすことなく無事に届けなければならない。丸木舟ではとても無理である。魏の使者は危険性から見ても、丸木舟には絶対にのらないであろう。」(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.102)大型構造船が長期間安全に停泊できるのは、名護屋港と思われる。秀吉が使っていないところを見ると、宗像海岸の神湊港は大型構造船には適さないのではないだろうか。
 2つ目は、魏志倭人伝に「草木茂盛し、行くに前人を見ず。」と書かれた文面による。「末盧国」では前の人が見えないくらいに、草木が繁茂していると言う。倭人の活動では、丸木舟が使用される。したがって、水深が深過ぎる名護屋港は、倭人の活動には適していない。魏の使者が来たときだけ使われ、普段は余り使われない。だから道もないくらいに、草木が繁茂しているのではないだろうか。


 3つ目は、魏志倭人伝の次の行程文「東南陸行五百里到伊都国」による。「末盧国」から「東南」方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着するという。「伊都国」は古田氏、孫氏、佃氏共に定説のように福岡県前原市付近だとしている。「末盧国」の位置については、古田氏、孫氏が唐津であるとする。地図上で唐津から前原方面を見ると、東北の方向になる。魏志倭人伝が言う「東南」の方向とは全く異なる。古田氏は、この点を解決するために、「東南陸行」は「末盧国」から「伊都国」への方向ではなく、「末盧国」を出発する時の始発方向であると述べ、「道しるべ」読方と名付けた。確かに唐津市を出発して前原市に向かおうとすると、唐津湾を回って行くから、始発方向は東南になる。しかし、そのような場合、東南方向に陸行500里(38Km)で「伊都国」に到着する、と言うだろうか。途中でいくらでも方向が変ることがあるから、始発方向だけでは、伊都国に到るとは言わないのではないか。


 次に孫氏はどの様にこの点を解決したか、②『決定版邪馬台国の全解決』の中で見ていく。「『魏志』によれば、末盧国より伊都国までは「東南陸行五百里」と述べられる。この伊都国を…その中心は福岡県前原町の平原弥生遺跡のあたりと推定される。すると、末盧国より「東南」ではなく「東北」の方向になる。だが、この記述は前述の『魏略』逸文に「東南五百里、到伊都国」とすでに「東南」が用いられるように、何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう。」(p.159)と述べる。これで理由を示したことになるのだろうか。『魏志倭人伝が方向「東南」を記し、『魏略』も同じ方向「東南」を記している。しかし、定説であるとされる「末盧国」=唐津、「伊都国」=前原市では、方向「東南」の説明が全くつかない。このような場合、定説である出発点や到着点を再検討することもなく、「何らかの根本資料の踏襲(史の成分)だろう」として、間違いがそのまま載せられているとする。なぜ間違えたのか、どのように間違えたのかについての考察を全くしないまま、結論を下している。このような論法が許されるなら、自分と異なる結論はすべてこの論法で否定できるのではないか。魏志倭人伝の行程文「東南陸行五百里到伊都国」についての古田氏と孫氏の見解には同意することができないことを示した。


 次に、佃氏と木佐氏の見解を見てみる。まず、佃氏の見解を見よう。佃氏は使節が上陸したのは呼子町名護屋港、また「伊都国」=前原市としている。現在の地図で見ると唐津前原市は東北の方向であり、呼子町名護屋港)→前原市は東の方向になる。佃氏は⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』の中で、野津清氏が邪馬台国物語』(雄山閣で明らかにされた次のことを指摘する。「中国人は西暦前1100年ほどまえから周髀(しゅうひ)の名で、太陽観測によって正確な方位の測定を見につけていたわけで、倭人伝が書かれた時代でもこと方位に関する確信は、1300年の伝習の上に築かれていたのだから、(中略)。現在、われわれが使っている地軸の方位を真北・真南で表した地図に当てはめる場合、軌道に対して、23度27分、地軸が東に傾斜しているから、これだけは、必ず修正しなければならない。そうしないかぎり、倭人伝の方位が今の地図の上では合わなくなる。」(⑦p.25)この古代中国人の方向で記せば、唐津前原市は東北東の方向であり、名護屋港→前原市は東南東の方向になり、ほぼ東南である。名護屋港→前原市魏志倭人伝が示す「東南」の記述に合っている。これが、上陸した「末盧国」=唐津を否定し、名護屋港とした3つ目の理由である。


 『シャレコウベが語る日本人のルーツと未来』の著者の松下孝幸氏は、この本の第5章倭人伝の弥生人の中で、次のように述べている。「この「末盧国」は現在の唐津市を中心にした地域に比定されている。確かにここには宇木汲田遺跡や青銅器を出土した桜馬場遺跡などの遺跡が集中しており、このあたりが「末盧国」の中心地だったと考えられている。しかし、私は「山海に濱いて居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水、深浅無く皆沈没して之を取る」という魏志倭人伝の文章からどうしても東松浦郡呼子町の大友遺跡を想起してしまう。大友遺跡は呼子町の海岸に存在する埋葬遺跡である。」(同p.131) 松下氏は、魏使は呼子町に上陸したような印象を持っている。氏は、同書の中での弥生人の人骨を3つのタイプに分類し、中国の古人骨との比較・検討をしている。また、大友遺跡の発掘調査の結果やそれから考えられることについても述べていて、大変興味深い。


