魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

<8章 対海国から女王国まで>

 この章の前半部分では、対海国に至り、伊都国に到着するまでの行程について、主に考察する。対海国では浅茅湾に寄港したとするが、対海国の「方可四百余里」については、古田氏の見解などとは違う見解を示す。「方○里」という表現は、古代における「面積の一般的な表示法」であり、形は正方形である必要はなく、正方形の面積に換算して広さを示す方法であると述べ、『史記』、『漢書』、『魏志東夷伝の東沃沮伝から例を示す。古田氏は、南島(下県郡)だけを対海国の対象とし、南島を「方可四百余里」の正方形と捉えている。この理解だと、浅茅湾から船越を越え、対馬海峡に出ることになるが、大船越の開削工事が完成したのは江戸時代であり、魏志倭人伝の時代には無理であると、古田説の矛盾を指摘する。


 戸数表示の単位として、なぜ「一大国」と「不彌国」のみ「戸」ではなく、「家」が使われているのかの説明に、私たちは初めて接し、この本の題名にあるように「かくも明快」だと感心した。
「戸」は税を納める単位で、「家」は税を払う単位ではなく、単に住居としての単位であることを、日本神話を読み解くことから理解できたと述べている。朝鮮半島からいち早く稲作を導入した対馬は、多くの地域を自分達の領域とした。壱岐に住む人たちは対馬の戸主の小作人だったり、息子たちだったりするので、税は対馬の戸主が払っていた。したがって、「対海国」は「千余戸」と表し、「一大国」は「三千許家」と表される。木佐氏は不弥国についても「家」が使われているのは、「港湾労働者の出入りが激しく、収税の単位として成立していなかったせいであろう。」(p.282)と述べている。


 次に、松盧国の港は旧松浦川の河口付近とする。従来の九州説では、「伊都国」は糸島郡前原市付近とし、「奴国」は博多付近としているが、この説の問題点を指摘する。この説では、松盧国から原文にあるように「東南」に進むのではなく、「東北」の糸島半島方向に進むことになる。皇国史観本居宣長が奴国は「儺の県」としたこと、志賀島での金印発見などによって、この説は主張されるようになった。しかし、伊都国は(いとこく)ではなく(いつこく)と読まれ、奴国は(なこく)ではなく(のこく)と読まれるが適切であるとして、この説の論拠が成り立たないとする。また、出発する時の方向を示したとする古田氏の「道しるべ」読法についても不自然であるとする。唐津糸島半島を結ぶ「唐津街道」ができたのは、江戸時代であるので、この経路を考えることには無理があると、高木彬光氏と全く同じような指摘をしている。(【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? 参照)


 章の後半部分では、「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」までを考察し、木佐氏の考える行程である「佐賀ルート」を説明する。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか?で詳しく見たように、このルートは、松盧国(旧松浦川の河口付近)から原文にあるように「東南」に進み、伊都国を佐賀県小城市付近であるとする。また、奴国は佐賀市付近であるとし、不弥国は筑後川の河口にある千代田町辺りとする。更に、邪馬壹国の宮殿は高良山にあったのではないかとする。


 次に、帯方郡治から女王国までの総里程が万二千余里と明記してあり、これとのつじつまを合わせるために考え出されたとして、榎一雄氏などの「放射コース論」や古田氏の「島めぐり」読方を批判する。「放射コース論」は「方角+距離+地名」は主線行程を表し、「方角+地名+距離」の記述は傍線行程であるとするものである。これに対して、倭人には「里数」の考えが無いので、「里数」表示があれば、郡使一行が実際に行って計測した結果であり、主線行程であると反論する。また、古田氏が「至」という字の全用例調査をして主線行程であるか傍線行程であるかの判別法を示したと述べているが、実際に少し調べただけで、明らかに間違っていることが分かったとし、「至」だけで十分に主線行程となっていることを示している。続いて古田氏の「島めぐり」読方の批判に移る。この説は、千四百里を生み出すために、対海国の縦横を陸行して八百里とし、一大国の縦横を陸行して六百里としている。魏の使節が対海国や一大国でわざわざ船を降りて陸行することはあり得ないだろう。古田氏の「韓地陸行説」も同じく全く不自然である。


 木佐氏は主線行程と傍線行程の区別は、陳寿が先例とした『漢書』西域伝に示されているとして、これを丹念に考察する。それに依れば、各国とも王都を明示した後、首都(長安)からの総距離を記しており、里数表示ではなく日数で総距離が示される場合は主線行程ではない、ということである。この観点から「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」を解釈すると、首都(洛陽)から邪馬壹国まで行くのに、水行十日陸行一月要するということになる。
その前の「南至 投馬国 水行 二十日」については、不弥国から南に水行二十日であるから、投馬国は琉球圏であり、この国は漢書地理志に出てくる「東鯷人」の後身と考えられる、と述べる。


 私たちが最初古田氏の「島めぐり」読方に触れたとき「成る程、このように考えれば、魏志倭人伝が合理的に解釈できる!」と感激しながら読んだ記憶がある。古田氏が魏志倭人伝を合理的に解釈できるとした主張したことは、大きな影響を与えた。しかし、今、木佐氏の批判を読んでみると、木佐氏の主張も十分な説得力があるようにも感じる。ただ、並列して記されている「南至 投馬国 水行 二十日」と「南至 邪馬壹国 女王之所都 水行十日 陸行一月」はやはり同じ出発点ではないだろうか、と私たちには感じられる。次の章で述べられる、洛陽から邪馬壹国までの総日程に、余りに無理があると考えるからである。

 

  魏志倭人伝レポート

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