魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<4章 三世紀の実相>

 この章では、倭国の実地理について述べるとし、有名な榎一雄氏の提唱した「放射コース式」読み方を支持する。伊都国までは、「方位+距離+地名」の形式を取り、直線コースを表すが、伊都国から後は「方位+地名+距離」の形式になり、放射コースを表しているとして、これも「文の錯え」そのものであると述べる。また、邪馬壹国は九州北部の女王国連合の総称で、その北側は海だから、日数記事は直線コースではあり得ず、里程記事は帯方郡より女王国に至る記事だが、同じように考えて、日数記事の投馬国と邪馬壹国については、帯方郡を基点とした所要日数を語っているのではないか、とする。邪馬壹国へは帯方郡から「水行十日陸行一月」であるから、投馬国へは帯方郡から「水行二十日」であり、南九州のサツマ地方が投馬国の条件に良く合うが、よく分からないと、孫氏は言う。
 次に女王国と争ったとする狗奴国の位置については、『三国志』が「其の(女王の境界)南に狗奴国有り」としているが『後漢書』では「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」として、両書の示す方向が全く異なる。孫氏は、范曄を支持し、『後漢書』が表す「女王国より東」説を取る。(詳しくは【Ⅳ】(6)狗奴国の位置


 そして、弥生時代の瀬戸内から近畿方面に見られる高地性集落が、九州方面から船に乗った集団に攻め立てられたという理由だけで、高地性集落が狗奴国とすることは、仮説としては考えられる、と孫氏は言う。高地性集落は一方的に攻められていたが、狗奴国は一方的に邪馬壹国に攻められていたのではなく、最終的には、邪馬壹国に勝利しているのだが…。


 高地性集落については佃收氏が『伊都国と渡来邪馬壹国』復元シリーズ2のp.167以降で、庄内式土器との関連を詳しく調べ、次のように述べている。「庄内式土器は渡来人の土器であり、弥生式土器から発展したものではない。」「高地性集落からは庄内式土器が出土しないことは重要である。低地の母集団が庄内式土器を使っているのであれば高地性集落でも庄内式土器を使うはずである。ところが高地性集落からは庄内式土器は一つも出土していない。それは低地の母集団が庄内土器を使っていないからである。低地の母集団(弥生社会)は庄内式土器を受け入れていない。弥生式土器を使い続けている。高地性集落でも弥生式土器を使い続けているのである。」「庄内式土器を使う渡来人が来て、低地の母集団や高地性集落を襲い、先住民(弥生人)を追い出した。渡来人は高地性集落に住まない。そのため高地性集落からは庄内式土器が出ないのである。」「庄内式土器がはじまる直前に高地性集落や環壕集落は消滅する。それは、朝鮮半島から来た渡来人がこれらの集落を滅ぼしたからである。」この瀬戸内から近畿方面に見られた高地性集落は弥生時代の先住民の集落であり、渡来氏族の集落ではないことを示している。狗奴国の男王卑弥弓呼は卑弥氏であり、渡来氏族である。したがって、高地性集落は狗奴国とは関係がない、と言えるのではないか。


 孫氏は、女王国である奴国は現在の福岡市から春日市周辺に当たるとする。次に、「文の錯え」と考えられる6つの事項を挙げ、「言外の言」を読み解く必要があると言う。特に、「至」ではなく「到」の字が用いられていることから、魏使節の最終目的地は伊都国であり、不弥国は現在の福岡市西区周船寺町に当たり、「一大率の津」と考えられるとする。更に、戸数表記に一大国と不弥国にのみ、「戸」ではなく、「家」を用いていることも「文の錯え」とし、一大国から不弥国へ直行する真実の行程が示されているのではないか、と深読みする。「…末盧国に達する。しかし上陸はしない。更に海岸線に沿って東進し、現在は陸地化してしまった糸島水道に入る。そこを東に進んで不弥国、今の周船寺に至り、そこで「一大率」から人員・積荷の検閲を受ける。そこから……伊都国の治所に「到」ることができた、というのが真実の行程ではなかったか。」(②p.214)と、驚くべき説を提出する。


