魏志倭人伝

「魏志倭人伝」に書かれていることを、二つの本の内容を検討しながら、様々な観点から考察する

(8) 倭人、倭国とは何か

 魏志倭人伝の冒頭「倭人在帯方東南大海之中」とあるが、この時期よりずっと以前から倭人帯方郡の東南の大海中、すなわち日本列島に居たわけではない。例えば、鳥越憲三郎氏は『古代朝鮮と倭族』(中公新書の「はじめに」の中で次のように語っている。「稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれ、先住の縄文人を征して「倭国」を形成した。彼らの渡来は紀元前400~450年頃の縄文晩期と見られている。ところが、同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。『論衡』によると…」「中国大陸にいたという倭人は、一体どこに住んでいたのであろうか。その倭人の住地を探し求める調査研究の結果、長江上流域の四川・雲南・貴州の各省にかけて、いくつもの倭人の王国があったことを知った。」「彼ら倭人新石器時代の初めごろ、雲南省の滇地か、または周辺に点在する湖畔で、水稲の人工栽培に成功したとみられる。生産様式の異なりは、それに伴って特殊な文化を育成するが、その文化的特質の中でもっとも顕著なものは、水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案したことである。」「彼らはその稲作と高床式建物を携え、雲南から各河川を通じて東アジア・東南アジアへ向けて広く分布した。」「それらの倭族の中で、長江を通じて東方に向かった一団の中から、さらに朝鮮半島を経由して日本列島にまで辿り着いたのが、日本における弥生人、すなわち倭人である。」


 佃氏は、倭人を記録した最古の史書後漢の王充が書いた『論衡』であろうと、倭人のルーツと渡来ルート』復元シリーズ1(p.281)の中で述べている。「周時、天下太平。越裳献白雉、倭人貢鬯草。」(『論衡』「儒増篇」)(訳)<周の時、天下は太平。越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(香草)を貢ぐ。>「成王時、越裳献雉、倭人貢暢。」(『論衡』「恢国篇」)(訳)<成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢を貢ぐ。>この2つの記事は同じものだろうと、佃氏は述べ、周の2代目の成王の在位は前1115年~1106年であるから、紀元前12世紀に倭人周王朝に鬯草(香草)を貢いでいる、とする。
前の項で、『魏略』には、倭人は呉の太伯の後裔であると書かれている、と述べた。それを確認してみよう。「聞其旧語、自謂太伯之後。昔、夏后少康之子、封於会稽。断髪文身、以避蚊龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」(『魏略』)(訳)<昔からの言い伝えを聞くに、自ら(呉の)太伯の後裔であるという。昔、夏后少康の子が会稽に封じられた時、断髪し、文身(入れ墨)し、蚊や龍の害を避けた。今倭人も亦文身し、以って水害(魚類等の害)を厭うなり。>魏志倭人伝と同じように、倭人が文身(入墨)することを述べているが、同時に、倭人は、呉の太伯の後裔である、と述べている。佃氏は続いて、『史記』呉太伯世家に書かれた呉の太伯についての記事を示す。この記事については、前の項(7)で、その訳を書いた。太伯は没したが子がなかったので弟の仲雍が立ち、その3代後に周の武王が殷王朝を倒す。武王の次が成王であり、呉の太伯は周王朝が樹立される約100年位前の人物であると、佃氏は語る。


 倭人は呉の太伯の後裔であり、太伯の約100年後に、倭人は周の成王に朝貢している。「越裳献雉、倭人貢暢」とある様に、越と一緒に朝貢している。倭人は、越の隣の呉に居た。多くの論者(木佐敬久氏など)は、この倭人を日本列島に居たと解釈し、この時期、日本列島から周に香草を朝貢したとしている。しかし、『論衡』の他の記事から、暢(草)を特産とする地域は長江流域と考えられ、この点からも、倭人の居たのは中国呉地方である、と佃氏は述べる。
中国の史書に依れば、紀元前12世紀頃に、水田稲作技術もつ倭人は中国呉地方(長江流域)に居た。倭人たちは、いつからどの様に日本列島に渡来したのだろうか。


