魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(7) 「会稽東治之東」

 古田武彦氏は③『「邪馬台国」はなかった』の「いわゆる「共同改定」批判」と題する第2章の最初で、魏志倭人伝の中で、誤りだとして字を修正された箇所が「邪馬壹国→邪馬臺国」の他に、3箇所あると指摘した。「邪馬台国」学者によって、「原文の誤り」とされ、改定されたものが正しいと定説化されてきたものである。1つ目が「会稽東治之東」→「会稽東冶之東」であり、2つ目は「景初二年」→「景初三年」、3つ目は「対海国」、「一大国」→「対馬国」、「一支国」である。いずれも改定することによって意味が変わってしまうものであり、改定してはならないものだと、1971年に古田氏は上の本の中で主張した。すでに、「景初二年」→「景初三年」については【Ⅱ】(4)景初2年が正しい で見た。この3点に関しては、古田氏の主張はすべて正当であると私たちは考えている。ここでは、「会稽東治之東」→「会稽東冶之東」について見ていこう。岩波文庫の『魏志倭人伝』は、「治」は誤りで、「冶」が正しいと書いている。さんずいの「治」が、にすいの「冶」に直され、定説化されている。これは、『後漢書』倭伝で「其地大較在会稽東冶之東」と范曄が字を変えていることが大きく作用している。「東治」という言葉になじみのなかった5世紀の范曄は、「東治の東」という表現に違和感を覚え、「東治」を地名の「東冶」に変えた。范曄が改定した理由については、後ほど考察することにして、まず、原文の意味を明確にしていこう。


 魏志倭人伝では、地理的な内容の記述のあと、風俗や習慣、生活面等の記述に入る。倭人は身分に関係なく顔や体に入墨をすることが述べられ、その際に「会稽」が登場し、「其(倭)の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。」と地理的な位置関係を述べている。「会稽」は私達日本人にはなじみがないが、中国の最初の正史『史記』本紀の中の二番目の夏本紀第二に、夏王朝を開いた禹が東巡し亡くなった地を「会稽」と名付けられたことが、この記の最後に書かれている。「会稽」は中国最古の王朝である夏王朝の禹と共に、古代の中国の人々にはなじみ深いものである。会稽山がある長江河口地域の郡で、会稽郡という郡がある。倭人の入墨という習慣の記述に「会稽」を登場させ、併せて倭人の位置を説明し、その後、風俗、髪、衣服、動植物、弓、鏃等の説明をし、南方の海南島の郡である儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と同じようだと述べ、倭人の風土・風俗の説明をしている。


 『三国史』(『魏志』)は、それまでに書かれた『史記』、『漢書』等の内容を踏まえて書かれており、読者も当然それを踏まえて読んでいる。特に、『漢書』が西域世界について詳しく述べ、西域世界の様子を初めて中国の人々に知らせた。これに対して、『三国史』(『魏志』)は、東夷とりわけ倭人の様子を初めて詳しく伝えることも目的として書かれている。
 『史記』に、夏王朝を開いた禹が東巡し会稽で亡くなったと書かれていることは述べた。『漢書』には、夏王朝の六代目の帝少康の子が会稽に封じられたとき、「文身断髪」し、「以って蛟龍の害を避く」と書かれている。また『史記』には、少康の子が会稽に封じられ、「以って禹の祀(祖先を祀る)を奉守す」、「草萊(雑草の茂った荒地)を披(ひら)きて邑(むら)とす」と書かれている。
 一方、『魏志』とほぼ同じ時代に書かれた『魏略』には、倭人は呉の太伯の後裔であると書かれている。この呉の太伯については、『史記』呉太伯世家に次の記事がある。佃氏の本での訳を書かせていただく。<呉の太伯と太伯の弟の仲雍は皆周の太王の子である。王李歴の兄である。李歴は賢明であり、またその子の昌は聖人となる瑞祥をもっていた。太伯は李歴を立てて王とし、さらにその子の昌に王位を継がせようと欲した。そこで、太伯と仲雍の二人は荊蛮の地へはしり、文身断髪し、用いることができない(王位を継ぐ意志のないこと)を示した。以て李歴を避けた。李歴は果して立つ(王位につく)。是が王李である。而して昌は文王となった。太伯は荊蛮の地へ行き、自ら句呉と号した。荊蛮の義(民)は従い、而して帰服するもの千餘家あり、(太伯を)立てて呉の太伯とした。>(倭人のルーツと渤海沿岸』復元シリーズ1p.283)倭人の祖とされる呉の太伯が文身断髪している。