 次に木佐氏の見解を見てみよう。木佐氏は「末盧国」=唐津とし、「伊都国」=現在の佐賀県小城市付近とする。まず、前に高木彬光氏が指摘したように、唐津から前原に向かうルートは大変危険であることを指摘する。「唐津糸島半島を海岸沿いに結ぶ「唐津街道」ができたのは、江戸時代である。現在でも、県道付近は道幅に余り余裕がない。というのは、背振山地の尾根が肥前佐賀県)と筑前(福岡県)を別ける境界となっており、この背振山地は海岸近くまで迫っている。このため通説のように、唐津から海岸伝いに「前原」方面に向かうのは「親知らず、子知らず」を通るように危険であった。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.273)
 方向については、古田氏や孫氏のように考えず、現在の地図上で素直に東南方向に、唐津から小城市付近に進む。松浦川厳木川の左岸、現在のJR唐津線と国道203号線が走っている川沿いの道を進む。これを、木佐氏は「佐賀ルート」と呼んでいる。小城市付近には国史跡・土生遺跡があり、佐賀平野西部では最大規模とされる弥生中期の集落跡が残っているという。確かにこのルートも考えられるのだろうが、「山海に濱うて居る」という魏志倭人伝の文言に適しているかはやや疑問が残る。「伊都国」から東南に百里(7.6Km)で、「奴国」に至る。この「奴国」は佐賀市付近とであると述べ、佐賀市北部の大和町にある国府跡はその有力な候補地であろうとする。また「奴国」の「二万余戸」の人口は、佐賀平野の穀倉地帯が支えていたとする。次に「奴国」から東に百里行くと千代田町辺りで筑後川にぶつかる。ここが「不弥国」であるとする。当時は筑後川下流も現在より西寄りを流れ、「不弥国」は有明海の湾奥、筑後川の河口近くになると述べる。

 

 「不弥国」の人口は「千余家」と「戸」単位ではなく。「家」単位で表されている。税を徴収する単位として「戸」があり、税を払う単位としてではなく、単に住居としての単位が「家」であると説明し、「不弥国」は港湾労働者の出入りが激しく、住民が収税の単位として成立しなかったのではないかと述べている。更に、筑後川の河口を肥前側(佐賀県)から筑後側(福岡県)に渡ったところが「邪馬壹国」であり、現在の久留米市城島町付近が入口である。また、女王の宮殿のあった場所は高良山ではないかとする。「高良山には筑後一の高良大社があり、現在でも神社建築としては九州一を誇る。この高良山を囲むように、神籠石の石が残っている。」(①p.307)「女王国は九州の東岸に面している。これらを考えると、女王国は現在の福岡県と大分県に相当する。」(①p.308)と結論付けている。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(3) それぞれの国の位置の比定

 前の節では、木佐説のみ一気に女王国の位置までいってしまった。ここで、各論者の特定する場所を一覧表にして見てみよう。 

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 この表から、魏志倭人伝が記す邪馬壹国への行程や邪馬壹国の位置などを、各論者がどの様に考えているかが分かる。

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(4) 「自郡至女王国萬二千餘里」の理解

 魏志倭人伝の前から三分の一の部分は行程や国々などの地理情報を著している。この部分の最後に記された「自郡至女王国萬二千餘里」の「萬二千餘里」を各論者がどう理解しているかを、次に見ていく。この文は、帯方郡から女王国までの道のりが一万二千余里であるとし、邪馬壹国の位置の比定に大きな意味をもつ。


<古田説>
古田氏の見解をまず示そう。古田氏は、自分の読み方に名前をつけて、説明している。「道行き」読法、「最終行程0」の論理、「島めぐり」読法などである。「道行き」読法では、「至」が先行動詞と結合していない場合は、傍線行程を表すとし、「奴国」や「投馬国」への行程は傍線行程であるとする。主線行程を進みながら、傍らの国々についても述べる実地的・実際的表記法であるとする。「最終行程0」の論理は、不弥国と邪馬壹国は接しているから、不弥国から邪馬壹国への行程は0とするものである。「島めぐり」読法は、「対海国」が「方可四百余里」、「一大国」が「方可三百里」と書かれていることから、対馬壱岐については、島の正方形の二辺をめぐる形で行程しているとするものである。以上の読み方により、古田氏は次のように帯方郡からの「萬二千餘里」を理解した。
(1) 帯方郡治――狗邪韓国 7000里(水行・陸行)
(2) 狗邪韓国――対海国  1000里(水行)
(3) 対海国         800里(陸行)
(4) 対海国―― 一大国  1000里(水行)
(5) 一大国         600里(陸行)
(6) 一大国―― 末盧国  1000里(水行)
(7) 末盧国―― 伊都国   500里(陸行) 
(8) 伊都国―― 不弥国   100里(陸行) (伊都国― 奴国 100里 は傍線行程)
(9) 不弥国(接する)邪馬壹国 計12,000里 (①『「邪馬台国」はなかった』p.200)
 狗邪韓国に至るまでに、韓国内でまた対海国や一大国でわざわざ陸行をするだろうか、という疑問は当然湧くだろう。


 <孫説>
 次に、孫栄健氏の理解を見ていこう。孫氏は様々な理由を述べるが、結論的には古田氏の「島めぐり」読法と榎一雄氏の「放射コース式」の読み方を活用する。帯方郡治から狗邪韓国までの7000里は、すべて水行とする。また、対馬島壱岐島の海岸を船で行くので、両島を半周することになる。正方形の二辺を加えるから、800里と600里を加えるが、これもすべて水行である。上の(1)~(6)まですべて水行とする。
魏志倭人伝の記述を見ると、初めは「方位+距離+地名」の順で書かれていたが、伊都国から先の記述では、地名と距離の順番が変わり「方位+地名+距離」の形式となる。これは、直線的に行くのではなく、放射コースに進むと解釈するのが榎氏の「放射コース式」の読み方である。それにより、伊都国→奴国、伊都国→不弥国は放射コースであるとする。更に、後漢書の記述などから「…邪馬台国は実は九州北部三十国の総称で、逆に女王国はその中心となる都のことだった。(1)郡より「万二千余里」で、(2)「自女王国以北……戸数・道里」より里数記事の最南端にあたる国は、すなわち奴国にあたる。」(②『決定版邪馬台国の全解決』p.201)と述べる。(詳しくはⅣ(1)2章参照)これによって、女王国は奴国であるとし、上の(8)が伊都国―― 奴国  100里(陸行) 計12,000里 となる。佃氏との違いは、結論的には(1)~(6)がすべて水行となり、(8)の不弥国が奴国に入れ替わるだけとなる。
(1)~(6) (すべて水行、他は同じ)
(7) 末盧国―― 伊都国   500里(陸行) 同じ
(8) 伊都国――奴国(女王国)100里(陸行)(伊都国――不弥国 100里は傍線行程)
           計12,000里     
 <佃説>
次に、佃收氏の説を見ていく。
 佃氏も「始度一海千余里至対海国」は海を渡るのだから、千余里は海岸に沿って渡るのではなく海を渡る距離で、「方可四百余里」とあるから、一辺が四百余里の海岸の二辺を四百余里ずつ海岸に沿って水行するとする。(1)~(7)まで、孫氏と同じ結論である。古田氏と同じように、「東南至奴国」と「東行至不弥国」の違いに注目し、「奴国」への「至」は動詞が付かず、「不弥国」への「至」は動詞「行」が付くことから、実際に行くのは「不弥国」で、「奴国」へは行かずに「伊都国―奴国100里」は傍線行程であるとする。その結果、古田氏の説の(1)~(6)をすべて水行としたものとなる。
(1)~(6) (すべて水行、他は同じ)
(7),(8),(9) 同じ