 「至」と「到」の違いに着目して、これを「文の錯え」とし、「到」は最終目的地に到着するという意味で使われていると述べる。「文の錯え」を持ち出さなくとも、例えば牧健二氏のように、「至」と「到」の違いをこのように解釈する歴史家はいる。また、木佐敬久氏は「至」と「到」の違いを別の意味で解釈している。まっすぐ届く場合は「至」で、曲がって届くのは「到」であるとしている。(詳しくは、①『かくも明快な魏志倭人伝p.231)
 孫氏は「戸」と「家」の違いも「文の錯え」と解釈し、上のような奇妙な結論を出している。木佐敬久氏は①『かくも明快な魏志倭人伝p.262以降で、「戸」は税を納める単位で、「家」は税を払う単位ではなく、単に住居としての単位であることを、日本神話を読み解くことから理解できたと述べている。「対海国」は「千余戸」と表し、「一大国」は「三千許家」と表される。木佐氏は不弥国についても「家」が使われているのは、「港湾労働者の出入りが激しく、収税の単位として成立していなかったせいであろう。」(①P.282)と述べている。「戸」と「家」の違いについては、「文の錯え」と解釈するより、木佐氏の理解の方が自然ではないかと思われる。
更に、末盧国に着くが上陸しないというコースでは「草木茂盛行不見前人」と書かれた、草木の中を苦労して陸行するリアリティーを感じる倭人伝の記述が理解できなくなってしまう。


 この章の最後の節で、伊都国、奴国、不彌国の位置関係から、女王の宮殿は高祖山にあったのではないかと述べる。また、卑弥呼の墓は平原遺跡ではないか、としている。

 

<5章 一大率と伊都国について>


 倭人伝に「女王国以北には特に一大率を置いて、諸国を検察する」とある「一大率」について、『旧唐書倭国日本国伝や『新唐書』日本伝を考察する。その結果、一人の「大率」と考えることができるとする。次に、『魏志』全体に考察を進め、「大率」は「大師」と同じ意味になり、「一大率」は固有の官名ではなく、倭国の現地有力者の一人と結論することができるとし、結局「一大率」は倭国30カ国の中の王の一人ではないかとしている。また、「一大率は常に伊都国に治す」から伊都国の権限が最も大きく、「伊都国王」=「一大率」であるとする。


 この時代の「刺史」は単なる行政監督官ではなく、兵・民・財政すべての面で強大な権力を持つ軍政長官を意味していることから、「男弟」=「一大率」であり、更に上に述べたことから「伊都国王」=「一大率」であり、結局「伊都国王」=「一大率」=「男弟」であると結論づける。
 確かに三者はいずれも、女王国全体に大きな影響力を持った大物達である。しかし、「おそらく女王(卑弥呼)は、奴国の出身者だ。」(②p.179)とすると、「男弟」も奴国の出身者であり、同時に「伊都国王」であり得るだろうか?また、卑弥呼は卑弥氏であり、伊都国は天氏系の国だから「伊都国王」は天氏だろう。違う氏族の「伊都国王」が卑弥呼の弟であるのだろうか?
佃收氏は次のように述べている。伊都国は後から九州北部に渡来した邪馬壹国によって支配され、その後反乱を起こすが再び敗れ、別天地を求めて東征する、これが「神武東征」である。佃氏は、伊都国と女王国とを、支配し支配される対立的な王権を持つ国として把握している。佃氏の説を認めないとしても、伊都国と女王国の関係を詳しく考察しないで、また、これらの国がどの様な組織の国であったのかも分からないのに、一つの点での論理的可能性だけで、結論を急いでいいものだろうか、大いに疑問が湧くところである。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察