魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<第2章 東夷伝序文の「長老」と韓の反乱>

 『三国志』夷蛮伝には、二つの序文、「烏丸鮮卑伝」序文と「東夷伝」序文がある。特に、「東夷伝」序文には、東夷の世界の様子を初めて明らかにしたという陳寿の自負が語られている。「東夷伝」序文には、次の文書「長老説くに、「異面の人、有り、日のいづる所に近し。遂に諸国を周観し、其の法俗を采るに小大区別し、各名号有り。得て詳紀す可し。」」があり、この文中の言葉について考察する。先ず、『三国志』中の「説く」の用例を検討し、次に夷蛮伝中の「長老」と「耆老」の使い分けを確認する。その結果、この「長老」は張政に他ならないとする。更に、「長老」が説く(=説得)しているのは、陳寿であるとする。『魏志』は270年代初めから書き進められ、280年には完成していたと考えられる。…陳寿が張政に会って大きな刺激を受けると同時に、蛮夷伝の「法俗」の記録を入手したのは、270年代後半と思われる。」(p.84)という見解は、十分な説得力があるのではないか。「委」と「倭」の違い、「委面」と「倭面」の違いについても考察し、戦前の高名な歴史学者内藤湖南などの苦し紛れの解釈についても言及していて、面白い。


 景初2年(238年)、魏が総力を挙げて朝鮮半島公孫淵討伐を行い、この年6月卑弥呼は難升米を帯方郡に派遣した。その後、正始6年、帯方郡太守弓遵は濊討伐に従事し、難升米は黄幢を賜ることになった。しかし、韓の反乱により弓遵は戦死し、正始8年(247年)王頎が帯方郡太守となる。この間の約10年間について、朝鮮半島での魏の対応、その中心となった毌丘倹、王頎の仕事ぶり等について述べ、その下で働いていたのが武官の張政であったことが、分かり易く記述されている。

 

<第3章 短里と長里>


 第1章で述べられた魏志倭人伝がいかに正確で信頼性に富んでいるかについて、最初に、改めて8点に整理して示し、次に短里と長里の問題に移る。
 帯方郡より女王国まで万二千余里と示され、里程距離の合計が万七百余里であるので、残りは千三百里ほどになる。女王国は九州北部の不彌国から千三百里以内にあることになり、長里説を取らないと、近畿説は成り立たなくなる。これが、長里説と短里説が問題になった主な理由である、と木佐氏は語る。


 周代に短里が行なわれていたことを、谷本茂氏の『数理科学』の論文などからも明確にし、秦の始皇帝が長里を導入し、前漢武帝の時代から長里が完全に定着したのではないか、と述べる。

 古田武彦氏は「魏晋朝の短里」に依拠して『三国志』は書かれていると主張し、多くの論争を呼んだ。古田武彦氏と山尾幸久氏との論争に触れ、これについては山尾氏の方に分があるとする。「一つの本の中で、同じ名前の単位の実質が大きく変ることは、別に不思議ではない。たとえば、明治以降、現在まで使われている「円」という単位は、戦前と戦後では実質的価値が大きく変化している。」(p.116)と述べる。また、「…東夷伝の『里数』は、基本的に「歴史記述」ではなく、西晋の読者への「現状認識」という形で用いられており、西晋の正式な里単位が「短里」であったことを示している。」(p.103)と述べる。(より詳しくは、【Ⅱ】(3)魏志倭人伝での1里は約76m
 バランスのとれた記述であり、「短里」について全く触れない②「決定版邪馬台国の全解決」の著者の孫栄健氏などにはぜひ読んでもらいたい章である。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察