 <木佐説>
 次に、木佐敬久氏の見解を見る。木佐氏は、古田氏の「道行き」読法や「島めぐり」読法を取らず、これを批判して、別の説を提出する。通説では、「七千余里」の起点は帯方郡治であり、終点の狗邪韓国は釜山、金海付近とされている。しかし、木佐氏は「七千余里」の起点を帯方郡境とし、終点の狗邪韓国は統営(トンヨン)であるとする。統営(トンヨン)は、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した文禄の役のとき、大海戦の戦場となったところであり、以来水軍の本拠地となった場所でもある。更に、帯方郡治の場所の特定については、ソウルと沙里院の二説があるが、ソウルが正しいとする。また、『後漢書』の范曄はこの「七千余里」の起点を正しく理解していて「楽浪郡徼」と表現している、と述べる。帯方郡治から帯方郡境(韓国との境)までは短里で千三百里ある。この千三百里帯方郡治からの出発点に横たわっていたが、魏志倭人伝には記載されていない。陳寿が記載しなかった理由を、木佐氏は次のように述べる。「陳寿はなぜ、「帯方郡治~郡境」の「千三百里」をキチンと記さなかったのか。帯方郡が中国領であり、中国人には既知の情報であったために、記す必要がなかったからである。帯方郡治の具体的な名前が出てこないのも、同じ理由による。それにここは倭人伝である。倭人伝の中でわざわざ「帯方郡治~郡境」の距離を記すほうが、かえって不自然である。」(①『かくも明快な魏志倭人伝P.239)
(0) 帯方郡治(ソウル)――帯方郡境 1300里
(1) 帯方郡境――狗邪韓国(統営)  7000里(水行)
(2) 狗邪韓国(統営)――対海国     1000里(水行)
(3) 対海国―― 一大国                    1000里(水行)
(4) 一大国―― 末盧国(唐津)      1000里(水行)
(5) 末盧国―― 伊都国(小城市付近)     500里(陸行)
(6) 伊都国―― 奴国(佐賀市)        100里(陸行)
(7) 奴国―― 不弥国(千代田町)       100里(陸行)
(8) 不弥国(接する)邪馬壹国      計12,000里


 邪馬壹国は、不弥国(千代田町)から筑後川を東側に渡った所(城島町付近)を入口とし、高良山に宮殿があり、現在の福岡県・大分県にかけて展開されている大国であるという。従来は、帯方郡治から出発して邪馬壹国に至るのに「萬二千餘里」と解釈したため、すでに記載されている距離の合計10700里に何かを加えるなどして、12000里となるような説が考えられた。それが「道行き」読法や「島めぐり」読法、あるいは榎一雄氏の「放射コース式」の読み方であると批判する。対海国の「方可四百余里」、一大国の「方可三百余里」の表現を古田氏は正方形ととらえ、正方形の二辺を通るとする「島めぐり」読法を提出した。これに対し、木佐氏は「方○里」という表現は、古代における面積の一般的な表示法だとする。どんな形でも、正方形の面積に換算して示せば、広さはわかりやすいからだ、と述べる。これは、前の(1)対海国(対馬国)では、どこに寄港したのか?で述べた通りである。コロンブスの卵的な発想の説である。


 <安本説>
 次に安本美典氏の説を見よう。
 安本氏の説は、(1)~(6)までは、佃氏とほぼ同じである。伊都国から先は榎氏の「放射コース式」の読み方を重視し、これを「斜行式」の読み方と改めて名付けている。伊都国には一大率が置かれ、諸国を検察させている。また、郡使は伊都国に常駐している。このことからも、伊都国以後の行程はすべて伊都国を出発点とし、放射的(斜行的)であるとする。
(1) ~(6)  (すべて水行、他は同じ)
(7) 末盧国―― 伊都国 500里(陸行)  (伊都国―― 奴国  100里は傍線行程)
                     (伊都国――不彌国 100里は傍線行程)
(8) 伊都国――邪馬壹国 1500里
         計12,000里
 安本氏は伊都国を怡土郡糸島郡)としているから、邪馬壹国は怡土郡糸島郡)から1500里ほど離れたところにあるのではないかとする。このように考えた場合、福岡県夜須町のあたりに邪馬壹国の位置を求めることは可能であるとしている。


