古田武彦氏は、『魏志』斉王紀に「俾弥呼」と記されていることから、卑弥呼ではなく、卑の字に人偏のついた「俾弥呼」が女王の正式名称であると述べ、更に、「ヒミコ」ではなく、「ヒミカ」と読むべきだと主張した。(⑤『俾弥呼』(古田武彦著))これに対して、倭人伝に記された明帝の詔書は、斉王紀の記事より5年早い記事であり、詔書は卑弥呼本人に宛てた形式を取っている正式文書であるなどの理由を明確に述べ、古田氏の主張は当たらないとする。
「其国 本亦 以男子 為王 住七八十年」の「本」は「昔」の意味ではなく、「始まり」という意味であり、この文は、男王という制度が建国以来七八十年続いた、と解さなければならないと述べる。続く文「倭国 乱 相攻伐 暦年」の中の「暦年」の全用例調査を行い、「暦年」の意味は足かけ7~9年の可能性が高いとして、倭国の乱が足かけ7~9年続いたとする。
次に、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀、阿達羅尼師今に書かれている、173年に卑弥呼が新羅に使者を派遣してきたという記事を挙げ、この記事は干支の一周期60年分ずれていて、233年に遣使しているとする。また、即位直後に遣使したと考えられるから、即位は233年頃となる。
以上の考察の結果、女王国の建国は150年前後と見ることができ、女王国の始まりが魏志倭人伝に記載されていることになる。また、「倭国乱」の開始は220年代の中頃から230年代初めであり、魏・蜀・呉の三国が出そろったのは222年であることから、これは三国時代の初めの混乱期と重なっているとする。
ところが、通説は『後漢書』と『梁書』の記述をもとに、2世紀半ばに「倭国大乱」があったとし、「桓霊の間」を「桓帝と霊帝の全期間」と解釈し、「146年~189年」の44年間が「大乱の期間」としている、と指摘する。用例を検討した結果、「桓霊の間」は二帝の交代時期を表し、167年~168年前後を表すとする。まず、『後漢書』の著者の范曄、『梁書』の著者の姚思廉が、倭人伝の記事を誤まって読んでいること、次に「邪馬台国」学者が「桓霊の間」を過って解釈していることなどから、この様な通説の誤りが生じたと述べる。
この結果、「倭大乱」は2世紀ではなく、3世紀が正しいと木佐氏は主張する。【Ⅲ】(8)倭人、倭国とは何か のところで触れたが、『三国志』韓伝で、建安中(196年~220年)に韓と倭が帯方郡に属す、と述べた記事がある。木佐氏の説は、同じく通説と異なる見解である佃氏の見解とも異なっていることは分かったが、この『三国志』韓伝の記事とどのように整合性をつけることができるのか、疑問に思った。
最後に卑弥呼の年齢を推定している。「年已長大 無夫婿」と書かれていることから、「長大」が使用されている『三国志』の文例を検討するなどして、この文は「結婚して当然の二十歳を既に過ぎていたのに、結婚していなかった」という意味であるとしている。233年に、15歳~17歳で即位し、死去を正始8年(247年)とすると、29~31歳の女盛りで亡くなった事になるとする。