 魏志倭人伝に依れば、景初2年(238年)倭国である邪馬壹国の女王卑弥呼が、日本列島から魏王朝朝貢している。また、軍事的な要請により、魏から派遣された張政は約20年間に渡り、この日本列島にある倭国に滞在した。魏志倭人伝の時代には、倭人は日本列島に居る。
 一方、中国の正史では、『三国志』韓伝に初めて「倭国」が登場する。「韓在帯方郡之南。東西以海為限。南與倭接。方可4千里。」(『三国志』韓伝)韓は南に倭と接している、と述べている。同じく韓伝の記事。「桓霊之末、韓濊彊盛、郡懸不能制。民多流入韓国。建安中、公孫康分屯有懸以南荒地為帯方郡。遺公孫模・張瞥敞等、収集遺民、興兵伐韓濊。是後倭韓遂属帯方。」(訳)<桓帝霊帝の末に、韓と濊は彊く盛んになり、帯方郡やその懸は制することができなかった。民は多く韓国に流入する。建安中(196年~220年)になると、公孫康は屯有懸を分けて、南の荒地を以って帯方郡と為す。公孫模・張瞥敞等を遣わし、遺民を収集して、兵を興し韓と濊を伐つ。是の後、韓と倭は帯方郡に属す。>また、公孫康は204年に父公孫度の後を継ぐと帯方郡を設置している。


 前の記事の「韓は南に倭と接している」の解釈では、韓と倭が海を隔てていても「接する」という解釈ができるとする論者はいる。しかし、後の記事は「韓と倭は帯方郡に属す」とあり、公孫康は日本列島まで支配を拡げてはいないから、倭は朝鮮半島にあることが明確に分かる。倭は韓国と同じく、公孫康がつくった帯方郡に属している。204年の直後頃までは、「倭国」は朝鮮半島南部に存在していることが分かる。『三国志』弁辰伝からも同じことが確認できる。
 佃收氏は、天孫降臨、邪馬壹国の成立、神武東征などを一連の倭人たちの北部九州への到来と関連した出来事として理解し、⑥『新「日本の古代史」(上)』倭人のルーツと渤海沿岸』⑦『神武・崇神と初期ヤマト王権などで詳しく述べている。以下、佃氏の論説にしたがって、倭人たちの動きを見ていこう。


 千年以上の歳月をかけて中国呉地方(長江流域)から中国大陸をまわり、渤海沿岸、朝鮮半島を経て、朝鮮半島南部から主に九州に渡来した倭人の氏族、「天氏」と「卑弥氏」がある。「天氏」は大和朝廷を築いた氏族であり、神武天皇を初代天皇として掲げている。「卑弥氏」は卑弥呼の邪馬壹国などを築いた氏族である。紀元前12世紀頃には、ともに呉の太伯の領地に住んでいたとされる倭人達である。
 紀元前120年頃に朝鮮半島から倭人(天氏)が北部九州に大量に渡来する。邇邇藝命(ニニギノミコト)は筑紫(吉武高木遺跡)に天孫降臨する。天火明命(ホノアカリノミコト)は北九州に天孫降臨する。元帥火須勢理命(ホノスセリノコト)は佐賀県南部に天孫降臨する。渡来人がもたらした新たな文化により、弥生時代中期が始まる。その中頃になると、「天氏」は二派(海幸彦と山幸彦)に分かれ、勝利した山幸彦は福岡県前原市に移り伊都国を建設する。邪馬壹国が建設される直前の北部九州は伊都国が支配している。魏志倭人伝で副官に「卑奴母離」が記されていることからから分かるように、対海国、一大国、奴国、不彌国は伊都国が支配している。同じ倭人でも、「卑弥氏」は倭国を名乗るが、「天氏」は倭国を名乗らない傾向にあり、伊都国は「天氏」だから、倭人であっても倭国を名乗らない。


 『後漢書』で、建武中元2年(57年)に倭奴国後漢に朝賀する記事の後に「倭奴国倭国の極南界なり」と范曄は記す。志賀島から金印が見つかっており、倭奴国は九州の最北にあると考えられる。「倭国」が九州にあるとすると「倭国の極南界」と言う表現はおかしい。しかし、後漢の時代に「倭国」は基本的に朝鮮半島南部にあるから、博多湾に面した倭奴国は「倭国の極南界」となり得る。また、安帝永初元年(107年)倭国王師升が生口160人を献じ請見を願う、という記事がある。この「倭国」も朝鮮半島南部にある「倭国」である。実際、生口160人を連れて行くには、更に多くの、逃げるのを見張り連行する人数が必要になる。これだけの人数を九州から運んでいくことは丸木舟を輸送手段とする国にはできない。卑弥呼や壹與の朝貢のときの生口の数と比べて見ればよく分かる、と佃氏は述べる。
 魏志倭人伝に「其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱。相攻伐暦年、及共立一女子為王。名曰卑弥呼。」とある。また、『梁書』倭伝に「漢霊帝光和中(178年~183年)、倭国乱。相攻伐暦年。乃共立一女子卑弥呼為王。」とある。倭国が乱れるのは、178年~183年である。霊帝の在位が168年~188年だから、「霊帝の末」に当たる。この時期は、韓と濊は彊く盛んになり、近隣諸国を侵略する。倭国が韓国に侵略されて、倭国は大いに乱れる。これを、「倭国乱」と表現していると、佃氏は語る。倭国王師升が後漢に請見を願ったのは107年だから、倭国が乱れる前の70,80年間、つまり西暦98年頃~177年頃は確かに師升を含む男子が王として朝鮮半島南部で統治していたのだろう。その後の経過は次のようになる。