 <高木説>
 最後に、高木彬光氏の考えを見ていこう。高木氏はまず、行程の記述での里数をすべて足し合わせた数10700里に注目する。その里数の中で、7000里と3つの1000里に「余」が付いていることを指摘する。「…精密な海図があるわけじゃないんだし、たとえば現在のわれわれが日本全図を持ち出して、釜山-対馬壱岐-博多と直線距離を測って行くようなことは、三世紀の人間にとっては、それこそ人智を超越した神わざとしか思えなかったろう。彼等にとっては、航海に費やしたおよその時間から、距離の大ざっぱな見当をつけるしか方法はなかったろうし、そうなれば、切りすて切り上げ四捨五入さえ出来なくなったかも知れない。いわゆるプラスアルファといった含みで誤差を書き出す。それが、(1)から(4)にあらわれて来る「余里」の意味じゃないのかな?」(⑨『邪馬台国の秘密』(p.380))と、本の中の主人公神津恭介に言わせている。そして、7000里と3つの1000里はすべて概数であるから、この合計10000里を10%増しにして、残りの700里を加えれば、11700里となり、10000里を13%増しにして700里を加えれば合計が12000里になることを指摘する。このことから、里数合計10700里と「自郡至女王国萬二千餘里」と記されている12000里の差は誤差の範囲で収まる数であるとする。大らかな態度だな、と感心する他はない!?
以上、「自郡至女王国萬二千餘里」についての五氏の説を見てきた。

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(5) 「水行十日陸行一月」の解釈

 次は、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と記されている「水行十日陸行一月」をどう理解するかについて、やはり五氏の説を見ていこう。
 <古田説>
 「水行十日陸行一月」は、帯方郡治より邪馬壹国に至る全行程の全所要日数とする。帯方郡治→帯方郡西南端、狗邪韓国→対海国、対海国→一大国、一大国→末盧国の水行に要する日数が10日であるので、「水行十日」と書かれているとする。帯方郡西南端(韓国西北端)まで船で行った後、船を降りて、帯方郡西南端から狗邪韓国までは朝鮮半島を、東に進み次に南に進む、また東に進み次に南に進むという風にジグザグな陸行を繰り返すと、古田氏は言う。韓人に対するデモンストレーションでもあるので、このように進むとしている。この朝鮮半島でのジグザグな陸行、対海国と一大国での「島めぐり」読法での陸行、末盧国から邪馬壹国までの陸行の3つを合わせて、「陸行一月」であるとする。「陸行一月」を受け留めるために朝鮮半島での不自然なジグザグ陸行を考えたのだろう。


 <孫説>
 帯方郡治から邪馬壹国の道のりは「萬二千餘里」とする。『魏志』明帝紀の景初二年の条で、司馬懿将軍が軍行について述べる記事から、この時代では陸行1日40里を標準の行程としていた、と考えられるとする。そうすると、12000里は、40里で割り算をして30日となるから、陸行一月と考えることができると言う。また、唐時代の陸行と水行の規定が載っている政典から、水行の距離は陸行の3倍とすることができるとする。そうすると、水行1日は120里となり、やはり割り算をすれば、十日となる。これが水行十日であると言う。つまり、「自郡至女王国萬二千餘里」を陸行で表すと「陸行一月」、水行で表すと「水行十日」であると孫氏は解釈している。もともと、孫氏は短里には全く触れずに、長里についてだけ考察し、1里=434mとして議論をしている。長里での「萬二千餘里」は途方もない長さであり、そうすると記事も途方もないものになる。この記事が書かれたのは、当時魏が戦っていた呉に対し混乱した情報を流すのが原因であると言う。地理情報撹乱は司馬懿あたりから出て、司馬懿に気を使っている陳寿が「史の成文」として残したのではないかと、孫氏は述べる。


 この説は、私達には途方もないものに感じられた。第一に、単に「自郡至女王国萬二千餘里」の単純な言い換えのために、「水行十日陸行一月」と陳寿が書くだろうか。陳寿の文書は、素晴らしいリズムで、無駄のない表現しているからだ。それに、12000里は水行と陸行を合わせた里数であるのだろう。これを全部水行すると10日、全部陸行すると1月となると、机上の議論を展開しても意味がない。「邪馬壹国に行くのには、水行と陸行をしてこれだけの日数が必要ですよ。」、と中国の読者に伝えているのではないだろうか。第二に、『春秋』や『史記』や『漢書』を継ぎ、『前四史』の中でも特に銘文とされる『三国志』が一時的な軍事的事情のために、途方もなく誤まった記事をそのままにすることがあるだろうか。呉に知られたくなければ、しばらく公表を控えるとか、もっと別の方法があるのではないか。と言うより、このような史書は、一時的な事情とか、個人的な事情とかを突き抜けたもっと普遍的なものを希求する精神に支えられて書かれている、と私たちには思われる。私たちは、孫氏のこの説に同意することは出来ないと感じた。


 <佃説>
 次に佃氏の見解を見てみよう。
 佃氏は、「従郡至倭、循海岸水行」から始まり、「自郡至女王国萬二千餘里」で終わる部分を帯方郡から邪馬壹国へ至る「行程文」と呼び、この「行程文」は、それぞれの国への行程を示す<行程部分>とその国を説明する<説明部分>から成り立っているとし、「行程文」全体のこの構成をしっかりと見て読む必要がある、と注意を喚起する。邪馬壹国については、「南至邪馬壹国」が<行程部分>であり、「女王之所都 水行十日陸行一月…」が<説明部分>である。従来は、「水行十日陸行一月」を<行程部分>と考えたため、時間を距離に換算して邪馬壹国に至る距離に加算して、迷路に入り込んだ。しかし、「水行十日陸行一月」は邪馬壹国に対する<説明部分>の中にあるから、郡から邪馬壹国へ至る期間を説明しており、「水行十日陸行一月」の期間がかかると述べているのだと、佃氏は理解する。


