魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<4章 「魏志倭人伝」研究史と皇国史観>

 古田武彦氏は「邪馬壹国」が「邪馬台国」に、「会稽東治の東」が「会稽東冶の東」に、「景初二年」が「景初三年」に、紹熙熙本の「対海国」が「対馬国」に、「一大国」が「一支国」に書き換えられてきたことについて、厳しい批判を展開した。このような書き換えは、大和朝廷一元主義というイデオロギーに立脚しており、その端的な例が、卑弥呼と壹与の二人の女王を神功皇后にあてた『日本書紀』の記事であるとする。
 魏志倭人伝に触れた本が江戸時代にならないと出てこないのは、長い間「禁書」になっていたからではないか、と木佐氏は述べる。魏志倭人伝をはっきりと読んだことが分かるのは、1693年の松下見林著『異称日本伝』であるが、皇国史観の立場からの記述である為、魏志倭人伝皇国史観で解釈されている。江戸時代の新井白石本居宣長、鶴峯戊申の説も紹介されている。次に、明治時代になって、白鳥庫吉の「九州説」と内藤湖南の「近畿説」が対立し、両説が紹介され、橋本増吉の説も説明される。


 戦後の「邪馬台国」ブームについても触れ、魏志倭人伝より考古学を信頼する傾向の風潮であったことを述べ、卑弥呼の墓についても言及する。
 この章の最後に、「なぜ今まで『魏志倭人伝』をきちんと読み解けなかったのか、研究史を振り返ることによって確認することができた。その点を踏まえると、私の方法は次のようになる。」(p.152)と述べ、誰でも認めることができるような四点からなる木佐氏の方法を示し、次の章から倭国の地理像を明らかにしていくとする。その四点は次の通りである。(1)原文の誤りがきちんと証明されない限り、「魏志倭人伝」と『三国志』を信頼して原文のまま読む。(2)『魏志』の著者・陳寿や、当時の洛陽の読者の立場に立って読む。疑問の語句は、『三国志』や『漢書』、『史記』の用例を参照する等。(3)解読のための新しいアイデアは「人間の理性や常識」に反しないかを常に検証する。(4)当時の読者が魏志倭人伝を読んでイメージした「倭国に対する地理像」をつかむことができたら、そこで初めて、当時の読者が知らなかった現実の地図、地形とどう対応するかを、検証する。

 

<第5章 「島国」と漢書後漢書


 冒頭の「倭人在帯方東南大海之中」という記述から、倭地は対馬壱岐、九州本島、四国と周辺の島と考えられる、とする。『日本書紀』の記事などから、大和朝廷が本州は島であると認識したのは、早くても7世紀の後半であると考察する。また、『旧唐書』と『新唐書』の記事から、「『旧唐書』は「倭国伝」と「日本伝」を別立てにしていて、「倭国伝」のほうはまぎれもなく九州を示している。」(p.157)とし、「…『新唐書』の書かれた11世紀の認識である。この頃、ようやく中国が、本州(と北海道)を「島」と認識したことを示している。」(p.159)と述べる。「近畿説」は、魏志倭人伝の時代には本州を島と認識していなかったことから一挙に崩壊する、とする古田武彦氏の「津軽海峡の論証」についても触れている。


 次に、『後漢書』の記述によって、1784年に志賀島から発見された金印は、後漢光武帝から倭の奴国王に贈られたことが定説となっていることを述べる。金印の由来についての様々な説も紹介されている。また、後漢書の記事「安帝永初元年、倭国王師升等、獻生口百六十人、願請見。」に書かれた「倭国王」は出雲王朝の王であり、「師升」は読み方からスサノヲであると述べる。
 『論衡』の記事「周時、…越裳献白雉、倭人貢鬯。」、「成王之時、越裳献雉、倭人貢暢。」をあげ、周の時代から倭人は海を越えて中国王朝に朝貢していると述べていることには、1章の最後のところで触れたように、疑問を呈せざるを得ない。【Ⅲ】(8)倭人倭国とは何かで述べたが、「成王」は周王朝の2代目であり、紀元前12世紀頃の人である。佃氏は、この「香草」を貢物とした「倭人」は中国長江流域に居たとしている。秦の始皇帝(紀元前221~206年)の時代に、方士徐福が蓬莱神仙を求めて、童男女数千人を連れて東夷の世界に向かった、と『史記』に記されていることを『後漢書』は述べている。この時代の日本列島は、まだ中国の王朝には未知の地域だったのではないだろうか。それよりはるか千年ほども前に、日本列島から中国王朝へ朝貢することがあり得るだろうか。


 また、魏志倭人伝では、「奴国」は「一大率」によって検察されている従属国であり、このような従属国が、金印をもらうはずがないと述べる。魏志倭人伝が記述している時代は3世紀である。一方、金印が授与されたのは西暦57年である。約200年の隔たりがある。200年前に女王国が九州北部にあったのかも明確ではなく、ましてその時代に「奴国」が女王国の従属国であったかどうかは分からない。200年も経てば、多くのことが変化すると思われるのだが…。
稲の集団的な栽培技術をもつ倭人が、どのようにして日本列島に定着し、特に九州北部をどの様な集団(国々)が支配権を確立していったのか、という変遷の視点がなく、魏志倭人伝に記された国々がそれ以前も、これ以降も続いていると木佐氏は考えているように思われ、この点で、私たちは疑問を感じた。


 佃收氏の『伊都国と渡来邪馬台国』(古代史の復元シリーズ2)は、様々は集団の渡来と支配の変遷を、文献や甕棺墓、青銅器、集落・住居の考古学的な資料などから考察していて、私たちには大変参考になる。志賀島に行って見ると分かるように、金印は畑としては余り適さないような急な斜面の中段から発見されている。王の墓などではなく、敵から逃れて、隠したような場所である。佃氏に依れば、倭奴国は力をつけて伊都国より独立し、後漢王朝から金印紫綬を賜るが、その直後に狗奴国に伐たれて滅び、一部は四国の西部に逃れたとされる。物的資料などを示しながら考察しているので、興味ある方は是非目を通してほしい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察