(1) 後漢時代の「倭国」は朝鮮半島南部にあった。
(2) 204年の直後頃、朝鮮半島南の「倭国」は公孫康に伐たれてその支配下に入る。
(3) 「倭国」は公孫康の支配を嫌い、戦うが敗れる。
(4) 220年~230年頃、卑弥呼も「倭国」の人々と北部九州に逃げてくる。
(5) 北部九州では、すでに支配を確立していた伊都国と戦いになり、伊都国に勝利する。魏志倭人伝では「相攻伐暦年」の後に「共立」されて卑弥呼は「女王」になると書かれている。
(6) 景初2年(238年)卑弥呼朝貢して、「親魏倭王」に任命され、「北部九州の倭国」を誕生させる。卑弥呼は北部九州に「倭国」を再興している。
景初2年(238年)の朝貢の前と後では、魏志倭人伝では陳寿がはっきりと表現を変えていることを、佃氏は指摘する。朝貢の前では、女王国、女王、王という表現しかしていない。ところが、朝貢以降の記事では、倭女王、倭王、の表現をしている。かつて、朝鮮半島南部にあった「倭国」は、卑弥呼が景初2年に朝貢して、魏が「親魏倭王」と認めた時から、「倭国」は九州北部にあるようになった、と述べる。


 以上、⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.359~)の中の論文「「朝鮮半島の倭」から「北部九州の倭」へ-倭国王師升・「倭国大乱」は朝鮮半島-」の叙述に従ってまとめてみた。
そして、卑弥呼が死去して次の男王が立ったとき、伊都国は邪馬壹国に対して反乱を起こし、再び敗れる。その結果、天氏は250年~265年頃神武東征を起こした、と佃氏は述べる。(詳しい説明は、⑥参照)天孫降臨と神武東征は「天氏」によって行なわれている。邪馬壹国の成立と倭の五王の統治は「卑弥氏」によってなされた。(卑弥呼倭の五王はともに「卑弥氏」ではあるが、直接的な関係はない)佃氏は、天孫降臨、邪馬壹国、神武東征、崇神天皇の支配、神功皇后の事績、倭の五王の支配等を切り離したそれぞれの歴史的事象と捉えず、一続きの関連のある歴史的事柄として捉えている。この点で、私たちには大変参考になる。

 

 以上(1)~(8)まで魏志倭人伝において、よく論じられる点について各氏の見解をまとめてみた。一つの「行く」、という叙述に対して、「出発点はどこか」、「到着点はどこか」、「どんな様子で行ったのか」、「期間はどの位かかったのか」、「理由は何か」、…など多くの論点が出てくる。また、漢文の解釈では、区切る位置によって意味が異なってくる。ここに掲げた6名の方々の説は、着眼点や展開に関して、読んでみるとどれもさすがと思わずにはいられないようなものばかりであった。勿論、重要な論点はここで取り上げたものだけではない。必要なことは、現在の自分たちと結論が異なる説に対しても、注意深く、説を展開する相手の内側から見てその説を検討し、自分たちの見解と見比べながら、より説得力のある論を創り出していくことである。相手の問題意識の核心をしっかりと受け留め、その核心から論考全体を再構成するという作業を行った後に、自分たちの論考と比較検討し、より総合的な観点から結論を導きだす必要がある。
 以前は、古文書などを見ることは、限られた施設や機関などでしか可能ではなかったが、今はインターネットの発達などにより、多くの人にとって可能となって、一部の人たちの独占物ではなくなった。また、最近では中国大陸や朝鮮半島での考古学的な情報も得ることができる。自分たちの歴史を創り出していくことが、ようやく可能になっている。そこで創り出されたものは、私達の未来を大きく方向付けるのだろう。多くの人達の力を合わせて、新たな「日本史」を作り出していきたい。

 

  魏志倭人伝レポート

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察