 水行する区間は郡から末盧国までである。(1)郡~狗邪韓国7000余里、(2)狗邪韓国~対海国1000余里、(3)対海国~一大国1000余里、(4)一大国~末盧国1000余里と記されている。古代は日中(昼間)のみの航海であり、朝早く出発して日のあるうちに次の港に着く。1日の航海分を距離では1000余里と表現している。(2)と(3)と(4)では実際の距離に差がある。しかし、1日分の航海と考えれば、同じ距離とみなし得る。(2)と(3)と(4)の航海でそれぞれ1日、(1)の航海で前の7倍の7日となり、計10日である。対海国や一大国では海岸に沿った部分も水行する。当然の如く、海中で止まる事は出来ないから、対海国に着くまでに1日、一大国に着くまでに1日、末盧国に着くまでに1日となる。
 「水行十日陸行一月」はいろいろな解釈がされてきた。(ア)水行すれば十日、陸行すれば一月 (イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月 (ウ)水行を十日し、その後陸行を一月する。
上で見たように、孫氏は(ア)の解釈であった。古田氏は(イ)の解釈をしている。佃氏は(ウ)のように考える。末盧国から邪馬壹国は陸行である。これに一ヶ月の期間を要するのだろうか、という疑問がわく。これに対して、佃氏は次のように説明している。「…末盧国から伊都国への道は「草木茂盛 行不見前人」とある。人が通らないような道を、草木を切り開きながら通っている。(大型構造船が停泊する名護屋港は、倭人が使っている丸木舟には適しないため)この道は魏使が来たときのみ使用される道であり、普段は使われない。そのため、「草木茂盛 行不見前人」となるのである。そのため、多くの時間が必要になる。また川があれば、下賜品の絹織物を濡らさないように慎重に船に積み、川を渡る。量が多いので、何度も何度も船を往復させる。雨の日は休むであろう。さらに伊都国へ着くと歓迎の宴が幾日も催される。このように魏使は1月かかって邪馬壹国へ着いた。「陸行一月」は実際にかかった期間が書かれている。」(⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』p.45)確かに、末盧国から伊都国に進む道とされる唐津街道について、高木彬光氏は古代には成立していない道である、と述べ、木佐敬久氏はようやく江戸時代に開通した街道であると述べている。魏使たちがこの道を進んだとすれば、一ヶ月を要したかもしれない、と考えられる。


 <木佐説>
 木佐氏は、「「傍線行程」を「主線行程」と区別する書き方は、陳寿が先例とした『漢書』西域伝に示されている。同様に、「水行十日、陸行一月」が首都・洛陽からの総日程である根拠も、西域伝に示されている。」(①『かくも明快な魏志倭人伝p.298)と述べる。続いて、「西域伝の場合は、各国とも「王都」を明示したあと、必ず「首都」(長安)からの総距離を記している。……これをモデルとしたのが、女王国の「王都」邪馬壹国への行程記事である。」(p.303)とする。このことから、「首都」洛陽から邪馬壹国までの総行程が「水行十日陸行一月」であるとする。その意味は上で述べた(イ)水行を合計すれば十日、陸行を合計すれば一月であり、出発点等が異なるが、合計である点では古田氏と同じである。
 具体的には、洛陽から山東半島の煙台までで、「陸行一月」の大部分が費やされる。直線距離で850Km、道のりで950Kmを1日行程34Kmとすれば、28日となる。洛陽から山東半島への道路は、秦の始皇帝も利用したくらいだから早くから整備されていて、妥当な数字だと言う。続いて、「陸行の残りの二日は、末盧国から邪馬壹国までの七百里(53.2Km)余りである。」(p.323)と述べる。末盧国から伊都国までの500里(約38Km)を1日の行程とし、伊都国→奴国→不弥国→邪馬壹国は200里(約16Km)だが、邪馬壹国の入口(城島町)から高良山にある卑弥呼の宮殿までが更に200里程なので、約400里余り(約31Km)となり、こちらは「余裕のある1日行程であり、朝発って夕刻には卑弥呼に会うことが可能であった。」(p.324)と述べる。


 水行については、「山東半島の煙台から朝鮮半島の長山串へ渡って、ソウル(帯方郡治)の玄関・仁川までが「3日」、仁川から狗邪韓国までが「4日」で、一日行程はそれぞれ一六〇キロ前後。狗邪韓国から三海峡(各千余里、八〇~九〇キロ)は各1日で、計「3日」だ。三海峡の場合は「大海」であり、危険な夜の航海を避けて対馬壱岐に宿泊する。そのため行程が短くなっている。」(同書p.324)と述べている。これまでの論者は、「水行十日陸行一月」の出発点を帯方郡治又は境としていたが、木佐氏は魏の首都洛陽が出発点であると言う。ただ、大型構造船が唐津港に着いたとして、港での大量の絹織物、銅鏡等の荷を降ろす作業や伊都国などでの歓迎の挨拶や宴、また絹織物や大量の銅鏡等を筑後川を渡して運ぶ作業、卑弥呼の宮殿での儀式等が2日間で出来るかどうか、心配ではある。実際、魏志倭人伝では「草木茂盛行不見前」と書かれており、道を進むのが困難な様子を述べている。末盧国から2日で邪馬壹国到着は、少し無理な数字ではないか、と私たちには感じられた。
 一方、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」の直前の「南至投馬国水行二十日」について木佐氏は、「水行二十日」の出発点は不弥国であり、「投馬国」は奄美大島あたりを入口とする沖縄・琉球圏であると述べ、琉球特産のゴホウラ貝の経済的意味についても言及している。この点でも他の論者と異なる論考を提出している。


 尚、これらの結論を導く過程で、「方角+地名+距離」の形の叙述は傍線行程とする榎一雄氏の「放射コース式」の読み方は成り立たないと批判する。また、「至」の前に移動を表す先行動詞がある場合と先行動詞はなくともこれが省略されている場合は主線行程であり、それ例外は傍線行程とする古田氏の「道行き」読法を証明したとされる古田氏の「全用例調査」を改めて検討し、そうでない例が多くあることを確認している。その結果、「至」だけで主線行程になることがあることを示し、古田氏の「道行き」読法も成り立たないとする。
 <安本説>
 安本氏は、私たちの理解では、「水行十日陸行一月」について多くを語っていないように(私たちの勉強不足かも知れないが)見える。「陸行一月」は「陸行一日」の誤りではないかとした本居宣長白鳥庫吉などについても言及する。また古田武彦氏の説についても、感じたことを述べている。支持できる点もあるが、支持できない点もあるとしているように見える。