 『漢書』は、夏王朝の中興の英主とされている帝少康の子が「会稽」に封じられたとき、「文身断髪」し、「以って蛟龍の害を避く」ことを記している。それを受けて、魏志倭人伝では、倭人が大魚や水禽を避けるために、顔や体に入墨をする習慣であることを紹介する。同じようなことをしているとして、読者の理解を容易にしている。また、この会稽の地は、倭人の祖とされる呉の太伯が居た長江流域の地域であり、太伯自身も文身断髪しており、長い年月の間も伝統が継続していることを、読者に感じさせる記事となる。このような意味をもって、「会稽」が登場する。
また、地理的にも、倭人たちが住んでいるのは、あの夏王朝を開いた禹が都の東で治した(東巡)とされる「会稽東治」(長江河口部付近)の「東に在る」とする。実際の地図で見ると、倭人が住んでいる九州島は「会稽東治」(長江河口部付近)の東北東にある。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? の佃説のところで見たように、当時の中国人の方位は、23度27分ずれているから、当時の中国の人たちが東と言った場合、実際の方角は東北東になる。「会稽東治の東に在る」という記述と合っている。


 「会稽」を出すことによって、倭人の入墨の習慣を歴史的にも理解させ易くし、併せて倭国の大まかな地理的な位置を説明している。やはり見事な文章と言うべきだろう。
さて、次に、范曄が文字を変えて「会稽東冶之東」としてしまった理由を考えてみよう。これについては、古田氏が③『「邪馬台国」はなかった』の中で、また、木佐氏が①『かくも明快な魏志倭人伝の中で詳しく論じている。会稽郡東冶県という地名が、台湾の対岸付近に実際にあった。「会稽東治」(長江河口部付近)に比べると随分南方にあたる。古田氏は、今の福建省(台湾の対岸)は会稽郡の中に入っていたが、永安3年(260年)にこの郡が分郡されて、建安郡と命名されたことを、『呉志』の記事から明らかにした。『魏志』が書かれたのは280年前後だから、永安3年(260年)の前は会稽郡東冶県であっても、それ以降の『魏志』の時代では建安郡東冶県となるはずで、「会稽東冶」という表現そのものが成り立たないことを示した。


 古田氏も木佐氏も、范曄がこのような誤りを犯したのは、范曄が長里で魏志倭人伝を読んでいるからだと説明する。木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝の中で「東晋以後の南朝は、短里から「長里」に復帰し、宋(420~479年)の范曄も「長里」で魏志倭人伝を読んでいるから、邪馬壹国の位置は実際よりはるかに南と受け取っている。(図10-2)」(p.342)と述べる。
 魏志倭人伝では、風俗や衣服、動植物、弓や鏃等の説明をした後、倭人の国は島国だから『漢書』に記された南方の海南島の郡である儋耳(たんじ)・朱崖(しゅがい)と風俗などが同じだと述べた。地理的に近いからではない。ところが、『後漢書』では、「会稽東冶之東」とした後、「與朱崖儋耳相近」<朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に相近し>と述べ、「故其法俗多同士」<それ故に其の法俗の多く同じである>としている。地理的に朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に近いから、法俗などが同じになると言っている。全く、范曄の理解は魏志倭人伝が伝えていることとは、原因になることが異なる。木佐氏は①『かくも明快な魏志倭人伝の図10-2で、実際に、魏志倭人伝が示す行路を長里でたどったときの邪馬壹国の位置を地図上に示している。それに依ると、邪馬壹国の位置は台湾より南になる。この地図を見ると、范曄が、倭国は朱崖(しゅがい)や儋耳(たんじ)に相近し、と述べたことが理解できる。同書の中では、朝鮮半島で作られ、このように日本列島が台湾より南に位置している地図も載せられている。(p.349)この辺のことをもっと詳しく知りたい方は、木佐氏の①『かくも明快な魏志倭人伝』を見ていただきたい。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察