魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(2)①『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久著)の章ごとの批評

<1章  魏志倭人伝は明快にかかれている>


 魏志倭人伝は、誇張や虚偽が多いという通説が出来上がっているが、魏から派遣された郡使・張政が正始8年(247年)から泰始2年(266年)まで足かけ20年に及ぶ実際の倭国での軍事行動を伴う滞在による報告に基づいて書かれている事や、著者陳寿の資質、史官としての姿勢から言って、極めて信頼できる文書であり、明快に書かれていると、最初に述べる。
 【Ⅱ】(1)卑弥呼大和朝廷の系譜の女王ではない のところで触れたように、『日本書紀神功皇后39年の記事に、「魏志」についての記述がある。明帝景初3年6月倭女王が大夫難斗米等を魏に派遣したこと、正始元年に魏が倭に詔書印綬を与えたこと、正始4年に倭王が魏に献じたことが魏志倭人伝と全く同じような漢字(誤字も多いが)を用いて記している。また、神功皇后摂政66年に、倭の女王が訳を重ねて貢献した、とも記している。一方、古事記には全く記載が無い。日本書紀の記述者は、邪馬壹国の卑弥呼や壹与の朝貢を、全く時代が異なる神功皇后の事績だとして記そうとしている。
このことに対して、木佐氏は「大和朝廷内に、卑弥呼に該当する女王がいなかった、つまり「魏志倭人伝倭国は、大和朝廷とは無関係」であることの端的な証明である。」(p.44)と述べている。


 最初、蜀の史官であった陳寿が、蜀滅亡後に張華に引き立てられ晋の著作朗になる経緯、陳寿の「質直」な執筆姿勢が説明され、いかに陳寿の筆が周りから信頼されていたかを記す。
 『三国志』と同時代に書かれたとされる『魏略』の成立年代は西域の新情報を記していることから、280年後半以降と考えられ、『三国志』の成立は『晋書』の記述より284年であり、『魏志』、『蜀志』、『呉志』三つの中で『魏志』が最初に書かれているから、『魏志』の成立は『魏略』より早いとする。両方の記事内容も比較して、「『魏略』とは『魏志』のダイジェスト版に、呉滅亡後の最新情報をプラスした≪ハンドブック≫のようなものではないかと推測される。『魏略』という書名もそれにふさわしい。」(p.61)と木佐氏は述べている。
 魏志倭人伝での裴松之の注についても触れ、古田武彦氏などが主張した「二倍年暦」、裴松之の注の誤りについても見解を示している。


 また、魏志倭人伝の「邪馬壹国」は「山のある倭国」の意味であり、『後漢書』の「邪馬臺国」は「倭」が「大倭(たいゐ)」となり、それを一字で表したのが「臺(たい)」であるので、それぞれの時代に両方が正しいとしている。
 佃收氏が⑥『新「日本の古代史」(上)』の中で、同じようなことを述べているのは興味深い。「伊都(イツ)は海岸にある。陳寿は「山側にある北部九州を支配している国の都」という意味で「邪馬壹国(ヤマイツ国)」としたのであろう。「邪馬壹国」は「女王之所都」とあるように女王が居る「都」である。「邪馬壹国」は景初二年(238年)に北部九州が正式な「倭国」になる前の仮の名前である。陳寿が景初二年の朝貢以前と以後を区別するために付けた机上の名前である。「邪馬壹国」は無かった。」(⑥p.118)


 全体的に、資料を丹念に調べ、結論を導き出す議論は納得できる部分が多い。しかし、『論衡、巻八』、『論衡。巻一九』、『山海経、海内北経』に記された「倭」を、北部九州から出雲にかけての日本海側の国々であろう、としている点は大いに疑問が残る。水田稲作技術をもつ「倭人」は、最初から日本列島に居たわけではない。紀元前12世紀頃に「香草」を貢物とした「倭人」は長江流域に居た「倭人」である。(【Ⅲ】(8)倭人倭国とは何か参照)更に「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」の「属す」を単に「貢献していた」と解釈するのは無理があり、地理的な状況も述べているのではないだろうか。私たちは、長い年月をかけてどの様にして「倭人」が日本列島に定着してきたのかを考察している。水田稲作技術などがどのようにして日本列島に伝来してきたかに興味がある。その意味で、ここでの結論には大いに疑問をもつ。この問題について、また5章で論じよう。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察