 <高木説>
 高木氏は、「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬壹国までの全コースに相当すると述べ、古田氏の朝鮮半島での陸行説を支持している。「金海または釜山から対馬まで水行一日、対馬壱岐間水行一日、壱岐、宗像間水行一日、……宗像神湊へ上陸してからの陸路は七百里にすぎないね。七里一キロとしてほぼ100キロ、江戸時代の旅行の標準で言ったなら、一日の行程は約三〇キロから四〇キロだが、この三世紀当時は道路事情も悪かったろうから、一日二〇キロとしてみようか。これにしても五日の陸行と見たらいいところだろうねえ」(⑨『邪馬台国の秘密』p.401)とする。次に「…そういう風待ちまで考えたら対馬壱岐という二つの島で五日ぐらいの日数がかかったとしてもふしぎではないな。その間には漕ぎ舟を使って、左回り右回りの両コースで島を一周し、そのピッチの数から周の長さを実測するようなこともあったかも知れない。…壱岐だったら、それこそ島中を歩いて一周したかも知れないし、九州の陸行と合わせて小計十日になる」(p.402)とする。「それでもまだ、陸行二十日に、水行七日が残っていますよ……」と、相方の推理作家の松下研三が続ける。次に、豊臣秀吉朝鮮出兵のとき、小西行長率いる第一軍がソウルに入ったのは、釜山上陸後二十日後であることを述べ、韓国内を陸行する際の時間的な目安にした後に、「…もし、帯方郡がソウルだとすれば、郡山あたりに上陸しそこから陸行に移ったかも知れない。また、伊勢説のように帯方郡が甕州(ようしゅう)半島にあったとすれば、仁川上陸、そしてその後の陸行はいよいよ自然になって来るね。とにかく、この部分の水行を七日と解釈すれば、「水行十日、陸行一月」という日程は、何の抵抗もなく理解できる」(p.404)と主人公の神津恭介に述べさせている。高木氏の説は、上陸した場所や魏使たちが進むコースは異なるが、「水行十日、陸行一月」の理解の仕方は古田氏とほぼ同じといってよいと思われる。
 また「南至投馬国水行二十日」については、帯方郡から出発して投馬国まで「水行二十日」と解しており、投馬国は宮崎県のどこかにある、と考えている。

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(6) 狗奴国の位置

 次に、狗奴国の位置について考察してみよう。
 21ヶ国の名が記される最後に「…有奴国此女王境界所尽」と述べ,続いて「其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王」と述べ、「自郡至女王国萬二千餘里」と続く。また、倭人伝の最後の方で、魏の張政が派遣される直前に「倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和」と記されている「狗奴国」の位置についてである。
 (4)それぞれの国の位置の比定のところで見たように、古田武彦氏は邪馬壹国の位置を博多と比定し、博多よりはるか東の大阪府茨木市を狗奴国の位置としている。また、孫栄健氏は女王国より東の海を渡った所としている。魏志倭人伝の150年ほど後に范曄が書いた『後漢書』倭伝には、朱儒国や裸国、黒歯国があることを記したすぐ前の文に「自女王国東渡海千余里狗奴国雖皆倭種不属女王」とあることから、両氏は女王国の東に「狗奴国」の位置を比定している。
 他の4氏は、九州の中で邪馬壹国より南の地方を揚げている。


 佃氏は、「其南有狗奴国…」の「其」は従来「奴国」とされてきたが、邪馬壹国であるとする。なぜなら、その前の「女王之所都……次有奴国此女王境界所尽」は、邪馬壹国の<説明部分>であるから、「其」は「邪馬壹国」である。したがって、狗奴国は邪馬壹国の南にあり、距離が書かれていないので、狗奴国は南側に接しているとする。また、『魏略』にも「女王之南、又有狗奴国。以男子為王。」と書かれていることを確認している。(⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』p.47)
 また、『桓檀古記』高句麗本紀の中から、次の文を示している。「時狗奴人與女王相争。索路甚厳。其欲往狗邪韓者蓋由津島、加羅山、志加島、始得到末盧戸資之境、其東界、即乃狗邪韓国也。」
(訳)<狗奴国は女王国と相争い、博多湾に出る道を塞がれた。狗邪韓国へ行こうとすると、津島・加羅山・志加島を経由して朝鮮半島の末盧戸資之境に到る。その東に狗邪韓国があるという。>本来、狗奴国は壱岐対馬を通り狗邪韓国に行っていた。ところが、邪馬壹国に邪魔されるので、壱岐対馬ルートよりも別の西のルートで朝鮮半島に行くようになった。邪魔をする邪馬壹国は博多の南の大野城市筑紫野市付近にある。そこを通過することが出来なくなった。狗奴国は邪馬壹国の南にあるからであると述べる。


