魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

【Ⅳ】 二著の章ごとの批評

 最初に述べたように、①と②の批評に移る。【Ⅰ】と同じように、② → ①の順とする。

(1)②『決定版邪馬台国の全解決』(孫栄健著)の章ごとの批評

<1章 魏志の再発見へ>


 1章では、最初『三国志』の中の『魏志』第30巻東夷伝の中の韓伝と倭人伝にだけ、共通の不可解な特徴が2点あるとする。1点目は、馬韓グループ、弁・辰韓グループ、倭国グループに名前が記されている国の数が、本文の中で述べられている国の数と合わない、そして、3つのグループとも、重複して出ている国があることだ。(倭国では、「奴国」)2点目は、里数に関する問題である。魏や西晋では1里=434mでされるが、韓伝と倭人伝だけは、その数分の一の値、すなわち1里=40~90mであると考えられる。この2点をそれぞれ「国名重出」、「誇大里数」と呼び、なぜ『三国志』全65巻中、『魏志』第30巻東夷伝の韓伝と倭人伝にだけこのことが出てくるのかと大仰に問い、この「規則的な矛盾」の背後には何かがあり、これを読み解かなければならない、と問題提起する。


 佃氏は⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.388~)で、「馬延国」は二重記載され、また元々一つの「弁辰軍彌国」を「軍彌国」と「弁軍彌国」の二つに二重記載されていて、写本または版を作る時の誤りだろうとし、そうであれば矛盾は無く、陳寿の記述と合致していると述べる。
 木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝で「韓伝では、辰韓十二国と弁辰十二国、計二十四国の国名を入り混ぜて列挙している。ややこしい上、時代が経つほど重要性が薄れる記事なので、写本の段階で誤記が入りやすい。」(p.250~)と述べ、紹煕本も紹興本も一行十九字で書かれているので、空白を入れずに一行十九字で国名を記していくと、二つの「馬延国」がちょうど横に並び、誤記の可能性が高いことを示している。「弁辰」十二国についても、最後の結論は佃氏と少し異なるが、誤記であろうとしている。
(ちなみに、孫氏は問題提起しただけで、「国名重出」となった理由について述べていない。)


 孫氏の言う「誇大里数」については【Ⅱ】(3)魏志倭人伝での1里は約76m のところで考察したように、長里と短里があり、一つの本の中に長里と短里による記述があったとしても、それは有り得る。孫氏は、「『三国志』の里単位は「韓伝」と「倭人伝」を除けば、すべて魏晋里と一致し、これは多くの学者達によって考証済みだ。」(②p.32)と述べるが、①『かくも明快な魏志倭人伝の中で木佐氏は、『三国志』の多くの記事が、長里でも短里でも書かれていることを具体的に示している。長里と短里については多くの識者達が議論を戦わしてきた。問題は、この本では、短里について全く触れていないことだ。短里を認めないならそれはそれで結構だが、短里を認めない理由くらいは書くべきなのではないか。


 次に「春秋の筆法」について述べる。孔子が書いたとされる『春秋』を手本に中国の正史は書き継がれてきたとし、「属辞比事」、「文の錯え」、「微言大義」などの「春秋の筆法」が説明される。
続いて、『三国志』の時代が解説され、陳寿の経歴や辿った運命がうまくまとめられている。また、邪馬壹国が初めて魏に朝貢した時に、遼東半島を支配していた公孫淵を征した魏の軍総司令官で、やがて幼帝を支えた魏王朝の最高位者となり、ついには西晋の実質的な創建者となった司馬懿とその周辺についても詳しく述べられている。著者の豊富な読書量に基づく、分かり易い説明であると感じる。陳寿は蜀の歴史編纂官であったが、蜀が滅びて後、晋の著作郎に引き立てられて『魏志』、『蜀志』、『呉志』を著わす。(後の唐時代に『三国志』として一つにまとめられた)この経緯から、晋の皇帝やその祖父である司馬懿など司馬氏の関係する史実について、陳寿は司馬氏に大きく忖度した記述を行なっており、結果として史実とは異なる記述をしているというのが、この本での孫氏の主な主張である。清の時代の歴史考証家趙翼の説を紹介し、このことを「廻護の法」と呼ぶ。魏志倭人伝は将にこの「廻護の法」というフィルターを通して読む必要があると力説する。


 更に、「『三国志』に唯一の地理誌である『魏志東夷伝が立てられたのも、こうした事情によるとしている。それは単なる外国の話ではなく、実に、皇帝の祖父の偉大さを立証する、司馬氏の晴れの舞台の物語だった。したがって、この地方について陳寿が書けば書くほど、皇帝の祖父の功績、晋王朝の正当性が顕揚される効果がある。」(②p.63)と述べる。私たちの理解では、陳寿は、その前に書かれた『漢書』を意識して『魏志東夷伝を書いている。前漢武帝(前141~87)の時、漢の使者張騫は西域に赴き、黄河の河源を極め、西域地方のことを報告した。司馬遷が『史記』で記し留まっていた西域地方のことを、班古は『漢書』で詳しく記し、中国の世界を拡げている。これに対して、陳寿はまだ『漢書』までに記されていない東夷の世界の国や風俗、習慣などについて記し、世界を拡げた。このことは、「東夷伝序文」に明確に記されている。司馬氏に忖度するというような陳寿の個人的な次元の低い動機ではなく、『史記』-『漢書』-『三国志』と続く、中国王朝がより広大な世界を築いていくという歴史的に受け継がれた高い問題意識によって、陳寿は『三国志』を書いている。それ故に、『三国志』は歴史的にも高い評価を受けているのだろう。
 詳細で分かり易い歴史や中国の古典の解説と、穿った見方をしていると思われる問題意識が対照をなす1章である。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察