魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

(6) 狗奴国の位置

 次に、狗奴国の位置について考察してみよう。
 21ヶ国の名が記される最後に「…有奴国此女王境界所尽」と述べ,続いて「其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王」と述べ、「自郡至女王国萬二千餘里」と続く。また、倭人伝の最後の方で、魏の張政が派遣される直前に「倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和」と記されている「狗奴国」の位置についてである。
 (4)それぞれの国の位置の比定のところで見たように、古田武彦氏は邪馬壹国の位置を博多と比定し、博多よりはるか東の大阪府茨木市を狗奴国の位置としている。また、孫栄健氏は女王国より東の海を渡った所としている。魏志倭人伝の150年ほど後に范曄が書いた『後漢書』倭伝には、朱儒国や裸国、黒歯国があることを記したすぐ前の文に「自女王国東渡海千余里狗奴国雖皆倭種不属女王」とあることから、両氏は女王国の東に「狗奴国」の位置を比定している。
 他の4氏は、九州の中で邪馬壹国より南の地方を揚げている。


 佃氏は、「其南有狗奴国…」の「其」は従来「奴国」とされてきたが、邪馬壹国であるとする。なぜなら、その前の「女王之所都……次有奴国此女王境界所尽」は、邪馬壹国の<説明部分>であるから、「其」は「邪馬壹国」である。したがって、狗奴国は邪馬壹国の南にあり、距離が書かれていないので、狗奴国は南側に接しているとする。また、『魏略』にも「女王之南、又有狗奴国。以男子為王。」と書かれていることを確認している。(⑦『伊都国と渡来邪馬壹国』p.47)
 また、『桓檀古記』高句麗本紀の中から、次の文を示している。「時狗奴人與女王相争。索路甚厳。其欲往狗邪韓者蓋由津島、加羅山、志加島、始得到末盧戸資之境、其東界、即乃狗邪韓国也。」
(訳)<狗奴国は女王国と相争い、博多湾に出る道を塞がれた。狗邪韓国へ行こうとすると、津島・加羅山・志加島を経由して朝鮮半島の末盧戸資之境に到る。その東に狗邪韓国があるという。>本来、狗奴国は壱岐対馬を通り狗邪韓国に行っていた。ところが、邪馬壹国に邪魔されるので、壱岐対馬ルートよりも別の西のルートで朝鮮半島に行くようになった。邪魔をする邪馬壹国は博多の南の大野城市筑紫野市付近にある。そこを通過することが出来なくなった。狗奴国は邪馬壹国の南にあるからであると述べる。


 更に佃氏は論を進めて、狗奴国は筑後川より南にはないとする。もし、筑後川より南にあるのなら、最初から筑後川に入り、有明海から直接狗邪韓国に行くだろう。筑後川に入り、川から上がり、筑紫野市大野城市を通り、博多湾に出て、船を調達して狗邪韓国に行くようなことはしないからだとする。【Ⅲ】(2)「末盧国」で上陸した港はどこか? での佃氏の論考のところで示したように、この時代の方向は23度27分修正しなくてはならない。そうすると、邪馬壹国の南側に接していると記しているから、狗奴国の位置は甘木市朝倉町辺りになるとする。この地域は、安本氏が邪馬壹国があったと比定している地域である。
 次に佃氏は『契丹古伝』の次の記述に注目する。「洲鮮記曰、乃云、訪于辰之墟、娜彼逸豫臺米與民率為末合。空山鵑叫、風江星冷。駕言覧乎。其東藩封焉。彼丘不知、是誰行。無弔人。秦城寂存。嘻辰(ウン)氏殷、今将安在。茫茫萬古、詞綫之感、有座俟眞人之俟興而已矣。」(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.336)詳細はこの本を参照してほしいが、邪馬壹国が滅亡したことを示している。「辰之墟」は邪馬壹国のことである。「逸豫」は「壹與(いつよ)」であり、「娜彼逸豫臺米與民率為末合」は、次のように訳すことができる。「娜彼」の「壹與(いつよ)」と「臺米」は民を率いて(邪馬壹国を出て行き)もう二度と会うことはない。続く文の訳を、佃氏の本から写してみよう。<空山に鵑(ほととぎす)は叫び、風や江(川)や星は冷たい。駕言覧乎。其東藩封焉。彼の丘は是れ誰が行くかを知らず。弔人無し。秦の城は寂しく存す。嘻(ああ)、辰(ウン)氏殷、今将に安(いずくに)か在る。茫茫(ぼうぼう)たる萬古、詞綫之感。座して眞人の興るを俟(ま)つ有る已(のみ)矣。>


 正始8年(247年)狗奴国との戦いについて郡に報告後、張政が派遣される。その後、266年に魏から晋へと中国王朝が替わる為、張政は帰国する。「女王壹與」は、張政を送り帰すと共に朝貢しているが、これ以降、中国の史書に邪馬壹国も「女王壹與」も出てこない。『契丹古伝』の記事から、3世紀後半に邪馬壹国は、狗奴国と戦い、滅亡していると考えられる。
 一方、4世紀になると、北部九州は「熊襲」が支配しており、景行天皇仲哀天皇神功皇后等による「熊襲征伐」が行なわれると、記紀は示している。佃氏は、記紀が示す「熊襲」は、狗奴国であろうとする。狗奴国は邪馬壹国を滅ぼし、もともとの甘木市朝倉町辺りから邪馬壹国の支配領域であった春日市大野城市筑紫野市辺りまで支配するようになる。
 狗奴(クナ)はその後「隈(クマ)」と呼ばれて、狗奴国は「熊襲」となったのだろうとする。福岡県、佐賀県で「隈」の字が付く地名は「熊襲」が住んでいたところである。福岡市西区、博多区大野城市、筑紫野郡那珂川町筑紫野市小郡市朝倉郡夜須町朝倉郡三輪町、甘木市三井郡大方洗町、佐賀県三養基郡北茂安町などの「隈」の字が付く地名が示されている。(⑥『新「日本の古代史」(上)』p.207)狗奴国は邪馬壹国の南に接していて、甘木市朝倉町辺りにあったとする佃氏の説は4世紀の日本について書かれた記紀の記述と合致している。


 狗奴国の位置について、木佐氏は鹿児島県・宮崎県とし、安本氏は肥後・熊本平野とし、高木氏は鹿児島県としている。4世紀神功皇后熊襲征伐をした領域は、ほとんどが筑後川以北の地域であるから、狗奴国は邪馬壹国を滅ぼして、筑前肥前に住み着いていたと考えられる。すると、木佐氏、安本氏、高木氏の比定は南方に偏り過ぎている、と私たちには思われる。
 卑弥呼の墓の位置について佃氏は、福岡県小郡市の津古にある「津古生掛(つくしょうかけ)古墳」であろうとしている。⑥『新「日本の古代史」(上)』(p.335~)に載せられている論文「私案「卑弥呼の墓」-津古生掛古墳と「径百餘歩」-」に詳しい記述がある。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察