 更に佃氏は論を進めて、狗奴国は筑後川より南にはないとする。もし、筑後川より南にあるのなら、最初から筑後川に入り、有明海から直接狗邪韓国に行くだろう。筑後川に入り、川から上がり、筑紫野市大野城市を通り、博多湾に出て、船を調達して狗邪韓国に行くようなことはしないからだとする。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? での佃氏の論考のところで示したように、この時代の方向は23度27分修正しなくてはならない。そうすると、邪馬壹国の南側に接していると記しているから、狗奴国の位置は甘木市朝倉町辺りになるとする。この地域は、安本氏が邪馬壹国があったと比定している地域である。
 次に佃氏は『契丹古伝』の次の記述に注目する。「洲鮮記曰、乃云、訪于辰之墟、娜彼逸豫臺米與民率為末合。空山鵑叫、風江星冷。駕言覧乎。其東藩封焉。彼丘不知、是誰行。無弔人。秦城寂存。嘻辰(ウン)氏殷、今将安在。茫茫萬古、詞綫之感、有座俟眞人之俟興而已矣。」(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.336)詳細はこの本を参照してほしいが、邪馬壹国が滅亡したことを示している。「辰之墟」は邪馬壹国のことである。「逸豫」は「壹與(いつよ)」であり、「娜彼逸豫臺米與民率為末合」は、次のように訳すことができる。「娜彼」の「壹與(いつよ)」と「臺米」は民を率いて(邪馬壹国を出て行き)もう二度と会うことはない。続く文の訳を、佃氏の本から写してみよう。<空山に鵑(ほととぎす)は叫び、風や江(川)や星は冷たい。駕言覧乎。其東藩封焉。彼の丘は是れ誰が行くかを知らず。弔人無し。秦の城は寂しく存す。嘻(ああ)、辰(ウン)氏殷、今将に安(いずくに)か在る。茫茫(ぼうぼう)たる萬古、詞綫之感。座して眞人の興るを俟(ま)つ有る已(のみ)矣。>


 正始8年(247年)狗奴国との戦いについて郡に報告後、張政が派遣される。その後、266年に魏から晋へと中国王朝が替わる為、張政は帰国する。「女王壹與」は、張政を送り帰すと共に朝貢しているが、これ以降、中国の史書に邪馬壹国も「女王壹與」も出てこない。『契丹古伝』の記事から、3世紀後半に邪馬壹国は、狗奴国と戦い、滅亡していると考えられる。
 一方、4世紀になると、北部九州は「熊襲」が支配しており、景行天皇仲哀天皇神功皇后等による「熊襲征伐」が行なわれると、記紀は示している。佃氏は、記紀が示す「熊襲」は、狗奴国であろうとする。狗奴国は邪馬壹国を滅ぼし、もともとの甘木市朝倉町辺りから邪馬壹国の支配領域であった春日市大野城市筑紫野市辺りまで支配するようになる。
 狗奴(クナ)はその後「隈(クマ)」と呼ばれて、狗奴国は「熊襲」となったのだろうとする。福岡県、佐賀県で「隈」の字が付く地名は「熊襲」が住んでいたところである。福岡市西区、博多区大野城市、筑紫野郡那珂川町筑紫野市小郡市朝倉郡夜須町朝倉郡三輪町、甘木市三井郡大方洗町、佐賀県三養基郡北茂安町などの「隈」の字が付く地名が示されている。(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.207)狗奴国は邪馬壹国の南に接していて、甘木市朝倉町辺りにあったとする佃氏の説は4世紀の日本について書かれた記紀の記述と合致している。


 狗奴国の位置について、木佐氏は鹿児島県・宮崎県とし、安本氏は肥後・熊本平野とし、高木氏は鹿児島県としている。4世紀神功皇后熊襲征伐をした領域は、ほとんどが筑後川以北の地域であるから、狗奴国は邪馬壹国を滅ぼして、筑前肥前に住み着いていたと考えられる。すると、木佐氏、安本氏、高木氏の比定は南方に偏り過ぎている、と私たちには思われる。
 卑弥呼の墓の位置について佃氏は、福岡県小郡市の津古にある「津古生掛(つくしょうかけ)古墳」であろうとしている。⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.335~)に載せられている論文「私案「卑弥呼の墓」-津古生掛古墳と「径百餘歩」-」に詳しい記述がある。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察

(7) 「会稽東治之東」

 古田武彦氏は③『「邪馬台国」はなかった』の「いわゆる「共同改定」批判」と題する第2章の最初で、魏志倭人伝の中で、誤りだとして字を修正された箇所が「邪馬壹国→邪馬臺国」の他に、3箇所あると指摘した。「邪馬台国」学者によって、「原文の誤り」とされ、改定されたものが正しいと定説化されてきたものである。1つ目が「会稽東治之東」→「会稽東冶之東」であり、2つ目は「景初二年」→「景初三年」、3つ目は「対海国」、「一大国」→「対馬国」、「一支国」である。いずれも改定することによって意味が変わってしまうものであり、改定してはならないものだと、1971年に古田氏は上の本の中で主張した。すでに、「景初二年」→「景初三年」については【Ⅱ】(4)景初2年が正しい で見た。この3点に関しては、古田氏の主張はすべて正当であると私たちは考えている。ここでは、「会稽東治之東」→「会稽東冶之東」について見ていこう。岩波文庫の『魏志倭人伝』は、「治」は誤りで、「冶」が正しいと書いている。さんずいの「治」が、にすいの「冶」に直され、定説化されている。これは、『後漢書』倭伝で「其地大較在会稽東冶之東」と范曄が字を変えていることが大きく作用している。「東治」という言葉になじみのなかった5世紀の范曄は、「東治の東」という表現に違和感を覚え、「東治」を地名の「東冶」に変えた。范曄が改定した理由については、後ほど考察することにして、まず、原文の意味を明確にしていこう。


 魏志倭人伝では、地理的な内容の記述のあと、風俗や習慣、生活面等の記述に入る。倭人は身分に関係なく顔や体に入墨をすることが述べられ、その際に「会稽」が登場し、「其(倭)の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」と地理的な位置関係を述べている。「会稽」は私達日本人にはなじみがないが、中国の最初の正史『史記』本紀の中の二番目の夏本紀第二に、夏王朝を開いた禹が東巡し亡くなった地を「会稽」と名付けられたことが、この記の最後に書かれている。「会稽」は中国最古の王朝である夏王朝の禹と共に、古代の中国の人々にはなじみ深いものである。会稽山がある長江河口地域の郡で、会稽郡という郡がある。倭人の入墨という習慣の記述に「会稽」を登場させ、併せて倭人の位置を説明し、その後、風俗、髪、衣服、動植物、弓、鏃等の説明をし、南方の海南島の郡である儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じようだと述べ、倭人の風土・風俗の説明をしている。


