魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

<第9章 倭の政治地図と裸国黒歯国>

 国名のみ21カ国が記され、最後の「奴国」の後、女王の境界が尽きる所と書かれ、その後に「其南 有狗奴国 男子 為王」とある。この21カ国は遠絶で詳しいことを得ることはできない旁国であると、木佐氏は述べ、女王国の南に旁国21カ国を置き、その南に狗奴国を置く図を示す。更に、旁国21カ国は熊本県、それに宮崎県の北半分とし、狗奴国は「熊襲・隼人」の地であり、鹿児島県や宮崎県の南部を含んでいると述べる。また、女王国より以北の国々は、行路記事に出てくる対海国から不彌国までの6ヶ国としている。


 これについては、私たちの意見は全く異なる。倭人伝の冒頭、今使訳の通ずる国が30国あると記している。私たちは、21カ国はこの使訳の通ずる30ヶ国の中の国であると考えている。21カ国を加えると、名前が分かる倭の国がちょうど30ヶ国になる。使訳の通ずる国の名前を書かないで、遠絶で詳しいことを得ることができない旁国の名前を書くことがあるだろうか。
また、狗奴国とは仲が悪く、戦争が起こるが、もし女王国と狗奴国の間に遠絶で詳しいことを得ることはできない旁国21カ国があるなら、戦争は頻繁に起り難いのではないか。まして、女王国の宮殿が高良山にあり、狗奴国が鹿児島県などの南九州にあるとしたら、一触即発のような状況になるのだろうか。女王国と狗奴国は大国だが、やはり接しているのではないだろうか。


 次に、「水行十日 陸行一月」を木佐氏は、洛陽から邪馬壹国までの総日程と解釈している。陸行一月のほとんどの部分(28日)は、洛陽から山東半島までの陸行に当てられ、末盧国から伊都国が1日、伊都国~奴国~不彌国~邪馬壹国が1日であるとする。水行では、山東半島の煙台から朝鮮半島の長山串へ渡って仁川までが3日、仁川から狗邪韓国までが4日、狗邪韓国から三海峡で3日とする。末盧国から邪馬壹国への行程が2日間である。「残りの「伊都国~奴国~不彌国~邪馬壹国」は二百里余り(約16キロ)だが、……余裕がある一日行程であり、朝発って夕刻には卑弥呼に会うことが可能であった。」(p.324)と言うのは信じ難い。
 郡使は行列をなし、沢山の濡れてはならない絹布や銅鏡百枚を持ち、訪れる各国で国と国との挨拶の儀式を行い、前の人が見えないように草木が生い茂る道を行く。雨の時は、どうするのだろうか。川はどの様に渡るのだろうか。このように考えるとき、上の見解に納得することは、極めて難しいことだと思われた。


 倭人伝は、女王国の東千余里海を渡ると、復国が有り、皆倭種である、と記している。この女王国の東岸は行橋市付近であるとする。行橋から周防灘を東に進むと、古代の海の関所で有名な上関にぶつかる。上関から東の瀬戸内海領域は「吉備王朝」の勢力圏で、この倭種の国を表しているとする。上関の近くの祝島から南下し、佐多岬の先端をかすめて豊後水道を進むと、四国の最南端、宿毛市の沖の島付近に出る。ここが「侏儒国」であるとする。「侏儒国」の入口の沖の島付近から「東南」へ「船行一年」の裸国・黒歯国はミクロネシアポリネシアの島々に当たる、と木佐氏は述べる。


 最後に「参問 倭地・・・周旋可 五千余里」についての説を示す。従来は、帯方郡治から邪馬壹国まで万二千余里であり、狗邪韓国までが七千里であったので、引き算をして、倭地を周旋するのに、五千余里であると解釈していた。しかし、帯方郡治から帯方郡境(韓境)までの千三百里が万二千余里の中に含まれており、狗邪韓国から邪馬壹国までは三千七百里となる。邪馬壹国から女王国の東岸の行橋市付近までがちょうど千三百里であり、女王国の東の端まで行ったことが周旋に当たり、三千七百里行橋市付近までの千三百里を合わせて、五千余里であると、従来説と異なる見解を述べる。郡使は、行橋付近まで行くことにより、関門海峡を知り、確かに九州は島国であることを確認しているとする。

 

  魏志倭人伝レポート

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

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