魏志倭人伝

「魏志倭人伝」の二著の批評

<第10章 倭国の風土と外交>

 倭人が地位に関係なく皆、体や顔に入墨をしている習慣があることを、中国の人々によく知られている『史記』や『漢書』に書かれている「会稽」での記事を用いて説明している。また、倭国は地理的に「会稽東治」の東に在ると述べている。この内容については【Ⅲ】(7)「会稽東治之東」 のところで詳しく述べている。この章の冒頭、この部分の漢文のリズムについての説明も心地よい。
 原文の「会稽東治之東」は「会稽東冶之東」の誤りだとして、定説では「会稽東冶之東」とされている。これについては、范曄が『後漢書』で「会稽東冶之東」と字を直したことが作用している。范曄がどうして字を変えてしまったのかについての本書の考察は、【Ⅲ】(7)「会稽東治之東」 のところで示したように、『三国志』が書かれた東晋の時代は短里が使われていたが、范曄の属する宋(420~479年)の時代は短里から長里に復帰し、范曄は長里で魏志倭人伝を読んだので、倭が実際よりはるかに南に位置するとした誤りが生じたと、木佐氏は述べ、実際に、長里で考えた場合の倭の位置について地図上で確認している。(p.348)また、1402年に『後漢書』に基づいて、朝鮮で作られた地図を掲載している。(p.349)この地図では、確かに日本が「会稽東冶之東」に位置している。


 倭人伝の後半部分に入り、岩波文庫魏志倭人伝』の誤訳をかなり多くの点で指摘している。「婦人は淫らでなく、嫉妬もしない」という文の後の「不盗窃 少諍訟」を婦人の行為として岩波文庫は解釈しているが、これは婦人の行為というより、社会一般の話と理解し、次の法律を犯すものについての刑法的な文に繋げるべきであると述べる。また、刑が重い者には門戸及び宗族を滅すると岩波文庫は解釈しているが、門戸と宗族は同じような意味だから、門戸のところで区切り、「及 宗族」は次の文「尊卑」につなげるべきで、「宗族の尊卑に及べば」、と訳すべきであると言う。そうしないと、対句のリズムが台無しになってしまうと指摘する。この他の指摘についても、妥当であると感じられる点が多い。


 この章の最後に、難升米と卑弥呼の関係について述べている。正始6年(245年)、倭難升米に「黄幢」が詔賜され、帯方郡に付される。「黄幢」が詔賜されるのは、蛮夷では他に例を見ないほどの特別扱いであり、「刺史や倭王武に相当する高位にのぼったことになり、「親魏倭王」の卑弥呼と少なくとも同格、実際はやや上回ると見てよい。」(p.368)とする。更に、「魏は狗奴国との戦乱の収拾を難升米に託した。魏は、卑弥呼を見限ったのである。「卑弥呼、以って(=このようなわけで)死す」は、卑弥呼の追い詰められた死を示す。卑弥呼のような「王」の死亡を「薨」ではなく、「死」と表すのは異例だ。」(p.368)と述べる。


 こう言い切ってしまっていいのか、少し不安になる。というのも、正始8年(247年)に倭載斬烏越を帯方郡に派遣するのは卑弥呼である。正始6年(245年)の段階で、魏に見限られているとすれば、派遣するのは難升米になるのではないだろうか。もちろん、難升米の評価が上がっていることは否めないが、卑弥呼が見限られて、追い詰められて死んだとは言えないのではないだろうか。狗奴国との不和は、卑弥呼個人の問題ではなく、邪馬壹国と狗奴国の問題であることは、狗奴国がこの後、「熊襲」として、日本史に登場してくることからも明らかではないだろうか。また、もしこのような死に方をしたなら、百余人の奴婢を徇葬者とした冢が作られるだろうか。卑弥呼は、狗奴国との戦争で、重傷を負うかして、戦死したのではないかと私たちは考えているのだが…。

  日本古代史の復元 -佃收著作集-

  日本古代史についての考察