魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<2章 中国史書の論理に学ぶ>

 2章は、『魏志』は「春秋の筆法」で書かれているので、筆法を解読しながら読まなければならないと述べることから始まる。しかし、そのためには、春秋学と古典に対する深い知識が必要となり、現代人には難しいので、このことを理解していた先人に教えてもらうしか方法はなく、『後漢書』を書いた范曄と『晋書』を書いた房玄齢がどう読んだかを調べ、彼らから教えてもらうことが必要だとする。そのため、『後漢書』と『晋書』の説明がされ、范曄の経歴、人となりなどが述べられる。


 最初に房玄齢など唐朝史官グループの記した『晋書』倭人伝の最初の部分「…魏時有三十国通交戸有七萬…」に注目する。房玄齢ら唐の史官達は、邪馬壹国(邪馬台国)は伊都国や奴国のような30カ国の中の一国ではなく、30カ国を総称して邪馬壹国(邪馬台国)と呼んでいたと理解していた、とする。従来、伊都国、奴国、不彌国などへの里数記事の後の日数記事「南至投馬国水行二十日…」「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」が里数記事とどの様に接続するかが問題になってきた。しかし、邪馬壹国が個々の国でなく、30カ国の総称であるなら、経路として接続することはなく、邪馬壹国に行くには、帯方郡から水行十日陸行一月要すると言っているに過ぎない。更に、『後漢書』での「建武中元二年 倭奴国 奉貢朝賀…倭国の極南界也」の記事に注目し、奴国は倭国の極南界であると述べた范曄の解釈を考察する。日数記事が行程を示さず、行程は里数記事だけで示されるとすると、行程の一番南の国は奴国ということになる。范曄はこのことを理解して、『後漢書』で「奴国…極南界」と述べたとする。

 

<3章 『魏志』里程記事を読む>


 前章では、邪馬壹国は女王国連合の総称で、女王国はそのうちの女王が都する特定の国であるとした。この章では、「「自女王国以北は、其の戸数・道里を略載することが得る」の文は、逆に読めば、「女王国とは、戸数・道里を略載した国々の最南(以北の逆)の国だ」」(②p.130)であり、「自○○以北」の表現は女王国を含んでいて、また前章で、行程の一番南の国は奴国だと理解していることから、范曄は奴国が女王国であると考えた、と述べる。
更に、「自郡至女王国萬二千余里」の記述から、帯方郡からちょうど12000里の国を探し、古田氏が「島めぐり」論法と呼んでいる辺加算論法によって、奴国が該当していると述べる。。「方○里」の解釈、対馬島で大船越を通る船の航路の説明は、古田氏の③『「邪馬台国」はなかった』での説明と寸分違わない。
魏志倭人伝は狗邪韓国を「其の北岸の狗邪韓国」と著しているが、『後漢書』では「其の西北界の狗邪韓国」と記している。このことは、魏使の船が東南コースに渡海することを意味し、范曄が古田氏の提起した「島めぐり」論法を理解していて、対馬島壱岐島の二辺を加算し、このように12000里を計算していたのだ、と孫氏は述べる。陳寿と范曄と房玄齢は「筆法」を理解し合い、深いところで通じていた、と孫氏は語るのだが?…。ここまで飛躍すると、私たちの対応は恐れ入るしかなくなる。


 孫氏は短里を考察の外に置き、長里しか考えないから、当然「帯方郡から女王国まで12000余里」は「誇大里数」となる。これについては以下のような説明をする。三国時代の中国では、人民向けの政府文書(特に軍事関係)では、数字を十倍して発表する習慣があったようで、これを「露布」の原理と呼ぶ。3世紀中頃の司馬軍団による極東アジア侵攻戦の際に、総司令官の司馬懿から魏の明帝に送られた「露布」では十倍の数字が記載された。これが「史の成文」として残されたのが、「誇大里数」ではないかと、孫氏は言う。つまり、陳寿は、間違っていることは分かっていたが、晋王朝の事実上の創建者である司馬懿の残したものだから、書き直しはしなかったので、「誇大里数」がそのまま残ってしまったと…。
 次に、奴国までの里数を十分の一の値(1里≒43.4Km)として地図上で検証し、ほぼ合致していると孫氏は述べる。行路については、古田氏などが述べた行路である。対馬では、浅茅湾に入って大船越を通り、末盧国では、松浦川河口に上陸し、伊都国は平原遺跡付近とする。すると、末盧国から伊都国への方向は「東北」になる。ところが、魏志倭人伝では「東南」と書かれている。この食い違いも、何の問題も無いかのように、何らかの「史の成文」だろうと言う。「史の成文」という理由なら、どんなことも正当化できるだろう。ここのところは【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? で詳しく論じた。
 「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」は、「帯方郡から女王国まで12000余里」の単なる言い換えであるとし、水行なら十日、陸行なら一月と読むことが出来るとする。「奇妙過ぎる記述」であると孫氏自身も言うが…。


 次に、このような誇大な表現がなぜ修正されずに残ったかについて考察する。
 「会稽東治東」については【Ⅲ】(7)「会稽東治東」 のところで論じたように、范曄の『後漢書』は「会稽東冶東」と記し、異なる文字を用いて、陳寿の『三国志』とは異なる場所や異なる事柄を述べている。この本では、「会稽東治東」の地名や位置の考証を省くとして、『後漢書』が『三国志』と異なることを述べていることには全く触れずに、『後漢書』に従って場所や意味を受け取って、「(倭人の国が)今の福建省の福州市あたりにあたる」(②p.165)とする。当時、魏(晋)は呉と争っており、呉の大型艦隊が遼東半島に進出している。また、正確な地図は国家秘密として「秘府に蔵された」と記録されている。このような状況の中で、呉に正確な情報を教えないために、意図的にデマ情報が魏から流され、それが、「史の成分」として残ったのが、「会稽東治東」であり、「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」であり、「帯方郡から女王国まで12000余里」であると、孫氏は語る。更に、陳寿が『魏史』の編纂を完了した時は270年代頃しかないとし、呉が滅ぶ280年より前だから余計に正確な情報を伝えることは厳禁とされていた、と述べる。


 『史書』-『漢書』-『三国志』と続く中国の正史がこのように一時的な状況のために、誤まった記述をそのままにするとか、明らかに誤まった記述を書くとかいうことがあるだろうか。もし、呉に知られたくなければ、一時的にでも、正確な地図と同じように「秘府に蔵す」れば済むのではないか。もし、『魏志』がこのような誤まった記述を「史の成文」として残したなら、『晋書』に幼少から才能豊と記されている夏侯湛が、『魏志』を読んで自分の書いた『魏書』を破ることがあるだろうか。
 前にも触れたが、班古は『漢書』で西域地方のことを初めて詳しく記し、大きな評価を得た。陳寿はそれまでに記されていない東夷の世界の国や風俗、習慣などについて東夷伝に記し、大きな評価を得ている。このような眼目ともいえる記事で、わざわざ誤まった記述を残すのだろうか。陳寿が可哀想というか、なんとも情けないというか、どうしても納得できない説ではある。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察