 『三国史』(『魏志』)は、それまでに書かれた『史記』、『漢書』等の内容を踏まえて書かれており、読者も当然それを踏まえて読んでいる。特に、『漢書』が西域世界について詳しく述べ、西域世界の様子を初めて中国の人々に知らせた。これに対して、『三国史』(『魏志』)は、東夷とりわけ倭人の様子を初めて詳しく伝えることも目的として書かれている。
 『史記』に、夏王朝を開いた禹が東巡し会稽で亡くなったと書かれていることは述べた。『漢書』には、夏王朝の六代目の帝少康の子が会稽に封じられたとき、「文身断髪」し、「以って蛟龍の害を避く」と書かれている。また『史記』には、少康の子が会稽に封じられ、「以って禹の祀(祖先を祀る)を奉守す」、「草萊(雑草の茂った荒地)を披(ひら)きて邑(むら)とす」と書かれている。
 一方、『魏志』とほぼ同じ時代に書かれた『魏略』には、倭人は呉の太伯の後裔であると書かれている。この呉の太伯については、『史記』呉太伯世家に次の記事がある。佃氏の本での訳を書かせていただく。<呉の太伯と太伯の弟の仲雍は皆周の太王の子である。王李歴の兄である。李歴は賢明であり、またその子の昌は聖人となる瑞祥をもっていた。太伯は李歴を立てて王とし、さらにその子の昌に王位を継がせようと欲した。そこで、太伯と仲雍の二人は荊蛮の地へはしり、文身断髪し、用いることができない(王位を継ぐ意志のないこと)を示した。以て李歴を避けた。李歴は果して立つ(王位につく)。是が王李である。而して昌は文王となった。太伯は荊蛮の地へ行き、自ら句呉と号した。荊蛮の義(民)は従い、而して帰服するもの千餘家あり、(太伯を)立てて呉の太伯とした。>(倭人のルーツと渤海沿岸』復元シリーズ1p.283)倭人の祖とされる呉の太伯が文身断髪している。


 『漢書』は、夏王朝の中興の英主とされている帝少康の子が「会稽」に封じられたとき、「文身断髪」し、「以って蛟龍の害を避く」ことを記している。それを受けて、魏志倭人伝では、倭人が大魚や水禽を避けるために、顔や体に入墨をする習慣であることを紹介する。同じようなことをしているとして、読者の理解を容易にしている。また、この会稽の地は、倭人の祖とされる呉の太伯が居た長江流域の地域であり、太伯自身も文身断髪しており、長い年月の間も伝統が継続していることを、読者に感じさせる記事となる。このような意味をもって、「会稽」が登場する。
また、地理的にも、倭人たちが住んでいるのは、あの夏王朝を開いた禹が都の東で治した(東巡)とされる「会稽東治」(長江河口部付近)の「東に在る」とする。実際の地図で見ると、倭人が住んでいる九州島は「会稽東治」(長江河口部付近)の東北東にある。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? の佃説のところで見たように、当時の中国人の方位は、23度27分ずれているから、当時の中国の人たちが東と言った場合、実際の方角は東北東になる。「会稽東治の東に在る」という記述と合っている。


 「会稽」を出すことによって、倭人の入墨の習慣を歴史的にも理解させ易くし、併せて倭国の大まかな地理的な位置を説明している。やはり見事な文章と言うべきだろう。
さて、次に、范曄が文字を変えて「会稽東冶之東」としてしまった理由を考えてみよう。これについては、古田氏が③『「邪馬台国」はなかった』の中で、また、木佐氏が①『かくも明快な魏志倭人伝の中で詳しく論じている。会稽郡東冶県という地名が、台湾の対岸付近に実際にあった。「会稽東治」(長江河口部付近)に比べると随分南方にあたる。古田氏は、今の福建省(台湾の対岸)は会稽郡の中に入っていたが、永安3年(260年)にこの郡が分郡されて、建安郡と命名されたことを、『呉志』の記事から明らかにした。『魏志』が書かれたのは280年前後だから、永安3年(260年)の前は会稽郡東冶県であっても、それ以降の『魏志』の時代では建安郡東冶県となるはずで、「会稽東冶」という表現そのものが成り立たないことを示した。


 古田氏も木佐氏も、范曄がこのような誤りを犯したのは、范曄が長里で魏志倭人伝を読んでいるからだと説明する。木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝の中で「東晋以後の南朝は、短里から「長里」に復帰し、宋(420~479年)の范曄も「長里」で魏志倭人伝を読んでいるから、邪馬壹国の位置は実際よりはるかに南と受け取っている。(図10-2)」(p.342)と述べる。
 魏志倭人伝では、風俗や衣服、動植物、弓や鏃等の説明をした後、倭人の国は島国だから『漢書』に記された南方の海南島の郡である儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と風俗などが同じだと述べた。地理的に近いからではない。ところが、『後漢書』では、「会稽東冶之東」とした後、「與朱崖儋耳相近」<朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に相近し>と述べ、「故其法俗多同士」<それ故に其の法俗の多く同じである>としている。地理的に朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に近いから、法俗などが同じになると言っている。全く、范曄の理解は魏志倭人伝が伝えていることとは、原因になることが異なる。木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝の図10-2で、実際に、魏志倭人伝が示す行路を長里でたどったときの邪馬壹国の位置を地図上に示している。それに依ると、邪馬壹国の位置は台湾より南になる。この地図を見ると、范曄が、倭国は朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に相近し、と述べたことが理解できる。同書の中では、朝鮮半島で作られ、このように日本列島が台湾より南に位置している地図も載せられている。(p.349)この辺のことをもっと詳しく知りたい方は、木佐氏の①『かくも明快な魏志倭人伝』を見ていただきたい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

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