魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<第6章 「従郡至倭」と起点と経由>

 最初の行路記事「従郡至倭・・・狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至対海国。」について述べる。杜甫の五言律詩「春望」、李白の七言古詩「長恨歌」を例に挙げ、倭人伝冒頭からのリズムを解説する。意味内容とリズムがマッチして、韻が見事に踏まれた倭人伝の文章は名文であることが分かる。通説(岩波文庫の『魏志倭人伝』等)では「従郡至倭」を「郡より倭に至るには」と訳しているが、木佐氏は「郡を通って倭に至るには」としなければならないとする。また、この文はどこで区切られるかについて、通説では「・・・狗邪韓国 七千余里。」で区切られるとされているが、更に続いて「・・・千余里 至対海国。」までが一区切りであると主張する。文のリズム、内容から考えて、この様に区切るべきで、これは中華書局標点本での区切りとも一致していると述べる。


 次に「従郡至倭」を通説では、「倭の都に至る」と解釈しているが、正確には「倭の入口に至る」ことを意味するとする。東夷伝での記述例を検討し、国と国の距離は境界から境界までの距離を示していることを確認し、併せて、東夷伝高句麗や扶余などの記述に短里が用いられていることを示している。
 「従」は「通って」という経由の意味を表し、「自」は起点を表す。ところが、通説は長い間「従」は起点を表すと誤読してきたと述べ、『三国志』における「従」と「自」の全用例を調べて結果を示している。このように丹念な論述には頭が下がる思いがする。副産物として、『魏志』巻15と『魏志』巻9で、短里が使われている例を示している。

 

<第7章  狗邪韓国と「七千余里の論証」>


 この章では、いくつかの点に関して、漢文の解釈での著者の見解を述べている。最初は「乍南乍東」。通説では、南行と東行を小刻みに繰り返すことになり、通説に基づく古田氏の「韓地陸行説」を批判する。いくつかの文例を検討し、一連の動きが急に起こる一回の現象を表しているとし、「急に南に進路を変えて、そのまま南行し、次は急に東に進路を変えてそのまま東行する」と解している。
 次は「其北岸」。現在は、陸地を規準として岸の方向を呼ぶのが普通になっているが、『三国志』の時代では、陸地を規準とした方向の呼び方はまだ成立しておらず、水域を規準として方向が呼ばれているとする。『三国志』などから多くの文例を挙げ、「対海国の領海の北岸」の意味であり、「対海国の北の対岸」と訳すと述べる。
 次は「到」と「至」の違いについてである。『学研漢和大字典』の説明に依って、「至」はまっすぐ届くことを意味し、「到」は曲折をしながら届く、の意味であるとする。他の論者達が「至」は単に至るという意味で、「到」は実際に到着するという意味であると解釈したのとは対照的である。


 通説に依れば、「七千余里」の起点は帯方郡治(ソウル)であり、終点の狗邪韓国は東南端の「釜山」である。そうすると、韓は「方四千里」即ち縦横四千里だから、縦横を合わせて八千里となって「七千余里」を優にオーバーする。従って、この説は成立しない。まず終点は、「釜山」ではなく、「統営」(秀吉が朝鮮に出兵した時に、大海戦の戦場になり、以来水軍の本拠地になった地)であるとする。「統営」(トンヨン)は、韓の西南端から約三千里である。また、出発点は、『後漢書』の范曄が正しく理解していたように、「帯方郡境」であるとする。「帯方郡境」から狗邪韓国がある「統営」までが「七千余里」であるとする。
また、帯方郡治(ソウル)から「帯方郡境」(韓の西北端)まで100Km位であるから、短里で約1300里ある。陳寿がこれをどうして記していないか、の理由については、帯方郡は中国領であり、中国人には既知の情報であるため、わざわざ書く方が不自然であった、と木佐氏は述べる。更に、帯方郡治があったのはソウルと沙里院の両説があるが、地理的にも文献的にもソウルと考えられるとする。


 東夷伝の韓伝は次の文で始まる。「韓在帯方之南 東西以海為限 南与倭接 方四千里。」ちくま学芸文庫は、次の様に訳している。「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接して、その広さは縦横四千里ばかりである。」この記述などから、韓の南岸部に倭地があった、という説が出ているとする。いくつかの文章を検討し、「接」が使われていても接していない例が多く見られ、「接」は敵対関係も含めた国際関係の存在を示している、と述べる。そのことから、倭地は朝鮮半島には無く、狗邪韓国も倭地ではない、と木佐氏は述べる。


 この章の最後に、韓伝での辰韓十二国と弁辰十二国の合計数が合わず、重複もあるが、こうなった原因について、木佐氏の見解を述べている。(これについては、【Ⅳ】(1)1章参照)
 木佐氏は「七千余里の論証」として、次の6点をまとめているので、それを簡潔に記しておこう。(1)「七千余里」の起点は帯方郡境である。(2)「七千余里」の里数は「暦韓国」の里数である。(3)「帯方郡」は沙里院にはなく、ソウルにあった。(4)「乍南乍東」はジグザクの沿岸航海ではなく、韓の西岸と南岸の直行行路である。(5)「狗邪韓国」の位置は、統営付近である。(6)「帯方郡治~女王国」の部分里程の不足「千三百里」は「帯方郡治~韓境(帯方郡境)」の里程である。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察